峡中禅窟

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独メルケル首相の緊急声明に思う...「開かれた民主主義」と「思いやりをもって距離を取る」

2020-04-05 17:50:19 | 日記・エッセイ・コラム

新型コロナウイルス感染症の流行が、日本においても山場を迎えています(4月5日)。

感染爆発や医療崩壊の危機が目前だという言葉が、現実のこととして受け止められています。現に東京都内では、感染者の急増のために、医療現場が苦境に立たされているという情報も入ってきています。

 

3月の後半から、こうした事態に対応して、政府が「緊急事態宣言」を出すべきだという声がいっそうたかまり、4月の頭に東京の「都市封鎖」が行われる、という情報が飛び交い、政府が官房長官の声明を通じて正式に否定する、という事態も起きました。

ここでわたしたちが考えるべきことは沢山ありますが、今回のこの新型コロナウイルス感染症の世界的な流行(パンデミック)に面して、ドイツのメルケル首相が出した声明がとても参考になります。

ここではこのメルケル首相の声明を手掛かりに、若干のことを考えてみます。

始めに、こちらを...

 

コロナウイルス対策についてのメルケル独首相の演説全文

 

Mikakoドイツ語サービス

 

とても素晴らしいブログです。

始めに、オリジナルの動画。そして翻訳。公開された原文、文法解説についてのリンクも張られていて、とても行き届いています。

ざっとした翻訳と断っておられますが、すっかり錆び付いたわたしのドイツ語でも明らかにわかるぐらい、見事な翻訳だと思います。

音声で視聴の場合には、こちらを...

OGPイメージ

Dog .212 必見コロナウイルス対策についてのメルケル独首相の演説日本語訳。日本の総理は口が裂けても言えない真っ当なお話。日本の政治がいかに劣化しているか この話を聞けばみえてきます。

!日本の総理との決定的な違いをごらんください。こちらのほうがすんなり入ります、是非コロナ対策の心構えに視聴ください。 https://twi...

YouTube

 

音声ソフトが間延びした感じで、少し残念ですが、こうした動画がアップされているということは、有り難いことです。

始めに、メルケル首相のこのスピーチは、文章も平易で、話し方も抑制され、丁寧で、ドイツ語が得意でない人にもわかりやすく聞きやすいもので、全体としてよく計算され、見事だと思います。

 

さて、この声明の内容については、文章自体がよく練られ、考えられており、読み返すことに耐えられるものですので、ぜひぜひ、もとの文章に(翻訳で、出来ればドイツ語で)あたっていただきたいと思います。

素晴らしいのは、具体的であり、同時に哲学的な深みも持っているということです。

このレベルの文章になると、その人の高い知性を感じ取ることが出来ます。残念ですが、このレベルのスピーチを日本の政治家から聞けることはほとんどありません。

優れた政治家、官僚、は日本にも沢山いるはずですが、このレベルの知性を感じることができないのは、どうしたことなのでしょうか...日本の教育、日本における教養の在り方、特に哲学教育の在り方をもういちど真剣に考えなければいけないのではないか、と痛切に思います。

さて、余計なことかも知れませんが、特に大切と思うところをいくつかピック・アップして採り上げてみたいと思います。

以下、引用はすべて上のリンクのオリジナルである『  Mikako ドイツ語サービス』の素晴らしい翻訳を使わせていただきました。

 

 

メルケル首相の声明は、不安に駆られている国民(市民)一人一人に語りかける形で始められます。

コロナウイルスの蔓延が自分たちの生活を「劇的に変化」させてしまっていると率直に認め、「日常や公的生活、社会的な付き合い」すべてが、「かつてないほど」試されていると厳しい認識を正直に提示しています。

緊急事態声明を出すべきかどうか、その時期であるかどうか、といった問題ではなく、自分たち一人一人の、全員の問題としての実感を共有しているのです。

ウイルスの感染を人ごとではなく自分のこととして真剣に受け止め、不要不急の外出は避けて欲しい、と言うのであれば、まずは政権担当者がこの事態をどう受け止めているのか...戦後日本がこれまで経験してこなかった形での危機が差し迫っているのだという認識、そしてこの危機に立ち向かうには政治家と官僚と一般市民とを問わず、日本に住む全員が一丸となって協力できるかが「試されている」という意識を共有できているのか...この共有がなければ、どのような要請も、対策の提示も、空々しく聞こえてしまいます。

 

立場は違えども、共に試されている、という強い共感と連帯は、次のようなコメントからもひしひしと伝わってきます。

 

このため次のことを言わせてください。事態は深刻です。あなたも真剣に考えてください。東西ドイツ統一以来、いいえ、第二次世界大戦以来、これほど市民による一致団結した行動が重要になるような課題がわが国に降りかかってきたことはありませんでした。

