『読書』...これほど素晴らしいものもないのですが、同時に、これほど誤解されているものもないように思います。
敢えて、「誤解」という挑発的な表現を使いますが、それはどういうことか...
例えば、「読書は素晴らしい」と言う場合に、こんな風に続けることが良くあります。
「読書は素晴らしい...なぜならばそれは人生を豊かにしてくれるものだから...」と。
もちろん、この言葉が間違っているとは思いませんし、そもそも「読書」をするのに正しいも間違いもないことですね。「良かった」「良くなかった」「楽しかった」「つまらなかった」「損をした」「得をした」「有益だ」「無益だ」...どのような評価をするかはその人次第。しかし、それはあくまでもその人の「評価」です。その人が自分自身の行為の結果、それをどう評価するか、という問題ですから、誰もが受け入れなくてはならないような基準などではありません。善し悪しの問題ではないのですね。
少し言わずもがなのことを書きました。
さて、「読書は素晴らしい...なぜならばそれは人生を豊かにしてくれるものだから...」という説明に対して、敢えて「誤解」という表現を使うとするならば、その誤解の第一は、「人生を豊かに」という表現の中に忍び込んでいます。
「人生を豊かに」...確かにその通り! しかし、「豊かに」とはどういう意味なのでしょうか? 「読書は、人生を豊かにしてくれる」...それはただ単に「生活の質が向上する」とか「教養がつく」あるいは「楽しみ(娯楽)が増える」という意味なのでしょうか?
何度も繰り返しますが、それは一面ではその通りなのです。しかし、私は敢えて、「読書がもたらす豊かさ」がそれだけのことであるとするならば、「読書なんて、それほど魅力的なものではない!」と言い切ってしまっても良いように思っています。単刀直入に言えば私にとっては、読書は、そんな程度のものではなく、「もっと凄いものだ!」ということなのです。
もっと「凄い」ものだ、だって? 一体何が、どう「凄い」のだ?
私の言いたいことは、まずはこうです。
だって、読書は、それを通じて私たちが時間や空間の制約を超えて、言語や文化の違いを超えて、会ったことがない、あるいは会うことなど原理的にできないような人たちと真剣に向き合うことができるから...経験したことがない、あるいは経験することなど原理的にできないような出来事の経験を、もちろん条件付きでしかないにせよ、身近なこととして味わうことを可能にしてくれるものだから...
もちろん、テクノロジーが発達した今日においては、圧倒的なリアリティをともなった映像、音声、あるいはそれ以上のもの総動員してヴァーチャルな経験を可能にするツールがたくさんあるわけですが、まず第一に、既に過去のものとなった出来事に関しては、こうしたテクノロジーは適用されない、ということ。第二に、その出来事を「あたかも自分が眼前に見ているように」体験することができるにしても、それはあくまでもただ、自分は変わらないで、そのままで「ただ目の当たりにする」だけのものでしかない、ということ。この二点において、「読書」にはかなわない、ということを言いたいのです。
この第二の点に関しては、少し説明が必要ですね。第一の点も絡めて少し説明してみますと、こうなります。
つまり、例えばCGを用いて中世カトリック教会のミサの様子をかなり詳細に再現するとします。音も再現し、気温や湿度、匂いのような空気感まで合成したとします。しかし、キリスト教徒でもなく、中世の信仰世界に生きるわけでもない私たちが、そのバーチャルな世界を体験できたとしても、その時代、その場所に居合わせた人々の感動、心の動きは決してわかりません。こうしたものを理解しようと思ったら、その時代の人々がどのようなものの考え方をし、どのように出来事を感じていたのか、ということを知らなくてはならないのです。要するに、ただその光景を目の当たりにするだけではわからない大事なことがある...それは「内面的」なもの、「心」の問題なのだ、ということです。
だから、こうしたヴァーチャルな再現の努力も確かに素晴らしいものですし、こうしたものによって中世世界の理解も飛躍的に進むのですが、最後の所で、この時代、そのミサに参加した人の残した言葉、コメントが、重要な手掛かりとして絶対に必要となるのです。そうはいっても、その頃の人の気持ちやものの考え方など、わかりっこない...もちろん、それはその通りです。しかし、そのミサに居合わせた人の言葉...感想やちょっとしたコメントから、実はかなり多くのことがわかるものなのです。それは読書家ならば、誰もが知っていることなのです。
