峡中禅窟

犀角洞の徒然
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マインドフルネスと禅...

2016-11-04 11:15:51 | 宗教

まずは、こちらを...

マインドフルネスと禅、その決定的な違いは何か?

松山大耕 講談社 GENDAI ISMEDIA 2016.11.03

 

 まだ、元になっている著書を読んでおりませんので、とりあえずはこの記事の限りでですが、これはとても明快でわかりやすいですね。指摘されている事柄も、その通りだと思います。
文章の趣旨は、禅ブームと言われているこの時期だからこそ、この点は少なくとも意識しておいて欲しい、ということなのですが、同時に、さらに踏み込んで言えば、共通点ではなく相違点を強調することの意味を読者は踏み込んで考えるべきでしょうね。著者は敢えて相違点を強調しているわけですから...


ここで、著者の言うとおり...と済ませてしまうならば、逆になぜ、著者がここで相違点を際立たせようとしているのか、その真意を理解できていないことになります。

真意が読み取れていない場合、その文章をきちんと読んだ、と言うことはできません。書かれた文章に対して、自分自身で考えるところまで行って、初めて読書という行為は完結するわけですし、さらに言えば、表面的な主張だけではなく、主張するその人のスタンスまで読み取りながら考慮して、その上で自分自身の考えをぶつける、という行為こそが、著者に対する最大の敬意だと私は思います。


英語が堪能で、禅を世界に発信していこうとする禅僧の牽引者の一人である著者のスタンスからすれば、むしろ積極的にマインドフルネスと禅が一緒にやっていける共通部分を強調するのが自然に思えるはずですね。しかし、敢えてそうではない態度をここで表明するところに、この著者が、真に伝えたい問題意識があるのです。


マインドフルネス瞑想を推進する側からは、特定の宗教を排除する、という強い排他性は、基本的には発信されません。

今日のマインドフルネスの議論の多くは、瞑想の技法に関わる基本的なテクニックの解説であったり、瞑想がもたらす「成果」の解説が中心です。
マインドフルネスを推進する側は、この「成果」の検討にあたって、基本的には「科学」という物差しを基本に据えることによって、誰もが納得し、乗っかることができる議論の土台をプラットホームとして準備していることになるのです。だから、どのような信念を持つ人であれ、科学的な結果を受け入れる、という点では共通の前提に立つことができるのですから、せっかく医学的にも証明可能な「良い成果」が出ているのですから、仲良くやっていきましょう、というスタンスになるのです。

これは、言うまでもなくそれ自体としてはとても良いことですし、反対する理由もありません。

ですから、ここで、いや、そうは言っても禅の修行における「坐禅」と「マインドフルネス瞑想」とは違う、一緒にしてしまってはいけない、と主張したとしても、たとえば、


マインドフルネス瞑想は、何も特定の宗教的信念を吹き込もうとしているのではなく、不合理な迷信的主張を押しつけようとしているのもないのですから、何が悪いのですか? 

マインドフルネス瞑想は、各自の思想信条には踏み込みませんから、中立です。でも、仏教的な世界観の中には、今の時代に合わないものもたくさん入っているのですから、その方が問題なんじゃないですか?

あるいは、

数値として検証できる形で健康にも良いし、統計上有意味なかたちで組織集団のマネジメントにも効果が現れているのだから、反対する理由はないではないですか?


などと反論された場合、明らかにいまの社会的な常識から言えば「分が悪い」ことになります。

それでも、敢えて禅の側から、禅とマインドフルネスの違いは、わきまえておいてくださいよ、というには、それなりの理由があります。

一つは、この記事にもありましたように、「ゲインの考え方」の問題点です。

上に上げた反論をする人たちの多くは、


宗教は何か特定の思想信条を教義として受け入れることを要求するものだ...宗教は特定の教義を「主張」をするものだ...


