手遅れになるほど遅ればせですが、はじめに、こちらを...
*タリス・スコラーズが歌うイサークの『いと賢明なる乙女よ...』...
「今週日曜日にやってくるハインリッヒ・イザークの没後500年を祝うために、このヴィデオをシェアしてください...」と書いてあるとおり、後三時間ほどで終わる2017年は、ルネサンス期フランドルを代表する作曲家、ハインリッヒ・イザークの没後500年...
このクリップのモテット『いと賢明なる乙女よ...』、演奏も抜群に良いのですが、とても素晴らしい作品ですね...
歌詞は、カトリックのウィーン司教だったゲオルク・フォン・スラトコニア(Georg von Slatkonia ; Jurij Slatkonja:1456-1522) まさしく、イザークの同時代人、宗教改革の時代の人です。
フィレンツェでは、「豪華王(イル・マニフィコ)」と呼ばれたメディチ家全盛期の当主、ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de'Medici,Lorenzo il Magnifico;1449-1492)の宮廷音楽家となり、宮廷楽長兼オルガン奏者、そしてロレンツォの子供たちの家庭教師も務めています。
1495年1月に、ピエロ・ベロ(Piero Bello)が娘バルトロメア(Bartolomea)の婚資をイザークに贈ったという記録が残されているそうですが、このピエロ・ベロという人物はメディチ銀行の有力な顧客のひとり。
それゆえ、このピエロ・ベロの娘とイザークの結婚を仲介したのは、ロレンツォ・デ・メディチではないかと言われています。いずれにしても、ロレンツォとの付き合いはプライベートでも相当深いものであったであろうと推測されます。
イザークは、ドイツ音楽の伝統や習慣を取り込みつつ、ドイツ語テキストにも数多く付曲しており、音楽史上、本格的なドイツ語歌曲を創作した最初の人物でもあると言われています。
ロレンツィオ・イル・マニフィコといい、マクシミリアン大帝といい、イザークは良い君主に仕えています。
*ハインリッヒ・イザーク:『インスブルックよ、さらば...』...
インスブルックよ、さらば
我は 遠く異国の地へと向けて 旅出つ
我が喜びは失われ
もはや得るすべを知らない
この惨めさよ
いま、大いなる悲しみに耐えざるを得ず
その悲しみを分かち合えるのは、
最愛の貴女のみ
ああ愛しき女よ 惨めなる我を
その情深き心もて包み給え
離れなければならぬこの身を
あらゆる女にも勝る 我が慰め
我は永久に貴女のもの
誠実に、誉高くあれ
御身に神のご加護あれ
徳高く保たれんことを
いつかわたしが帰る日まで...
この美しい作品、歌詞は、マクシミリアン1世が、1493年8月、父フリードリヒ3世(在位:1452-1493)の崩御によって神聖ローマ帝国皇帝に即位することになり、愛する都インスブルックを去ってウィーンへ赴かなければならなくなった悲しみを、自ら作詞したものとも言われています。
因みに、この肖像はアルブレヒト・デューラーが描いたマクシミリアン1世...
誤って、イザークの肖像画とされている場合がありますが、実はイザークは肖像が残っていないようです。
一方、メロディーはイザークの作曲ではないと言います。楽譜も二種類が伝わっており、当時の流行歌、民謡のように人口に膾炙した音楽を編曲したのではないかと言われています。
しかし、心に残る旋律だからでしょうルター派のコラール『おお世よ、われ汝より離れざるを得ず(O Welt, ich muß dich lassen)』に用いられ、さらに、J.S.バッハのカンタータ『我がすべての行いに(In allen meinen Taten, BWV 97)』(1734) や『マタイ受難曲』に引用され、ブラームスによってもオルガン作品に引用されています。
イザークの作品、こちらは縁の深かった、ロレンツォ・イル・マニフィコの死を悼む音楽...荘厳、痛切な作品です。
*ハインリッヒ・イザーク:『ロレンツォ豪華王の死を悼むラメント』...
一方、こうした世俗作品ではガラッと異なる貌を見せています。
少し長いですが、本格的なミサを...
最後に、こちらも...
こちらは、本当はイザークの作品ではなく、弟子のルートヴィッヒ・ゼンフル(Ludwig Senfl;1486-1542)のものだといいますが、とても美しい作品です。
このゼンフルは、イザークのライフワークにして最大の作品である『コラリス・コンスタンティヌス』の写譜を担当し、未完の内にイザークがこの世を去ると補筆して実用版をまとめ上げた人物です。ルターとも親交があり、プロテスタントに改宗するまでは行かなかったものの、プロテスタントに寛容であったミュンヘンに移り、そこで生涯を終えました。