はじめに、こちらを...
*これはイッちゃうかも!?極楽浄土を再現したテクノ法要を本気でやる住職が「本気の取り組みです!」
仏教の危機が叫ばれている今日、大切なことは、何よりもまず、一人一人の僧侶が出来ることを最大限に行う...
これは大前提ですから、そこに誠意があり、真摯なものであれば、まずは応援するべきですし、少なくとも足を引っ張るようなことはするべきではありません。
しかし、それでも越えてはいけない一線はありますし、重要な問題がそこに現れているのであれば、黙って見過ごして良いというわけでもありません。
この件に関していえば、越えてはいけない一線を越えた、ということではありませんが、とても大切なところを外してしまっているように思いますし、その外してしまっている、ということに気がつかないまま、こうしたものが「まっとうなこと」である、となってしまうことは、とても危険なことだと思います。
紹介されている内容は、福井県にある浄土真宗本願寺派のお寺、照恩寺の住職が、「極楽浄土」は「光の世界」である、という観点からテクノの技術を駆使した新しいスタイルの法要を開始し、その新たな機材の購入のためにクラウドファンディングにエントリーした、というものです。
クラウドファンディングのページは、こちら...
*固定観念を崩せ!テクノ法要で仏教を身近にー照恩寺住職の挑戦
じっさいの「テクノ法要」の様子は上のクリップにもありますが、絢爛たるイルミネーションとテクノのリズムが特徴的です。
さて、問題は、「テクノ法要」なるものがどうのこうのではなく、そもそもこの「テクノ法要」なるものによって、何がしたいのか、ということです。
紹介では、
もっと仏教について多くの人に知ってもらいたいという住職の思いが込められています!
となっていますが、こうした試みが本当に「仏教について多くの人に知ってもらう」ことになるのか? あるいは、「仏教について多くの人に知ってもらう」ための試みとして、ふさわしいものかどうか、ということです。
単刀直入に、上の紹介ページにリンクが貼ってある『テクノ法要』の動画を見て、そこに「仏様の教え」があるかどうか、ということが問題なのです。それについては、ご覧になればわかることです。ここでは敢えて言いません。また、それぞれの受け止め方もあるでしょうから、その点についてここで立ち入ることは避けたいと思います。
ただ、Youtubの動画クリップを観た上で、法要をテクノのリズムに乗せて、照明効果を重ねることによって、法要の意味、仏様の教えの理解に繋がると本当にこの人は考えているのか...首をひねらざるを得ないところではあります。仏様の教えを知ってもらうのであれば、こんな新奇なことをするのではなく、丁寧に自分の言葉で語りかけることの方が大切ではないか...そう思えてなりません。
さて、それはともかく、こうした試みを行う住職の狙い...その点については、
本来、お寺は誰でも参拝に訪れていい場所。しかし、多くの人は、檀家さんが先祖のお参りに行くためだけのものと思っていらっしゃるようです。そこで、朝倉住職は誰でも来やすく、「いろんな方に、仏さまの教えに触れていただきたい」という思いを実現させるために思いついたのが「テクノ法要」だったのでした!
と語られていますが、「檀家」さんの「先祖のお参り」だけではなく、「誰でも」が足を運べ、「お参り」に限らずお寺で「仏様の教え」に触れることが出来るように、ということのようです。
この「テクノ法要」が「誰でも来やすい」ものであるかどうかはともかく、いわゆる「お寺」の垣根を取り払い、お寺とは~である、お寺に行くときは~に限る、という先入観を取り除く...要するに、お寺というものの「固定概念」を壊す試みとして考えているようです。
そういうことであれば、それはそれで理解できることです。
しかし、「誰でも参拝に訪れていい場所」といいますが、そもそも「参拝」するということは、どういうことなのか?
現代においては、じつはこうした前提そのものがぐらぐらしてしまっているのではないか...もしも、お寺にお参りする、ということの意味がちゃんと実感としてわかっているのであれば、「檀家さんが先祖のお参りに行くだけのもの」とはならないはずではないのか?
あるいは、別の角度からいえば、先祖のお参りに来る、ということは、とても大事なことではないのか...