という常識を、当たり前のように前提しています。宗教は、(場合によっては不合理な)ある特定の宗教的な信念を「得る」ことであり、その結果何らかの「御利益がある」...教義や御利益は異なれども、それがあらゆる「宗教」の基本的な構造だ、というわけです。

しかし、この記事でも指摘されているように、禅は「ゲイン」の考えを採りません。反対に、禅の修行は余計なものをすべて削ぎ落としていく「引き算」の修行なのです。

禅の修行は、一言で言うと「捨てる修行」です。余計なものを捨て、必要ではあっても不可欠ではないものを捨て、捨てられる限りのものを捨て、何かに頼る心を捨て、「ゲイン(御利益)」をあるいは「見返りを求める心」を捨てる修行なのです。そうしたものをいったんは捨て切ってみて、何が見えるのか...何を感じるのか...というところが、禅の真髄なのです。

反対に、禅の立場からすれば、皆さんに対して、


「ゲイン」「御利益を求める心」が本当にその人のために良いものなのかどうか、立ち止まって考えたことがありますか?

と尋ねます。


ご利益や見返りを求めるのは当たり前のことじゃないか、そんなものを否定したら、誰も生きていけないじゃないか!


という声も聞こえてきそうですが、何も御利益や見返りを求めてはいけない、と決めつけて言っているのではないのです。そうした心は、人間であれば誰もが持つものです。しかし、そうした思いを持って行動することが、本当にその人のためになるのか...それは自明ではないですよ、と言っているのです。

そうした思いは誰もが持つ...しかし、そうした思いに執着することが、かえって苦しみをもたらし、自分を傷つけ、人を傷つけてしまうことだってあるのではないですか...


理屈から言えば、御利益を求めても見返りを求めても良いはずなのに、そうすることによってかえって多くのものを亡くしてしまう...

そのことに憤って、さらに御利益や見返りに固執し、ますます多くのものを破壊し、喪ってしまう...そんなことが現実には溢れているのではないですか...


そう、問うているのです。

人間だから、そういう心を持つのは当然だ...確かにそうかもしれませんが、それはそう言う人間の都合でしかありません。その通りにならないことだって、いくらでもあるはずです。だから、「ゲイン」をベースにして考えるものの考え方を、本当にそれで良いのか? と立ち止まって問い返す必要があるのです。

宗教は、特定の教義を押しつけるように主張するものだ、と一般には思われがちだ、と先に書きましたが、特定の宗教的な信念を持たずとも、誰もが自分都合の信念を持っています。

の人生の意味や価値、生命の重さまで計算可能とする「功利主義」...すべてを金銭という尺度の数量に換算し、その効率で図る「経済中心主義」...世界はそういった思想に充ち満ちています。

あるいは、「科学的な世界観」が中立であると仮に認めるとしても、その世界観を採用する背後には、欲望や執着に振り回される人間が存在するのです。だから、自分は宗教なんか信じていない、と語る人々であっても、自分都合の思い込みからは自由ではありませんし、だからこそ、禅の立場からは、まずは立ち止まって考えるべきだ、と言うのです。


さて、「マインドフルネス瞑想」が教えるやり方は、とても優れたものです。「マインドフルネス瞑想」として取り上げられ、脚光を浴び始めたのは比較的最近のことですが、もともとは「上座部仏教」の長い長い伝統の中で洗練され磨かれてきた「ヴィパッサナ瞑想」の方法論に支えられているからです。

そして、本当にこの瞑想の遣り方に従って瞑想修行をしたならば、「ゲイン」を求める心も、御利益や見返りを求める心も次第に薄れ、最終的には消え去っていくはずなのです。

そしてそうなったとき、

健康の数値が上がった...クリエィティヴな発想が生まれ、業績が上がった...ストレス耐性が増した...チームワークが良くなり、利益率も業績も飛躍的に向上した...

こうした成果を見る自分自身の目も、必然的に変わってくるはずです。つまり、生き方が変わるのです。

禅は、捨てること、つまり「ゲイン」ではなく引き算を通じて自分を変えなさい...自分に必要なものをその都度自分自身で見極めることができるような眼を自分で身につけなさい、という教えです。

ですから、禅の修行は、「科学的な世界観」に対しても、その世界観に従ってものを考え、行動することが、本当にその人のためになるのか、みんなのためになるのか、きちんと立ち止まって考えなさい、と教えるのです。

科学的に正しければ、その人その人の思いを無視して、ごり押ししてしまっても良いのですか...すべての行動を功利的な観点から合理的に整えて生きていく...果たして、そう言う生き方がその人にふさわしいものなのか...