 

ウイルスに対抗することは、容易ではありません。

1918年から19年にかけて3度の流行を見せたスペイン風邪(スペイン・インフルエンザ)の例からは、1度治まったかのように見えてもそれほど簡単なものではないことがわかりますし、インフルエンザそのもので見れば、その後も、1957年から58年にかけて流行したアジア・インフルエンザ。1968年から69年にかけて流行した香港インフルエンザ。と世界的な規模での流行が周期的に起こってきており、日本では、今でも毎年1000万人が罹患して、直接亡くなる人は、2000年以後で見ても例えば214人(2001年)~1818人(2005年)人もいます。これは直接的にインフルエンザで生命を落とす人の数ですが、間接的に亡くなる人も含めた死者を推計する超過死亡概念という推計にしたがえば、インフルエンザによる年間死亡者数は、世界で約25~50万人、日本で約1万人と言われています。インフルエンザは、それほど克服することが難しい病なのです。

ウイルスのワクチンを作り出すために世界中の学者が奮闘していますが、概ね18ヶ月かかるなどと言われたりもします。ウイルスのワクチン精製は簡単ではありません。人間の身体に入るもの、しかも病で弱った人の身体に入るものですから、効果だけではなく安全性の確認だけでも治験に時間がかかり、認可されて後も、必要な量の精製にはやはり時間がかかります。罹患者の数の多さを考えれば、それは簡単に想像できることです。

 

しかも、今回の新型コロナウイルス感染症に関して言えば、これだけ大規模に流行してしまうと、死者や感染者の多さのみならず、工場は停止し、商店は閉まり、世界規模での経済的な損害は計り知れず、感染症を乗り越えた先には、経済的、社会的な損失の回復には相当な時間とエネルギーが必要です。そのためには、ウイルス後も、国民が一丸となって社会・経済の再建に取り組まねばならない、という認識がここにはあります。国を挙げて取り組まなければならない長く辛い試練...

敗戦と統一...メルケル声明は、何年にもわたる試練をもういちど思い起こそう、というのです。

 

日本経済もこのままでは弱小の中小企業は経営を維持することは著しく困難です。この状態が何ヶ月も続けば、資金繰りが付かず、倒れるしかありません。日本経済を本当に支えているのは、零細な中小企業です。この中小企業が潰れ、社会的な機能が壊れてしまったならば、元に戻すことは出来ません。高度な技術もそうですが、雇用を支え、産業の基盤となっているものが壊れてしまったならば、日本の社会はガタガタになります。これは取り返しが付かないことなのです。

日本の政府に、この認識があるのか...そして、それがあるならば、その認識を表明し、危機意識を共有していることを言葉と行動で示して欲しい。それよりもなによりも、増税と不況に喘ぎ、今回のウイルス流行でさらに追い詰められている大勢の国民に、共感を持ってくれているのか...そうであるならば、その共感を言葉で表明し、行動で示して欲しい。

日本を蝕む一番の危機は、政治不信であり、それは政権担当者に国民の姿が見えていないとしか思えないからです。

国民の生活のリアルと、不安、絶望、希望をきちんと認識し、共感を持つことができないならば、政治を担うことは許されません。今回の新型コロナウイルス感染症の問題は、わたしたちの生活、わたしたちの将来を信じて委託していた政権担当者が、本当は何を考え、何をしてきたのかということを炙り出し、浮かび上がらせてきています。

このことは、メルケル首相の声明の、次のくだりを読むと、対照的なものとして明らかになります。

 

私は今日このような通常とは違った方法で皆様に話しかけています。それは、この状況で連邦首相としての私を、そして連邦政府の同僚たちを何が導いているのかを皆様にお伝えしたいからです。開かれた民主主義に必要なことは、私たちが政治的決断を透明にし、説明すること、私たちの行動の根拠をできる限り示して、それを伝達することで、理解を得られるようにすることです。

 

「連邦首相としての私」というのは、連邦を担うリーダーである責任を担うという宣言です。責任を担う者として国民に語りかけているのです。そして、ウイルス感染症に対する対応を打ち出す場合に、その対応を打ち出す根拠を明確にするという宣言をしています。自分たちの判断を「何が導いているのか」をちゃんと「お伝えしたい」というのです。なぜならば、「開かれた民主主義に必要なことは、私たちが政治的決断を透明にし、説明すること、私たちの行動の根拠をできる限り示して、それを伝達することで、理解を得られるようにすることです」だというのです。

ここで言われていることは、民主主義の国家においては当たり前のことですが、こうした言葉をわたしたちのリーダー、そしてその同僚が、公的な場で言えるでしょうか?

