峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

うぐひすの 身を逆(さかさま)に...

2017-04-14 08:27:52 | 日記・エッセイ・コラム

はじめに、恵林寺の風景から...写真は鶯ではなく、ヒヨドリですが...

季節ですので、鶯をめぐって...


うぐひすの 身を逆(さかさま)に 初音かな (其角)



四月に入り、桜の開花に合わせるように、ウグイスが鳴き始めました。



 鴬は春暖に逢うて歌声滑らかに...



という禅語がありますが、このところ毎日、美しい声で私たちのこころをなごませてくれています。



写真を撮ろうと思うのですが、用心深い鳥で、うまく姿を見せてくれません...毎年、結局は断念することになってしまうのです...


道場にいた頃は、毎年毎年「新到(しんとう:新入りの修行僧)」がやって来る頃、ひっきりなしにウグイスが鳴いていたことを懐かしく思い出します...
早いもので、自分が道場の門をくぐってから二十年の月日が経ちました。今は、二人の修行僧が、恵林寺の徒弟として道場で修行に励んでおります...


さて、其角の句、「うぐひすの...」では、ウグイスの初音は「身を逆さまに...」と詠まれていますから、鶯は鳴くときに、木の枝から逆さまにぶら下がるように鳴くのでしょうか...

どうもそうではないそうです...



身を逆さまに枝からぶら下がるのは、「メジロ」で、花の蜜を吸う鳥は枝からぶら下がるような姿勢をとるそうです。これは要するに、花の花弁が下を向くことが多いからだそうなのですが...
メジロは春先に姿を見せる鳥で、綺麗な緑色(黄緑)...



本物のウグイスは一見とても汚い色なのですね...



昔の人は、どうもメジロとウグイスを混同していたようなのです。
たとえば、「梅に鶯」といいますが、ウグイスは梅にとまることがほとんどなく、メジロは蜜を吸うために梅にも集まってくるそうなのです。



この写真は、メジロですね(笑)

大体、ウグイスが鳴く頃には梅の花は終わってしまっているのが普通ですから、変といえば変なのですね。

私は長いこと、この其角の句は、初鳴きのウグイスは、初めのうちはなかなか上手に鳴けないので、声が裏返ったようになったり、引っ掛かったりするように聴こえることから、新米ウグイスが身体を逆さまにしたりして無理矢理練習をしている姿なのかな...其角はそんな連想をしていたのかな...そんな風に勝手に想像していました。
でも、どうもそうではなく、春の始まりに綺麗な緑色の姿を見せ、枝に逆さまにぶら下がりながら飛び回る姿...

そして、いよいよ暖かい季節の始まりに、素敵な鳴き声で私たちの耳を楽しませてくれる様子...この二つを一つにして、素晴らしい季節の到来を告げる鳥にした...そんなことなのでしょう...


人から「悲しみ」が失われている:デトロイトの人工知能学者が唱える仮説...【注意!掲載日とURLをご確認の上、お読みください】

2017-04-01 03:40:37 | 哲学・思想

 

はじめに、こちらを...

 


人から「悲しみ」が失われている:デトロイトの人工知能学者が唱える仮説

TEXT BY WIRED.jp_W& HIROSHI M. SASAKI(WIRED:2014.04.01)


これはとても良くできています...

もちろん、文中に「【注意!掲載日とURLをご確認の上、お読みください】」と丁寧な断り書きがあるとおり、エイプリルフールの「捏造記事」ですね。

文章そのものも、終わりの方は、「そういうことだよ...」と仄めかす調子になっています。


これは一種の科学的コラムの体裁をとった、エイプリルフール記事ですが、疑似科学的な説明に対して免疫がしっかりついていないと、こういうものを鵜呑みにしてしまうことになります。


ここで主張されていることは、確かにそれなりの説得力を持っています。実際、本当にそうかもしれないと一瞬感じさせる何かがあります。
ただ、こうしたことに関して「科学的な検証」が可能かどうかは、実はまったく疑問...というよりも、常識的に考えれば、この「仮説」の「検証」はまず無理だとおもいます。