今日、「家族の絆」の大切さがこれほど言われ始めている時代において、家族の絆を真剣に考えるのであれば、まずは家族、家、ご先祖様、というものにたいしてしっかりと向き合っていかねばなりません。お寺は、まさしくそういうことを可能にする場所ですし、まずはお寺にとって一番縁の深いお檀家さんに、先祖のお参りということを通じて、「ご縁のありがたさ」についてきちんと考えるように働きかけていかなければならないのではないのか...
普段はお寺と無縁のところにいる若い人たちが、お寺に関心を持って足を運んでくれる...
これはとても素晴らしいことです。しかし、それぞれのお寺にはそれぞれの歴史があり、ご縁があります。まずはそこからではないのか...
忘れてはならないこと、一番大切なことは、お寺とは本来、いかなる場所であり、「参拝する」とはどういうことをいうのか、ということです。
お寺がどのようなことをするにせよ、最後は、ここに尽きるのではないか...この部分がしっかりしていなければ、何をやっても所詮は客引きのようなものでしかなく、有名人を呼び、イヴェント屋の真似事をするだけのことになってしまうのではないか。
どのような活動をするにしても、そこには「お寺」がなくてはならない。それはつまりは、お寺にしか出来ないこと、お寺がなすべきことがちゃんとあるのか、ということです。
そこに、お寺はあるのか? お寺にしか出来ないことは、あるのか?
この「テクノ法要」はそうした問いかけに対して、どう答えようというのか?
「仏様の教えに触れていただきたい」という発言が出ていますが、この「テクノ法要」が語る「仏様の教え」とは、一体いかなる内容のものなのでしょうか?
テクノのリズムに乗せてお経を流し、煌めくイルミネーションを降り注がせるならば、それで極楽浄土のヴァーチャル体験が出来る、とでもいうのでしょうか?
それならば、たとえばオウム真理教が浄土のイメージを取り入れた布教映画を作って流していましたが、ああしたものと変わらないのではないのか...
極楽浄土とはいかなるものか、いかなる場所か、ということを棚上げにして、極楽浄土風のイメージを喚起するだけのことで、本当に良いのか...「テクノ法要」と言う場合に、法要を利用した「テクノ」なのか、テクノを駆使した「法要」なのか、しっかりとした自覚がそこにはあるのか...
そんなことは難しすぎる...確かにその通りですが、お寺はそうした課題に正面から向き合わねばならないはずです。そうした問題に真剣に取り組むのは、お寺にしか出来ないことなのではないか...
紹介の中には、
お寺が持っていた”コミュニティー”としての機能を復活させたい...
というコメントがありましたが、お寺の伝統的なスタイルの中に、じつは本来の力が隠されているのではないか、と思えてなりません。もちろん、時代が変わり、人間が変わり、社会と共同体の在り方が変わってきている今、同じことを繰り返すだけではこうした変化に対応することは出来ないのですが、だからといって、大本のところを棚上げにして新しいやり方に走るとしても、それはただスタイルを変えるだけであって、本当のものにはなるべくもない...
たとえば、次の二つのクリップ、
ここに看て取られるものは、確かに喪われつつある信仰の姿かもしれません。しかし、ここで念仏を唱え、数珠を回している人々の表情や仕草から立ち上る敬虔さと一体感は、技術的なもので代用することができません。
繰り返しますが、こうしたことをやるべきだ、などというのではないのです。そうではなく、ここに立ち現れているものは、一体何なのか、きちんと向き合うことを私たちは棚上げしてはいけないし、避けてはいけない、ということなのです。
最後に、現代のテクノロジーを駆使したものと比較しても、圧倒的に凄いものを...
信仰が生きている現場を前にしたとき、私たちの技術などというものは、所詮はしれたものなのです...
・カンチャナブリ郊外に山頂がすべて寺院になっている所があります。四方のの見晴らしがどこまでも広がる山頂にはWat Tham Suaの寺院群があり、巨大な黄金の仏像が寺院群の中心部にどっかりと座っています。
まずは、こちらを...