すべてを科学的な世界観の基準で考え、割り切ってしまうことは、その人の人生にとって本当に良いことなのか...数値化され、実証されること以外は認めないという価値観で生きていくことは、本当にその人にとって良いことなのか...

これらすべては、自明のことではないのです。だから、瞑想を通じて心を見つめなさい...立ち止まってよく考えなさい...

当たり前のように思っている価値観世界観をいったんは捨てて、まっさらな心で素直に考えなさい、感じなさい...そう教えるのです。こうした点においては、禅もマインドフルネス瞑想(ヴィパッサナ瞑想)もやり方こそ多少異なるとはいえ、その本質においては全く同じなのです。

禅の立場として、覚えておいて欲しいことは、「科学的」なお墨付きがついているから、と自分の心の奥底にわだかまっている「ゲインの思想」を問い直すこともなく、ただ御利益と見返り、成果を求めてマインドフルネス瞑想に突進すると、結局は心の底にわだかまる欲望や執着に振り回されるだけの結果になりはしないか、ということなのです。

様々な悩みや苦しみの直接的な原因は、確かに商売敵であったり、不景気であったり、横暴な上司であったり、理不尽なクレーマーであるかもしれませんが、その苦しみを増幅させ、自分の身を滅ぼすほどにまで煽り立ててしまっているのは、実は自分自身の心の奥底にある欲望や執着の炎であったりするのです。だから、この記事で松山師が指摘している「ゲイン」の思想は、とても危険なのです。「ゲイン」を当たり前だ、としている限り、欲望や執着の芽は野放図に伸びていく危険をはらんでいるのです。

「ゲイン」を前提としてマインドフルネスに向かう人たちは、せっかく清らかな瞑想をするにしても、清める前にこっそりと欲望と執着の黒い種を密輸入して、自分の心に蒔いてしまっているのです...

「新しい葡萄酒は新しい革袋に入れよ...」とイエスは教えましたが、マインドフルネスが新しい時代の到来を牽引する、未来に向かっての潮流であるのならば、身も心もすべて綺麗さっぱりとして始めるべきではないのか...御利益や見返り、欲望や執着...太古の昔からわれわれを苦しめてきた「古い種」を焼き払い、大地を清めてから、心を養うべきではないか...

私も禅僧の一人として、松山師の言葉に共感を覚えるのです...

松山大耕師の著書は、こちらです...





 

 



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2 コメント

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禅と精神 (浜辺俊行)
2016-11-04 17:26:13
峡中禅窟さん、難しいです。禅とマインドフルネスの違いは分かったような気がします。禅がご利益を求めない事、マインドフルネスはビジネスに繋がる事。
禅が精神療法に、早く言えば精神病治療に用いれられております。
私は急性肝炎を二度発症しましたが、最初は心電図だけかけて、気のせいのように言われ、父が禅を取り入れた「森田療法」の治療に連れて行かれました。
病院の先生は「あなたは薬では治りません」と言われ週三回の講話に出て来なさい、との事でした。
中には酷い治療を受けてられる方もありました、電気ショックでした。

その後、会社に復帰しましたが自動車の運転が怖くなり、安定剤を飲んで仕事をしてました。

10年後また同じ事態に陥り、今度は市立病院に、、、内科で調べたら急性肝炎で、過去3ヶ月以前にもA型肝炎になり、自然治癒との事でした。

自然治癒はしても自動車の運転には支障をきたしなんとか会社を続けました、多分、「森田療法」の講話と関係があるのかな?と思っています。

現在は50歳で会社を辞め(パワハラ)52歳の時母が死に、直後から父も認知症になり4年後父も亡くなりました。
いま私は66歳、紆余曲折はありましたがなんとか猫と一緒に生きております。

やっぱり講話のおかげかなと思うのです。

ありがとうございました。
失礼致します。
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ありがとうございます (ブダ姫)
2016-11-06 02:02:21
全て読みました。
これを話す老師さまの
呼吸のもと、
もう一度ならず
何回も我々に話しかけていただきたいと
強く思いました。
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