何が言いたいかといえば、まず第一に、科学でできることには、大きな制約があるということ、これをわきまえておかなければなりません。

科学的な検証の手続きはとても厳格ですから、きわめて説得力があると私たちの誰もが思うような仮説であっても、「検証」というのはとても難しいことなのです。

私たちの「常識」というのは、所詮は私たちが経験的に見知っている範囲の中で、成立しているように「見える」「思える」だけのことなのですが、それが「科学的検証」をくぐり抜けるためには、「どういう条件下で...」「どういう物差しのもとで...」「一定以上の確実さを持って、どのような数値として...」「観測」「計測」されるか...ということが確認されなくてはなりません。
さらに、それに加えて、その現象がそう「計測」「観測」される「メカニズム」を「論理的」にきちんと説明する「数学的モデル」もつけなくてはならないのです。
だから、何しろ手間暇がかかる...お金がかかる...時間がかかる....科学の世界はだから、がっちりとした「検証」待ちの仮説ばかりがひしめいているわけです。
科学の世界は「99パーセントが仮説」というのは、そういうことです。

よく誤解されていることなのですが、「99パーセントが仮説」というのは、科学的な主張のほとんどが「怪しい」ということではなく、実験や観測を行っている現場では、まずまず十中八、九間違いないような常識と言ってもよいようなことであっても、「検証」がすむまでは「仮説」ですから、「検証」が説得的に行われて、晴れてその「仮説」が「科学的な成果」として認められるまでは、とてつもなく時間と労力がかかる...ということです。
だから、この手間暇のところをすっ飛ばして、すぐに「成果」を認知させようとする...これが一方では「疑似科学」の温床になり、もう一方では過重な結果主義、成果主義の圧力となる....小保方さんの「STAP細胞」の問題は、こういう背景のもとにある。

そこで、次に言いたいことは、いまの流れからも見えるように、私たちの「常識」から「科学的成果」への道のりは、とてつもなく大変だ、ということをわきまえる、ということになります。
小保方論文とSTAP細胞の発見をめぐる様々なごたごたに関しても、科学的に最終的な判断を出すには、私たちの常識的な感覚とは次元の違う手続きを経過しなければならない、ということなのです。
ですから、すぐに調査して報告しろ、とか、出てきて白黒をはっきりつけて謝罪せよ、とか、本当のところはどうなのか、早く明らかにせよ、とか言うとは、まったく的外れだ、ということなのです。これは所詮は、常識的な世界のレヴェルの話でしかない...

それはそれで大切ではあるのですが、科学的な成果とは、何の関係もない、というべきです。


小保方さんの問題のときには、理研が中途半端な報告を出しましたが、科学的な検証は、STAP細胞の存在が科学的に確認できるか、という問題なしにはあり得ないのですから、いまの時点できちんとした判断が出るはずがないのです。つまり、STAP細胞の存在そのものについて判断をしていない理研の報告は、科学的な報告にはなっていないのです。だから、あの報告は、問題を科学の次元から常識の問題へとシフトしてしまったもので、泥仕合にならざるを得ないのです。

科学的な問題の決着は、証拠と科学的手続きに従ってのみ、なされます。それはつまり、公開されている手続きに従って行われる、科学的検証なのです。だから、それが終わるまで、マスコミも、黙っているべきなのです。素人がごちゃごちゃ言ってもどうにもならない世界の話なのです。

小保方さんの例について言えば、いまだに、あれはだましているのだ、捏造だ、偽装だ...いや違う、はめられたのだ...いろんな論調がありますが、いまあげたような論調のどちらかに立つ人は、科学的な問題には無関係なところで議論をしていることになりかねません。

ここで誤解してはいけないのですが、それはそれでもちろん、全面的に悪い、ということではありません。

科学者といえども社会の中に生きていますから、社会的な役割と使命そして責任がある...だから、それは大いに議論してもいい。
しかし、それは科学的な内容とは何の関係もないし、科学的な内容と何の関係もないからには、問題の核心とはまったく次元が違う問題でしかない、ということをわきまえておくべきなのです。

このわきまえがないと、科学に対して過大な期待を抱き、過大な要求をする...

それが、疑似科学の温床になり、成果主義、結果主義の圧力を生み出す源となる...

これらは、過酷な現場で孤独に黙々と科学的な探究を続けるプロフェッショナルたちの足を引っ張る行為なのです。


要するに、科学的な次元での問題と娑婆の常識を一緒にするな、ということです。この区別ができない人は、人のことをああだこうだ言う前に、自分が疑似科学の餌食にならないように注意しろ、ということです...ちょっと言葉が過ぎました...しかし、これは偽らざる思いです。