峡中禅窟

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養老孟司氏、「将来の夢はYouTuber」の子供達に伝えたいこと...に思う。

2020-06-16 09:50:29 | 日記・エッセイ・コラム

はじめに、こちらを。

 

*養老孟司氏、「将来の夢はYouTuber」の子供達に伝えたいこと 

NEWSポストセブン 2020年05月23日 16:05

 

養老孟司氏、「将来の夢はYouTuber」の子供達に伝えたいこと

 新型コロナウイルス感染防止のため、多くの学校が長期休校となり、子供たちも大きな不安を抱えていることだろう。そこで、解剖学者の養老孟司氏(8...

NEWSポストセブン

 

 

八十二歳になる養老孟司先生のコメント。
   
私たちが生きている世界を「対人の世界」と「対物の世界」に分けて考える視点の大切さを指摘しています。
 
実は今回のコロナ禍で、困っているのはみな、「対人の世界」の住人です。レストランにゲームセンター、カラオケに居酒屋。こうした“対人”サービスが苦境に陥っています。
くらべて、「対物の世界」、農家さんや漁師さんの生活はそれほど大きく変わっていないように思えます...
 
ここでの養老先生のコメントには少し補助線が必用で、「対人の世界」は、サービス業が典型ですが「人間の社会」のことで、「対物の世界」とは農業や漁業のように「自然を相手とする世界」のことです。別の言い方をすれば、「対人の世界」と「対物の世界」という養老先生の二分法は、人間どうしの関わりの中で完結する(厳密には、完結しているように見える)世界と、そうでない世界の区別で、わかりやすくするためにもっとはっきりと言ってしまえば、「人間の世界」と「自然の世界」ということになります。記事の性格でしょうか、先生の言い方にはちょっと誤解を招くようなところもありますね。
 
「対人の世界」というのは、実は私たちが思う以上に私たちの生活に入り込み、私たちの社会を覆い尽くしてきています。たとえば、都会に住む人間は、ほとんど24時間365日、「対人の世界」に暮らしています。
いや、都会にも自然豊かな公園はあるし、ちょっと郊外にでればいくらでも自然に触れることはできる...
そんな風に思われるかも知れませんが、これはそれほど簡単なことではありません。
 
養老先生が出している「農家さん」や「漁師さん」の例を取り上げてみるならば、農業であれば品種改良された作物を作り、人口肥料を用い、除草剤や殺虫剤を用い、場合によるとハウス栽培などの手法で人工的に気候を管理しています。つまり、そこまでやらないと収益が釣り合わず「工業」「商業」と並ぶ産業としての「農業」として成立しない...
私たちが普通に思い浮かべる「農業」は実は産業としてみた「農」の姿で、この場合、自然に向き合っている「農の世界」は既に「人間社会」に適合するように大幅に改変されてしまっています。野菜にしても何にしても、一般的に私たちが都会で眼にするものは、何らかの形で人為的に造り替えられ、私たちに都合良く変容されたもの...私たちの味覚に合わせて甘く、瑞々しく、香り豊かで柔らかく、大きくて色や形が綺麗に整っているもの...本来の自然の世界の中のものではありません。
 
山梨に来たときに、「野草研究家」の若い女性と知りあいになりました。
この方は鋭い知性と深く広い知識、そして熱い情熱を持った素晴らしい人でしたので、主催する「野草研究会」にも常連として参加していました。
そこで学んだことは沢山あるのですが、印象に残っていることの一つに、野草というのは環境が合えばもの凄く沢山生えてきて見事な群生地になるのですが、じゃあ、採ってきて似たような場所に植えればうまく行くかと思えば、全然違う。群生地だって、ドンドン変わっていく。野草の採取は、ハンティングのような感覚で、こちらから追いかけていって知識と勘を頼りに探していくもので、猟師のような仕事なんです、といったお話があります。
これが何を意味しているかと言えば、何時どこにどれだけ生えるのか、どのような花が咲き、実を付けるのか、私たちの都合では決めることができない、ということです。そして、これが「自然」と言うことなのです。
木や草花がそのまま自然なのではありません。
人間が人為的・人工的に手を加えて都合良くするのではなく、人間の都合とは関係なくそこに生きているもの、そこにある在り方が「自然」なのです。
だから、自然に向き合うためには、私たちの方が自然に合わせて行かなければならない。養老先生は「対物の世界」ということで虫捕りの話をしていますが、ペットショップで買うのではなく、野山に行って自分で歩いて観察し採取をするというのはまさしく「自然に向き合う」ことです。養老先生の言う「対物の世界」というのは「自然の世界」のことなのです。
だから、「対人の世界」と「対物の世界」という分け方をすると、対人コミュニケーションがうまく行かないでゲームの無機的な世界に引き籠もってしまったり、インターネットの上での関係だけに退却してしまうようなケースを「対物の世界」と思う人がいるかも知れませんが、そうしたケースというのは、ゲームにしてもネットにしてもすべて「人為・人工物」の世界のものですから、養老先生がここで言おうとしている「対物の世界」ではないということになります。
 