松山大耕 講談社 GENDAI ISMEDIA 2016.11.03
まだ、元になっている著書を読んでおりませんので、とりあえずはこの記事の限りでですが、これはとても明快でわかりやすいですね。指摘されている事柄も、その通りだと思います。
文章の趣旨は、禅ブームと言われているこの時期だからこそ、この点は少なくとも意識しておいて欲しい、ということなのですが、同時に、さらに踏み込んで言えば、共通点ではなく相違点を強調することの意味を読者は踏み込んで考えるべきでしょうね。著者は敢えて相違点を強調しているわけですから...
ここで、著者の言うとおり...と済ませてしまうならば、逆になぜ、著者がここで相違点を際立たせようとしているのか、その真意を理解できていないことになります。
真意が読み取れていない場合、その文章をきちんと読んだ、と言うことはできません。書かれた文章に対して、自分自身で考えるところまで行って、初めて読書という行為は完結するわけですし、さらに言えば、表面的な主張だけではなく、主張するその人のスタンスまで読み取りながら考慮して、その上で自分自身の考えをぶつける、という行為こそが、著者に対する最大の敬意だと私は思います。
英語が堪能で、禅を世界に発信していこうとする禅僧の牽引者の一人である著者のスタンスからすれば、むしろ積極的にマインドフルネスと禅が一緒にやっていける共通部分を強調するのが自然に思えるはずですね。しかし、敢えてそうではない態度をここで表明するところに、この著者が、真に伝えたい問題意識があるのです。
マインドフルネス瞑想を推進する側からは、特定の宗教を排除する、という強い排他性は、基本的には発信されません。
今日のマインドフルネスの議論の多くは、瞑想の技法に関わる基本的なテクニックの解説であったり、瞑想がもたらす「成果」の解説が中心です。
マインドフルネスを推進する側は、この「成果」の検討にあたって、基本的には「科学」という物差しを基本に据えることによって、誰もが納得し、乗っかることができる議論の土台をプラットホームとして準備していることになるのです。だから、どのような信念を持つ人であれ、科学的な結果を受け入れる、という点では共通の前提に立つことができるのですから、せっかく医学的にも証明可能な「良い成果」が出ているのですから、仲良くやっていきましょう、というスタンスになるのです。
これは、言うまでもなくそれ自体としてはとても良いことですし、反対する理由もありません。
ですから、ここで、いや、そうは言っても禅の修行における「坐禅」と「マインドフルネス瞑想」とは違う、一緒にしてしまってはいけない、と主張したとしても、たとえば、
マインドフルネス瞑想は、何も特定の宗教的信念を吹き込もうとしているのではなく、不合理な迷信的主張を押しつけようとしているのもないのですから、何が悪いのですか?
マインドフルネス瞑想は、各自の思想信条には踏み込みませんから、中立です。でも、仏教的な世界観の中には、今の時代に合わないものもたくさん入っているのですから、その方が問題なんじゃないですか?
あるいは、
数値として検証できる形で健康にも良いし、統計上有意味なかたちで組織集団のマネジメントにも効果が現れているのだから、反対する理由はないではないですか?
などと反論された場合、明らかにいまの社会的な常識から言えば「分が悪い」ことになります。
それでも、敢えて禅の側から、禅とマインドフルネスの違いは、わきまえておいてくださいよ、というには、それなりの理由があります。
一つは、この記事にもありましたように、「ゲインの考え方」の問題点です。
上に上げた反論をする人たちの多くは、
宗教は何か特定の思想信条を教義として受け入れることを要求するものだ...宗教は特定の教義を「主張」をするものだ...
という常識を、当たり前のように前提しています。宗教は、(場合によっては不合理な)ある特定の宗教的な信念を「得る」ことであり、その結果何らかの「御利益がある」...教義や御利益は異なれども、それがあらゆる「宗教」の基本的な構造だ、というわけです。
しかし、この記事でも指摘されているように、禅は「ゲイン」の考えを採りません。反対に、禅の修行は余計なものをすべて削ぎ落としていく「引き算」の修行なのです。
禅の修行は、一言で言うと「捨てる修行」です。余計なものを捨て、必要ではあっても不可欠ではないものを捨て、捨てられる限りのものを捨て、何かに頼る心を捨て、「ゲイン(御利益)」をあるいは「見返りを求める心」を捨てる修行なのです。そうしたものをいったんは捨て切ってみて、何が見えるのか...何を感じるのか...というところが、禅の真髄なのです。
反対に、禅の立場からすれば、皆さんに対して、
「ゲイン」「御利益を求める心」が本当にその人のために良いものなのかどうか、立ち止まって考えたことがありますか?