同じ事は、現在進行形の出来事についても同じです。
同じ場所に居合わせて、同じ出来事を体験しているとしても、隣にいる人がそれをどのように経験したのか...どのように受け止めたのか...それを知るには、「言葉」というツールが不可欠なのです。もちろん、たいていの場合それは、実際に「語りかける」言葉、「対話」の言葉によってなされるのですが、書き記され、書物の形で残された言葉も、依然として強い伝達能力を持っています。そうですね、私たちは、自分たちの経験したことを、「自分はそれをどう経験したのか...」というレヴェルに引き寄せていく時、やはり「言葉」に頼るのですし、言葉に頼るのであれば、「書物」の持つ威力というものは、侮れないものがあるのです。
乱暴な言い方をすれば、例えば有名な「松島や、ああ松島や松島や」という感慨を「映像化」したり「ヴァーチャル」な表現世界に落とし込むことはとてつもなく大変ですね。「美味しいっ!」「好きっ!」「嬉しい」「悲しい」...私たちの心を表現する時、あるいは心のフィルターを通して表現する時、一番威力があるのが、実は言葉なのです。そして、目の前で相手と語ることにはかないませんが、時空を越えて、文化や言語の違いを超えて(翻訳があり、さまざまな書物の蓄積が文化の断裂を越えさせてくれるのです...)相手の心と向き合う時、「書物」は素晴らしい力を発揮します。
最近、デジタルカメラの機能に、撮影した映像を加工するさまざまなツールがありますね。セピア色の画面にしたり、ポップ調にしたり、漫画風にしたり...しかし、どれもステレオタイプですね。言葉による表現の多彩さ、繊細さに較べれば、所詮は子供だましと言わざるを得ないのです。
さて、今ここで「心と向き合う」ということを言いましたが、一番大事な点は、まさにそこなのです。「自分と向き合う」あるいは「相手と向き合う」、あるいは「出来事や世界と向き合う」時、私たちはそれを必ず自分の「心」に受け止めていくのです。真剣に向き合う時、私たちは必ず「自分の心」で向き合うのです。どうでも良いこと、人ごとで良いのであれば、別ですが...その時、「言葉」とは、「自分の心のものにする」「自分の心を通じて、わがものとする」言い換えれば、「内面化する」とき、最強のツールなのです。「書物」の持つ威力は、実はこの「内面化」の機能なのです。
さて、そろそろ結論に行きましょう。
読書は、凄い!
こう言う時、何が凄いかといえば、それは読書が「心の中に取り込む」行為の持つ「凄さ」を言いたいのです。映画やテレビが見ていて楽なのは、もちろんそのように作られているからなのですが、同時に、いちいち心で向き合って内面化しなくても良いから楽なのだ、という点は見逃すことができないでしょう。だから、読書に関しては、或る程度以上は「訓練」が必要です。それは、読書という行為の技術的な意味(こうしたものは、速読術の講座などに行くと、組織的に鍛えてくれるのです...)での訓練ももちろんですが、それ以上に「内面化」して、大事な問題として向き合う訓練でもあるのです。ですから、読書を通じてこの「内面化」の技術を鍛えておけば、実際に世界に向き合った時であっても、それを自分のこととして受け止め、向き合うことが一層豊かにできるはずです。「読書の訓練」とは、ただ単に書物を読むという技術の訓練にとどまらず、出来事と出逢った時、それを自分のこととして内面化して、心の奥底で消化して自分のものとする技の訓練でもあるのです。
一つ例を挙げましょう。
芭蕉の有名な「古池や 蛙とびこむ水のおと」という句がありますが、誰もが知っているこの句。芭蕉がこの句を詠むまでは、誰も、蛙が池に飛び込む...それだけのことの素晴らしさに気が付かなかったのです。今ではこの句は世界中の言葉に翻訳され、世界中の文学者に知られています。私たちも、お寺に行って、蛙が池にとびこむ水音を耳にする時、この句を思い起こすことでしょう。そこに何かを感じる...この感性は、芭蕉のこの句に出逢って初めて私たちの心に生み出されてきたものなのです。これも、読書による訓練の一つの在り方です。
このことについても、もう一つ、乱暴な例を挙げましょう。
十五夜は 座頭(ざとう)の妻が 泣く夜かな...
