峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

ハインリッヒ・イザーク没後500年...

2017-12-31 22:24:35 | 音楽

手遅れになるほど遅ればせですが、はじめに、こちらを...

 

 

*タリス・スコラーズが歌うイサークの『いと賢明なる乙女よ...』...

 

 

「今週日曜日にやってくるハインリッヒ・イザークの没後500年を祝うために、このヴィデオをシェアしてください...」と書いてあるとおり、後三時間ほどで終わる2017年は、ルネサンス期フランドルを代表する作曲家、ハインリッヒ・イザークの没後500年...

このクリップのモテット『いと賢明なる乙女よ...』、演奏も抜群に良いのですが、とても素晴らしい作品ですね...

歌詞は、カトリックのウィーン司教だったゲオルク・フォン・スラトコニア(Georg von Slatkonia ; Jurij Slatkonja:1456-1522) まさしく、イザークの同時代人、宗教改革の時代の人です。

 
 
ハインリッヒ・イザーク(Heinrich Isaac;ca.1450-1517)は、同時代に活躍したジョスカン・デ・プレ(Josquin Des Prez; Josquin des Prés, Josquin des Pres, Josquin Desprez;1450/55-1521)の巨大な影に隠れてしまいがちですが、双び立って同時代を代表する作曲家です。
 
パリ、ローマを中心に広く活躍したジョスカンと異なり、イザークはインスブルックを皮切りに、ドイツ、フィレンツェを中心に活動した人です。イザーク自身は、遺言状で自らをUgonis de Flandria(フランドル出身のHugoの子)と書いているといいますから、出身はフランドル。いまでいうベルギーとオランダにまたがる地域、ブラバント公国の出身ではないかと言われています。

 

フィレンツェでは、「豪華王(イル・マニフィコ)」と呼ばれたメディチ家全盛期の当主、ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de'Medici,Lorenzo il Magnifico;1449-1492)の宮廷音楽家となり、宮廷楽長兼オルガン奏者、そしてロレンツォの子供たちの家庭教師も務めています。

1495年1月に、ピエロ・ベロ(Piero Bello)が娘バルトロメア(Bartolomea)の婚資をイザークに贈ったという記録が残されているそうですが、このピエロ・ベロという人物はメディチ銀行の有力な顧客のひとり。

それゆえ、このピエロ・ベロの娘とイザークの結婚を仲介したのは、ロレンツォ・デ・メディチではないかと言われています。いずれにしても、ロレンツォとの付き合いはプライベートでも相当深いものであったであろうと推測されます。

 

 

ロレンツォの死後、息子ピエロ・デ・メディチはフランス王シャルル8世のナポリ王国侵攻に対して抗戦せず、独断でフィレンツェを開城してしまい、フィレンツェ市民の怒りを買ったメディチ家は追放されてメディチ銀行は破産...
 
 
 
イザークはここでフィレンツェを離れて神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世(Maximilian I;1459-1519)に仕え、ドイツ語圏での活躍を開始します...
 
マクシミリアン1世はハプスブルク家繁栄の礎を築き「マクシミリアン大帝(Maximilian der Große)」と讃えられる名君。武勇に優れるだけではなく、芸術にも深い理解を示し、「中世最後の騎士」とも称される人物で、ローマ王、オーストリア大公を兼ねてもおり、イザークの名声はこの時に一気にイタリア、ドイツ、オーストリアと広まったことだと思われます。
じっさい、イザークは Arrigo d'Ugo、 Arrigo il Tedesco (ArrigoはHeinrichのイタリア読み、Tedescoはイタリア語でフランドル人またはドイツ人の意) 等の名でも知られ、イザークという名前に関しても Isaak、Ysaac、Ysaakといったスペルでも記録が残されているといいます。また、イザーク没後それほど時を経ていない16世紀に、スイスの音楽理論家ハインリヒ・グラレアヌス(Heinrich Glarean;1488-1563)が、イザークのことをドイツ人ヘンリクス・イサーク(Henricus Isaac Germanus)と紹介していると言います。