と尋ねます。
ご利益や見返りを求めるのは当たり前のことじゃないか、そんなものを否定したら、誰も生きていけないじゃないか!
という声も聞こえてきそうですが、何も御利益や見返りを求めてはいけない、と決めつけて言っているのではないのです。そうした心は、人間であれば誰もが持つものです。しかし、そうした思いを持って行動することが、本当にその人のためになるのか...それは自明ではないですよ、と言っているのです。
そうした思いは誰もが持つ...しかし、そうした思いに執着することが、かえって苦しみをもたらし、自分を傷つけ、人を傷つけてしまうことだってあるのではないですか...
理屈から言えば、御利益を求めても見返りを求めても良いはずなのに、そうすることによってかえって多くのものを亡くしてしまう...
そのことに憤って、さらに御利益や見返りに固執し、ますます多くのものを破壊し、喪ってしまう...そんなことが現実には溢れているのではないですか...
そう、問うているのです。
人間だから、そういう心を持つのは当然だ...確かにそうかもしれませんが、それはそう言う人間の都合でしかありません。その通りにならないことだって、いくらでもあるはずです。だから、「ゲイン」をベースにして考えるものの考え方を、本当にそれで良いのか? と立ち止まって問い返す必要があるのです。
宗教は、特定の教義を押しつけるように主張するものだ、と一般には思われがちだ、と先に書きましたが、特定の宗教的な信念を持たずとも、誰もが自分都合の信念を持っています。
人の人生の意味や価値、生命の重さまで計算可能とする「功利主義」...すべてを金銭という尺度の数量に換算し、その効率で図る「経済中心主義」...世界はそういった思想に充ち満ちています。
あるいは、「科学的な世界観」が中立であると仮に認めるとしても、その世界観を採用する背後には、欲望や執着に振り回される人間が存在するのです。だから、自分は宗教なんか信じていない、と語る人々であっても、自分都合の思い込みからは自由ではありませんし、だからこそ、禅の立場からは、まずは立ち止まって考えるべきだ、と言うのです。
さて、「マインドフルネス瞑想」が教えるやり方は、とても優れたものです。「マインドフルネス瞑想」として取り上げられ、脚光を浴び始めたのは比較的最近のことですが、もともとは「上座部仏教」の長い長い伝統の中で洗練され磨かれてきた「ヴィパッサナ瞑想」の方法論に支えられているからです。
そして、本当にこの瞑想の遣り方に従って瞑想修行をしたならば、「ゲイン」を求める心も、御利益や見返りを求める心も次第に薄れ、最終的には消え去っていくはずなのです。
そしてそうなったとき、
健康の数値が上がった...クリエィティヴな発想が生まれ、業績が上がった...ストレス耐性が増した...チームワークが良くなり、利益率も業績も飛躍的に向上した...
こうした成果を見る自分自身の目も、必然的に変わってくるはずです。つまり、生き方が変わるのです。
禅は、捨てること、つまり「ゲイン」ではなく引き算を通じて自分を変えなさい...自分に必要なものをその都度自分自身で見極めることができるような眼を自分で身につけなさい、という教えです。
ですから、禅の修行は、「科学的な世界観」に対しても、その世界観に従ってものを考え、行動することが、本当にその人のためになるのか、みんなのためになるのか、きちんと立ち止まって考えなさい、と教えるのです。
科学的に正しければ、その人その人の思いを無視して、ごり押ししてしまっても良いのですか...すべての行動を功利的な観点から合理的に整えて生きていく...果たして、そう言う生き方がその人にふさわしいものなのか...
すべてを科学的な世界観の基準で考え、割り切ってしまうことは、その人の人生にとって本当に良いことなのか...数値化され、実証されること以外は認めないという価値観で生きていくことは、本当にその人にとって良いことなのか...
これらすべては、自明のことではないのです。だから、瞑想を通じて心を見つめなさい...立ち止まってよく考えなさい...