公式の場での、明確で力強いこの宣言があればこそ、

 

もし、市民の皆さんがこの課題を自分の課題として理解すれば、私たちはこれを乗り越えられると固く信じています。

 

という言葉が奇麗事や気安めではなく、聞く者の心に響くのです。

そして大切なことは、ここまで明確に宣言されたならば、聞く者も人ごとで済ませることはできなくなるのではないか? 参加と自治を基本とする民主主義は、そこからしかはじまらないと思うのです。

じっさい、メルケル首相はこの後、この言葉に相応しく、明確に次のように言っています。

 

私は皆様に約束します。連邦政府は、経済的影響を緩和し、特に雇用を守るために可能なことをすべて行います。

わが国の経営者も被雇用者もこの難しい試練を乗り越えられるよう、連邦政府は、必要なものをすべて投入する能力があり、またそれを実行に移す予定です。

 

そしてさらに、こうも言っています。

 

状況は刻々と変わりますし、私たちはその中で学習能力を維持し、いつでも考え直し、他の手段で対応できるようにします。そうなればそれもご説明します。このため、皆様にお願いします。噂を信じないでください。公的機関による発表のみを信じてください。

 

連邦政府は目下のウイルスの流行に対する対応だけではなく、それと同時に進行する深刻な社会的・経済的な影響に対しても責任を持ってできる限りのことをする、というのです。そして、ウイルスの流行に関しては、状況が時々刻々変わるから、確実に正しい対応というのは難しいけれど、常に新しい情報にヴァージョン・アップし、そのヴァージョン・アップの内容も、根拠もすべて開示する、というのです。だから、疑心暗鬼に駆られていかがわしい噂に乗らないで欲しい、というのです。情報に関して、公的機関は全面的に責任を取る、というのです。

政権担当者は、リーダーに相応しく責任を持って事に当たる。その覚悟を示し、協力と連帯を呼びかける。

そして一人一人が為すべき具体的な対策が平易に説明され、協力が要請されています。

特に重要なことは、この声明の中に「共に生きる」という理念が明確に表されていることです。共に生きるというのは、互いを気遣い、助け合い、寄り添って生きるということです。それは、特にウイルス感染を拡げないために外出を控え、人と距離を取って欲しいという要請の言葉の中に現れてきます。

 

私たちがどれだけ脆弱であるか、どれだけ他の人の思いやりのある行動に依存しているか、それをエピデミックは私たちに教えます。また、それはつまり、どれだけ私たちが力を合わせて行動することで自分たち自身を守り、お互いに力づけることができるかということでもあります。

 

わたしたちは、助け合い、思いやりを掛け合って生きる。だからこそ、

 

一人一人の行動が大切なのです。私たちは、ウイルスの拡散をただ受け入れるしかない運命であるわけではありません。私たちには対抗策があります。つまり、思いやりからお互いに距離を取ることです。

 

「思いやりからお互いに距離を取る」...これがメルケル首相が伝える、わたしたち一人一人が学ぶべきことです。感情に流されず、欲望に振り回されず、不安に押し潰されず、冷静に考えて思慮深く、思いやりをもって振る舞うのです。つまり、情だけではなく、思慮もまた、思いやりには必要だ、というのです。感染を拡げ、悲劇を拡散しないために、今は「距離だけが思いやりの表現なのです」というのです。

 

長いコメントになりました。これ以上はかえって問題がぼやけてしまうかと思いますので、.このあたりにしておきます。満遍ない配慮と格調とを配慮している、もとの声明を理解する上で、少しでも参考になるものがあれば、有り難いことです。そして、もとの声明に戻って読み、考え、民主主義というものはどうあるべきなのか考える機会になってくれれば、もっと有り難いことです。

 

最後に、ここでの言葉の数々が、理想主義的で奇麗事だ、という感想もわかります。メルケル首相の言葉も、私のコメントも...

 

私自身も、ドイツの文化、ドイツの音楽、ドイツの哲学に憧れてドイツ語を学び、何年もかけてドイツ哲学を真剣に学びましたが、学んだ先に見えてきたものは、戦後ドイツの姿が奇麗事ではない、ということでした。戦後ドイツの歩みは、決して褒められたものではない、と私も思っています。それは、政治のリアル、国際社会のリアルを知らない者の戯言だ、と言われるかも知れません。

しかし、世界規模での危機が押し寄せてきたとき、世界中が生存をかけて課題に取り組まなければならないとき、これまでの政治のリアル、国際社会のリアルは役に立つでしょうか? そこに共通の理想がなければ、利害を超えた協力などあり得ようはずもありません。

夢は夢として、理想は理想として儚くも潰えるかも知れません。

しかし、理想をもつ自由だけは、馬鹿馬鹿しくとも抱いていたい...

そう思います。

 

 



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