さて、それでは、この養老先生のメッセージが伝えるものの核心は何か...
 
その大切な一つは、こういうことだと思います。
新型コロナウイルス感染症の蔓延によって混乱する社会に向き合ってものを考えるとき、私たちが当たり前のように前提としている社会というのは「対人の世界」つまり人為的・人工的に設計され、安全・安心で効率よく欲望が満たされるような場所です。しかし、もともと私たち人間は自然の一部です。
たとえば、エアコンで管理されている場所に暮らしているとなかなか自覚できませんが、私たち人間はどれほど努力しても気候を思いのままに操ることはできません。だから、人工的に私たちの住む場所を都合の良い状態に管理するためにテクノロジーが発達する。
人間の知識の蓄積によって、かなりの部分は思うように管理できるようになり、それが都市であったり住居であったりするのですが、人間が無理矢理自然を管理しようとするためには莫大なエネルギーが必用で、遅かれ早かれ私たちが使えるエネルギーの限界がやってくる...さらには、エナルギーを使った副産物が生み出され、それが有害な効果を私たちにもたらす環境負荷の限界がやってくる...こうした「限界」は私たちが人為的・人工的に管理することができないものです。「対人の世界」ではどうにもならないこうした問題は、養老先生的に言うならば「対物の世界」ということになるのでしょうか?
人間の思い通りにならない自然と直接衝突する自然災害のようなものとは違いますが、これもまた人間と自然とがぶつかり合う一つの形であるように思われます。
 
今度の新型コロナウイルス感染症による世界の混乱は、エネルギー資源の限界、環境負荷の限界、そして古くからある人口に対する食量や水の限界、さらには繊細で奥深く謎に満ちた「こころ」という領域からやってくる宗教やイデオロギーの対立、生活格差によって高まる憎悪の連鎖のような問題...こういった人為的・人工的に設計管理できない領域に震源をもつさまざまな大問題に、さらに新しい問題を付け加えることになりました。しかし、問題の根っこは同じです。
 
人間にできることには限界がある...
人間には、思い通りにならないことなどいくらでもある...
 
こう考えるならば、「対人の世界」でも事情は同じです。
では、思い通りにならないとき、どうするか...
養老先生は、「考えなさい」と言います。
「努力・辛抱・根性」をバネにして粘り強く考え、「成熟」しなさい、ということですね。
あらかじめ仕込んである「正しい答え」を怜悧に見付けようとするのではなく(自然にはそんなものはありませんから)、知恵と体力と気力を総動員してブレイクスルーを考える。思い通りにならないからこそ、そこに知恵が光る。ないないづくしの中からこそ、思いがけないような発想の転換が生じる。これこそが「クリエイティヴ」ということではないか。
 
君たちには知ってほしい。世界は1つだけではないのです。
 
と養老先生は言っています。世界が一つではないということを知ることは、実はとても大変なことです。
 
考える力を磨く簡単な方法は、外に出ることです...
 
と先生は言っていますが、試しに山に入ってみてください。もちろん、コンクリートの登山道が整備され、手すりもついているような観光地ではなく、そこそこの山です。
慣れていない人は、虫に刺されたり、ルートを間違えて迷ったり...見たこともないような昆虫がぶんぶん飛んできたり、得体の知れない動物が走り抜けたり...そこで、失敗したり、教えて貰ったりしながら、さまざまな状況に応じて判断する知恵を磨いていくのです。こうしたことも含めて、「考える」というのではないか...
こうして考える力を磨いて、初めて新しい世界をわがものにし、「世界は一つではない」とすることができるのです。