当たり前のように思っている価値観世界観をいったんは捨てて、まっさらな心で素直に考えなさい、感じなさい...そう教えるのです。こうした点においては、禅もマインドフルネス瞑想(ヴィパッサナ瞑想)もやり方こそ多少異なるとはいえ、その本質においては全く同じなのです。
禅の立場として、覚えておいて欲しいことは、「科学的」なお墨付きがついているから、と自分の心の奥底にわだかまっている「ゲインの思想」を問い直すこともなく、ただ御利益と見返り、成果を求めてマインドフルネス瞑想に突進すると、結局は心の底にわだかまる欲望や執着に振り回されるだけの結果になりはしないか、ということなのです。
様々な悩みや苦しみの直接的な原因は、確かに商売敵であったり、不景気であったり、横暴な上司であったり、理不尽なクレーマーであるかもしれませんが、その苦しみを増幅させ、自分の身を滅ぼすほどにまで煽り立ててしまっているのは、実は自分自身の心の奥底にある欲望や執着の炎であったりするのです。だから、この記事で松山師が指摘している「ゲイン」の思想は、とても危険なのです。「ゲイン」を当たり前だ、としている限り、欲望や執着の芽は野放図に伸びていく危険をはらんでいるのです。
「ゲイン」を前提としてマインドフルネスに向かう人たちは、せっかく清らかな瞑想をするにしても、清める前にこっそりと欲望と執着の黒い種を密輸入して、自分の心に蒔いてしまっているのです...
「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れよ...」とイエスは教えましたが、マインドフルネスが新しい時代の到来を牽引する、未来に向かっての潮流であるのならば、身も心もすべて綺麗さっぱりとして始めるべきではないのか...御利益や見返り、欲望や執着...太古の昔からわれわれを苦しめてきた「古い種」を焼き払い、大地を清めてから、心を養うべきではないか...
私も禅僧の一人として、松山師の言葉に共感を覚えるのです...
松山大耕師の著書は、こちらです...
新発見の仏陀の遺骨...
銀の宝箱に収められた、仏陀のものかもしれない頭蓋骨が、中国、南京で発見された...(『アルケオロジー・マガジン』)
これはとても興味深いですね...
頭蓋骨を含む釈尊の骨が、大報恩寺(南京)の遺跡の地下礼拝所から発見された...(『アルケオロジー』)
こちらも...
仏陀の頭骨を収めているかもしれない古代の石櫃が地下から発見された...(『ライヴ・サイエンス』)
南京の大報恩寺は観光地としても知られていますが、ここの地下から石櫃が見つかり、その石櫃には鉄の箱が納められ、その中から仏舎利塔(スツーパ)がでてきたといます。
この仏舎利塔は高さ117センチ、幅が45センチ、金銀を鏤めた白檀製で、水晶、瑪瑙、硝子、ラピスラズリといった貴石で装飾されているといいますから、かなり華やかなものです。そしてこの仏舎利塔のさらにその中に銀製の宝箱が入っており、人骨と、頭蓋骨を納めた黄金製の宝箱が納められていたといいます。
石櫃には碑文が刻まれており、それによると、この石櫃は北宋の第3代皇帝真宗(しんそう:在位:997 - 1022 )の時代に作られたもので、入滅後の釈尊の亡骸がアショカ王の時代に84000のパーツに分けられて各地に納められ、そのうち19のパーツが中国に渡った。それがこうして納められるに至った経緯が記されているというのです。...
さてさて...
一方では、仏舎利と言われるものを世界中で集めると、その総重量は2トンほどになる...そんなことも言われたりします。
それにはもちろん、ちゃんとした理由があり、釈尊の入滅語の亡骸の処理が関わっていて、普通に考えるならば釈尊の亡骸は遺されてはいない、という結論に至ります。
しかし、真相は誰にもわからないのです...
この遺跡にまつわる物語は、現代に生きる私たちにとっても遙か悠久の昔に思いを寄せるきっかけになりますし、特に仏教を奉ずるものにとっては思いひとしおです。
そしてそれ以上に、この聖遺物の物理的な真贋はともかく、こうした形で大切に運ばれ、見事な装飾をこらされ、厳重に隠されて守られ続ける...その思いの凄さに心打たれます。それは、釈尊その人...苦しみに満ちたこの地上の生、現実世界での人生の中に、平安と癒やし、魂の救いを見いだした偉大な思想家にして宗教家、目覚めたる者...聖なる存在であるブッダ・シャキャムニに対する熱烈な思いが形となったものであり、いま再び、大報恩寺の地下に納められて後、千年以上の時を経て現実世界に出現したのです...
