さて、少し遅くなりましたが、9月3日に行われたBKDシンポジウム『問われる仏教 応える仏教』について...
釈宗徹師(浄土真宗)、阿純章師(天台宗)、池口龍法師(浄土宗)、松山大耕師(臨済宗)の報告は、それぞれかなり特色のある面白いものであったのであるが、一番年長で、総括的な報告をされた釈宗徹師の指摘の中から、特に印象に残った問題点を少し採り上げてみる。
師の指摘で、重要ではあるもののシンポジウムの議論からは抜け落ちてしまったものに、「エートス」の問題がある。
「エートス(ethos)」は、古代ギリシア哲学の根本概念の一つで、もともとは「いつもの場所」といった意味だったものが、転じて「習慣」という意味を担うようになり、アリストテレス以後、「倫理学(ethics)」の問題へと繋がっていく。ざっくり言ってしまえば、「良いエートス(習慣)」を身につけることで人は「良き生」を生きることができるが、「悪いエートス(習慣)」を身につけると、身を滅ぼすことになる...だから、人間にとって、「良きエートス」とは何か「人間の本性」にふさわしい「エートス」とは、どのようなものか? という問題になるのである。
マックス・ウェーバーがこの「エートス」という概念を、人間の「社会認識」の基本構造の分析に導入したことは有名であるが、そのさい、「エートス」が一口に「習慣」と言っても「慣例」それも文化的な慣例として形成され、形式的に身につけられていく側面と、「信念」つまり人がそれを積極的に受け入れ、行為の規範として自らの意志で継続していくという側面とからなることをはっきりと区別して分析している。
これは、非常に重要なことで、例えば年中行事のようなものを「習慣」として考えるならば、先祖代々、お正月には初詣に行き、神社にお詣りをする...この行為には、地域社会全体がそうした生活習慣のスタイルをもっていて、家族もそうであるから、ごく当たり前のように、そういうものだと考えて、こうした行為を繰り返す...すると、意識しないうちに、お正月の初詣を基準にして、一年一年の区切りを考え、地域社会とのつきあい方を考え、四季折々の考え方を組み立てるようになる。このようにして、習慣は次第にその人の「社会認識」を規定し、世界観、信念の基盤を作り上げていくことになるのである。
しかし、例えば新しい信仰を持って新たな宗教に入信するとき、その宗教のもつ年中行事を受け入れ、通過儀礼を人生の設計に組み入れ、それを正しいものだとして自らの規範となすとき、「社会認識」の基軸は激変することになる。例えば、新年の日付がたとえ同じだとしても、それぞれその宗派独自の意味づけをもった年中行事があり、暦があるのであるから、生活習慣と、その意味が全く変わるのである。こうした結果が、次第にその人の世界観、信念に大きな影響を与えていくことは言うまでもないであろう。
このように見てくるならば、「エートス」はまさしく「宗教」の根本的なありようを考える上でも、極めて有効な概念装置であることがわかる。宗教が「信仰」あるいは「信念の体系」としてその人の社会認識、世界認識ないしは価値観、行動規範といったものと切り離すことのできないセットとなっている以上、宗教を考えることは、同時にその宗教独特の「エートス」を考えることでもある。宗教は「エートス」を規定するという側面をもっているが、反対に「エートス」が宗教を支えている側面もあるのである。
そして、それ以上に重要なことは、或る宗教が本当にその人のものになるということは、その宗教の要求する「エートス」をわがものにして、生活の中に根付かせるということなのである。つまり、その宗教をただ「信じる」というだけでは本当にその宗教の世界をわがものにしたことにはならない。それぞれの宗教はその宗教特有の「エートス」をさまざまな位相において---儀礼、典礼、禁忌、戒律、修行形態など---定着させているのであるが、そうしたものを本当に自分の生活の「エートス」として受け入れ、習慣化し、骨肉化して初めてその宗教の世界に入ったと言うことができるのである。
さて、こうした前提の上で、釈宗徹師は「内向きのバインド」というタームを用いて、伝統的な日本の宗派仏教が強い「帰属意識」に支えられているところに、このエートスの問題を指摘し、ここを手掛かりにして伝統仏教再生の道筋を考えていくことの可能性を示唆していた。つまり、宗派毎に「強い帰属意識」があるのであれば、その強い宗派意識を形成するような「エートス」が伝統仏教の中に元来あるのではないか...それならば、それは一体いかなるエートスなのか...? そして、この部分に光を当てることができるならば、現代の日本社会においては著しく希薄になったといわれる家族や共同体の「絆」の再生に繋がるような新しい「エートス」の在り方を考えていくことができるのではないか...