盲目の大学者、塙保己一(はなわほきいち)の奥さんの作ったとされる歌です。
これなど、人ごとなんかじゃなく、ちゃんと向き合わなくては意味がわからない歌ですね。どういうことかと言えば、十五夜の美しいお月様を眺めながら世の中が浮かれている時に、「座頭(盲目の保己一)」は、それを楽しむことができない...奥さんはそのことを悲しんで忍び泣きをするんですね。歌の作り手も、歌の読み手も、ともに自分の心で出来事を受け止め、初めて成立する世界です。
さて、「書物なんか読んでいても仕方がない。実践だ! 現実にやってみなくいては役に立たない」ということがよく言われます。
しかし、この「心で受け止め、自分のこととして内面化して真剣に向き合う」というところを考えるならば、この発言が極めて偏ったものでしかないことはよくわかると思います。現実に対応しなくてはならない時は、現実で対応すれば良いだけのことなのです。しかし、いくら現実の世界に飛び込んでいても、自分が出会う人、出逢う世界、出逢う出来事と、真剣に、自分の心で持って向き合わなくてはたいしたことはできないのです。いやいや、それ以上に、現実の世界に出ていく前に、自分自身の心と真剣に向き合って行かなくては、かえって自分自身がぐらぐらしてしまうだけのことです。
読書は、凄い!
それは、自分が出会う人、世界、出来事、そしてそれ以上に自分自身としっかり向き合う行為だから、凄いのです。だから、書物を読むならば、どっぷりとその書物の世界に入り込み、ものの考え方、感じ方が変わるぐらい真剣に読むべきなのです。本当の意味での「人生の一冊」を持っている人は、「その書物を通じて自分の人生を決めていった人」なのです。
結論を...読書は、単なる「教養」でも、「娯楽」でも、「人生の彩り」でもありません。もちろん、そうした本は山ほどありますし、それも大切なのですが、それ以上に、「自分の心を通じて世界と向き合い、自分自身と向き合う」行為...私はそれをひっくるめて、「ものを考える」ことだと思っています。だから、実はとても危険な行為でもある...世間的には損な選択肢を自分で選んでしまう切っ掛けにもなり得るのだから...
「書物は、人生を豊かにする」...本当の「豊か」とは、常に「危険」をともなう...なぜならば、人が真剣に物事に向き合う時、常にリスクはつきものだから...それも、真剣であれば、真剣であるほど、リスクは高い...それを受け入れての言葉であれば、私はこの主張に賛成です。そして、特に若い人は、人生が変わるぐらいの読書をして欲しい。人生が変わるほどの書物に出逢って欲しい...本当の「人生の一冊」を掴んで欲しい...これは、本当の人生の師を得るのと同じぐらい難しく、まただからこそ素晴らしいことなのですから...
最後に、私自身が、書物に出逢って人生を変えた人間です...損だったか、得だったか...そんなことはわかりません。ですけれども、人生をもう一度やり直すとして、私はやはり同じ道を繰り返すでしょう。それぐらいの経験を、書物は人に与えてくれることがあるのです。
書物の世界は安全だ...命のやりとりはしないし、現実的な損害も被らない...これは、半分正しく、半分間違いです。確かに、読んでいる物語の中で主人公が刀で切られて血を流しても、読んでいる私はかすり傷一つ負うことはない。主人公が人生の絶頂で、商売に失敗して破産しても、私の財布は少しも痛まない...
しかし、程度問題とは言え、現実の中で怪我をしたり、お金を損したりしても、人生そのものは変わらない人が多いでしょうが、書物を読んで人生そのものが変わってしまった人は、実は結構たくさんいるのです。怪我をしたり、お金を無くしたりすることももちろん危険ですが、人生が変わってしまうことの危険さは、また格別です。
ホメロスの『イーリアス』を読んでその実在を信じ、トロイアの発掘に人生を賭けたシュリーマンのようになれ、とは決して言いませんが、書物を通じて開かれる世界は、実は想像以上に広いのです。そのことだけは、特に若い人たちにわかって欲しい...そんな想いでいるのです。