私たちが生きるこの現実を尺度にした上での事実や真実...そうしたものももちろん大切なのですが、それとは違う価値観に生き、信念に生きた人たちの思いは、現実の荒波、時間の猛威を乗り越えて、何百年、何千年もの時を経てなお、こうして形を取って私たちに大切なことを語りかけているのです。至誠をもって、至心から発する願い、祈りは、すべてを超えて同じ願いを持ち、祈る心に共鳴し、共振し、心震える経験を生み出すのです。
葬儀を考えることは、人の生き死にを考えることです...
そして人の生き死にを考えることは、自分自身の人生を考えることでもあるのです。
自分自身の人生と向き合うとき、何が見えるのか... 自分自身としっかりと向き合っていなければ、自分の人生の軌跡を穴が開く程見つめていても、何も見えてはこないのです... 仕事も、出世も、収入も、家族も、友人も...人生において大切なものはたくさんあります。しかし、そうしたものに対して、どこまで自分の人生を賭けることができるのか...それを決めるのは、自分自身なのです。
それが本当に大切なものであるかどうか...尊いものであるかどうか...守るに値するものであるかどうか...それは、そのものの「何であるか」ではなく、その人がどこまで命懸けで護り抜き、戦ったかによるのです...他人がどうこう言うものではないのです。
「捨ててくれ...」と言う人はいます。しかし、本当に捨てたければ、自分で捨てれば良いのです。 自分の方でちゃんと捨てていれば、あとはどうでも良いはずなのです。 それを、「捨てる」というのです。 この世を去ったあとまでも、いつまでも未練たらたら「捨ててくれ」「ゼロにしてくれ」...人に頼む前に、まず、自分がしっかりと捨てなさい...そう言わなくてはなりません。
「モノ」ならば、代わりに人に捨ててもらっても良いでしょう。しかし、自分の人生を集約するような場面において、「捨ててくれ」「忘れてくれ」は、甘えでしかないのです。大体、一人で、自分一人の力で生きてきたなどと思っているのでしょうか... どうしても捨てたければ、自分で捨てる。 自分で捨てる勇気も、覚悟もない者が、人に頼む... そして、本当に捨てる勇気があり、覚悟があるならば、いただいた命、いただいた人生、いただいたご縁を、溝に捨てるような真似はしないのです。
「勇気」「覚悟」といったものは、本当は、激情や感情のうねり、勢いや行き掛かりとは違うのです。 人生においては、自分の壁、自分の殻を破るためには、時には見境のない「蛮勇」が必要なときがあります...若いころには、特にそうです。
しかし、「勇気」「覚悟」というのは、本来は「智慧」に裏付けられていなくてはならないのです。 しっかりとした智慧を持ち、ことの是非善悪が解り、その是非善悪の限界も解り、自分の負っている恩義がわかり、感謝することを知り、自分の使命をわかっていなくては、勇気など出るはずもないですし、覚悟など、とても無理です。
本当の意味で「捨てる」ためには、捨てるべきものをしっかりと持っていなくてはなりません。命懸けで頑張り抜いた者は、その懸けた命の分だけ、捨てるべきものを持つ。その大切なものを、来たるべき人たちのために捨てる...自分が捨てることによって、道を開き、新しい者のために委ね、托す...これが、本来の「捨てる作法」なのではないか...大人たちが背中を見せて教えるべき「捨てる」とは、そういうものではないか...
もちろん、簡単ではありませんが、最初から投げてしまっていては、お話にもならないのです。 捨てることができない、覚悟ができない...自分自身と、自分自身の人生とに向き合う時の、この脆弱さは、わたしたちの時代が見失って久しいものを、影のように浮かび上がらせています。 目に見える危機も大切ですが、影のように傍らに控えるこの薄暗い影法師の不気味さを忘れてはならないのです...本当の危機は、この影の中にこそ、潜んでいるのではないか... そのように問う...これも大切な智慧なのです。