「内向きのバインド」といえば、「宗派根性」のようなものももちろん入ってくるのであるが、必ずしも否定的な機能だけではなく、しっかりとした組織に不可欠の強い「帰属意識」をもたらす重要な側面ももっており、それを正しく評価していくべきなのではないか...
こうした指摘が重要であるのは、「問われる仏教」という時に、近年の日本社会が示してきているさまざまな歪みの背景に、家族の崩壊、地域社会の解体...という事態を見てとる人が多く、こうした人間関係の形骸化に対して、伝統仏教が何か伝統に根ざす故の切り札となるようなものをもっているのではないのか、という期待があるように思われるからである。
日本中どこにおいても「帰属意識」が希薄となってきているとき、弊害も大いにせよ「強い帰属意識」を形成することのできるようなものは、一体何か? という問いは、有効な共同体再建の切り札になるのではないのか...
釈師は、二千年にもわたる「ディアスポラ」の歴史にもかかわらず、民族としてのアイデンティティーを無くすことなく来ている、ユダヤ民族の例を引き合いに出しておられたのであるが、まさにユダヤ民族は、「コーシャ」と呼ばれる詳細な食物禁忌を始め、日常の細々した戒律の網の目の混乱や矛盾を解決する際に依拠すべき「教典(法源)」の記述の信用度まできっちりと等級化された、厳格厳密でシステマティックな戒律によって下支えされた「律法主義」の「エートス」をもつことによって何世代にもわたる迫害の苦難の歴史を乗り越えてきたのである。
例えばいまのユダヤ教を例にして考えれば、「食物禁忌」を厳格に定めておけば、人間にとって決定的に重要な「食」という位相において信者と非信者は食卓を一緒にすることができなくなる...あるいは「割礼」のように、きわだった身体的な「しるし」を身に帯びることによって、常に自分が帰属する集団を意識し、あるいは周囲に意識させることができる...「律法」は自分自身に対して、自らの帰属する集団への肉体的精神的な帰属を絶えず促し、他者に対してはその人が違う集団に帰属しているのだということを絶えず喚起する装置の役割を持っているのである。こうしたものが各メンバーの「アイデンティティー」の形成に巨大な影響を及ぼすことは容易に理解できるであろう。
さて、このことは、例えば或る集団が強固な信念を共有するためには、きわだった「エートス」の形成が不可欠である、ということを意味している。そして、仏教はどうか...
「日本仏教には戒律がない」という指摘や批判は良く耳にするのであるが、「ユダヤ教」が詳細な日常規則を設けて信徒の「エートス」を組織化していったのに対して、日本仏教は少なくとも「律法」あるいは「戒律」に基づいてきたわけではない。それにもかかわらず、或る種の「強い帰属意識」を形成する教団が数多く存在する...それでは、日本仏教において、信徒に「帰属意識」をもたせることができた装置は、一体どのようなものか...
この問いには、もちろん、それぞれの教団がそれぞれの解答をもっていることであろう。そしておそらく、宗派仏教の枠を超えて、「日本の仏教」としての共通の基盤となるような装置も、何らかの形で際立たせることはできるであろう。しかし、これは大きな、また別の課題である。
最後に、極めて大まかながら、私見を...仏教における「エートス形成装置」は、伝統的には「三学」つまり「戒(戒律)」「定(禅定:修行)」「慧(智慧:悟りの智慧)」に基づいている。大切なことは、「修行」という要素である。ユダヤ教のような啓示宗教における「律法」が、神との間に交わされた契約であり、いわばそれを遵守することが目的の主眼となっているのに対して、仏教の「三学」における「戒」とは、あくまでも「禅定」の修行を正しい仕方で、より良く行うためのものなのである。だから、「仏教エートスの形成装置」としても、中心にあるのは「修行」それも「禅定」の修行なのである。
ここで、ブログの論者が帰属する教団、禅宗の問題にかえろう。禅は、坐禅という身体技法をきわだった形で中心にもち、「瞑想」だけでなく日常生活を支える「労働」を徹底して「修行化」する形で発展してきた教団、「修行」という、「エートス」の形成あるいは「改編」に対して極めて有効なシステムをその根本に据えた教団である。
そして例えば、「浄土宗」「浄土真宗」であれば「念仏」、日蓮宗であれば「お題目」が、いわば身体を使ったエートス形成装置にあたるであろうか...。シンポジウムでは、直接この部分に入ることはなかったのであるが、こうした観点から、「応える仏教」の再編を考えることも、意義のある論点であろう。