イザークは、ドイツ音楽の伝統や習慣を取り込みつつ、ドイツ語テキストにも数多く付曲しており、音楽史上、本格的なドイツ語歌曲を創作した最初の人物でもあると言われています。

ロレンツィオ・イル・マニフィコといい、マクシミリアン大帝といい、イザークは良い君主に仕えています。

結局イザークは1514年にフィレンツェに戻り、フィレンツェで亡くなりました。
 
 
同時代のあらゆる技法、あらゆる形式に通じていた、とされるほどの恐ろしいほどの幅の広さを誇ったジョスカンには及ばないものの、宗教作品から世俗音楽、声楽、器楽とイザークも多彩な作品を残す多作な作曲家です。
 
さて、
そのイザークの代表作と言えば、リート『インスブルックよ、さらば(Innsbruck, ich muß dich lassen)です。
 
 

*ハインリッヒ・イザーク:『インスブルックよ、さらば...』...

 

インスブルックよ、さらば
我は 遠く異国の地へと向けて 旅出つ
我が喜びは失われ
もはや得るすべを知らない
この惨めさよ

いま、大いなる悲しみに耐えざるを得ず
その悲しみを分かち合えるのは、
最愛の貴女のみ
ああ愛しき女よ 惨めなる我を
その情深き心もて包み給え
離れなければならぬこの身を

あらゆる女にも勝る 我が慰め
我は永久に貴女のもの
誠実に、誉高くあれ
御身に神のご加護あれ
徳高く保たれんことを
いつかわたしが帰る日まで...

 

この美しい作品、歌詞は、マクシミリアン1世が、1493年8月、父フリードリヒ3世(在位:1452-1493)の崩御によって神聖ローマ帝国皇帝に即位することになり、愛する都インスブルックを去ってウィーンへ赴かなければならなくなった悲しみを、自ら作詞したものとも言われています。

因みに、この肖像はアルブレヒト・デューラーが描いたマクシミリアン1世...

誤って、イザークの肖像画とされている場合がありますが、実はイザークは肖像が残っていないようです。

 

一方、メロディーはイザークの作曲ではないと言います。楽譜も二種類が伝わっており、当時の流行歌、民謡のように人口に膾炙した音楽を編曲したのではないかと言われています。

しかし、心に残る旋律だからでしょうルター派のコラール『おお世よ、われ汝より離れざるを得ず(O Welt, ich muß dich lassen)』に用いられ、さらに、J.S.バッハのカンタータ『我がすべての行いに(In allen meinen Taten, BWV 97)』(1734) や『マタイ受難曲』に引用され、ブラームスによってもオルガン作品に引用されています。


イザークの作品、こちらは縁の深かった、ロレンツォ・イル・マニフィコの死を悼む音楽...荘厳、痛切な作品です。


*ハインリッヒ・イザーク:『ロレンツォ豪華王の死を悼むラメント』...

 

一方、こうした世俗作品ではガラッと異なる貌を見せています。

 

*ハインリッヒ・イサーク:『さあ、戦だ...』...

 

少し長いですが、本格的なミサを...

 

*ハインリッヒ・イザーク:『使徒たちのミサ』...

 

最後に、こちらも...

 

*ハインリッヒ・イザーク:『絶望的な運命』...

 

こちらは、本当はイザークの作品ではなく、弟子のルートヴィッヒ・ゼンフル(Ludwig Senfl;1486-1542)のものだといいますが、とても美しい作品です。



このゼンフルは、イザークのライフワークにして最大の作品である『コラリス・コンスタンティヌス』の写譜を担当し、未完の内にイザークがこの世を去ると補筆して実用版をまとめ上げた人物です。ルターとも親交があり、プロテスタントに改宗するまでは行かなかったものの、プロテスタントに寛容であったミュンヘンに移り、そこで生涯を終えました。