写真は、パスカルが実験を行ったサン・ジャックの塔
今年は、雨ばかりの夏で、体感的に言えば、近年ではかなりの冷夏です。
初めに、こちらを...
*「太陽が15日連続で活動してない」NASAがガチ発表! 今の寒さは氷河期の前触れ、今後がヤバイ!
3年前の記事ですが、その後は、どうでしょうか...
*太陽元気なし 寒冷化予兆 11年周期の磁場転換起きず、黒点も最少
こちらも、一緒に...こちらの方が詳細です。
*「不気味なほど静かな太陽」地球が「小氷期」に入るとどうなるの?
The Huffington Post :Macrina Cooper-White: 2014年01月28
自然を前にすると、人間の世界が、いかに脆弱かよくわかります...
自然の大きさと、人間の非力...古くからの根本テーマです。
今日では、科学技術が著しく発展しましたから、こうした問題は忘れられがちになっているのですが、科学は、自然の猛威に翻弄される中から出発した、という側面を持っています。
本来はとても敵うことのできない強大な存在に向かって、知の力を頼りに、自然を司る法則を知り、その法則を統御することによって、いわば自然を超えていくことを目指すのです。
しかし、自然の世界を動かしている根本的な法則性を理解しても、現実の自然は絶えず「予測不可能」な振る舞いをする...
ひとたび、現実の出来事が生起した後であれば、その出来事を導く法則と論理を解明することはできる...
しかし、人間の歴史は、自然が常に一歩も二歩も先んじて、われわれには想像できない事象を起こし、人間はその出来事を後追いで理屈づける...そんなことを繰り返しています。
科学は、全体としてみれば、輝かしい成果の集積と言うよりは、常に予想できない振る舞いをする自然に翻弄され続けた歴史、という見方もできなくはありません...
もちろん、こうした見方をすることは、決して科学を貶めるものではありません。
それは、私たち人間が自然に向き合うその接点として、科学がおそらく、人間が持ちうる一番強力な武器だからです。私たちは、科学的な知の力を借りながら、翻弄されながらも、何とかここまでやってきた...むしろそう言うべきなのでしょう...
さて、自然と人間、そして人間の知...この問題が出てくるとき、必ず引き合いに出されるテーゼがあります...
「人間は考える葦である」...17世紀の哲学者ブレーズ・パスカル(1623-1662)の『パンセ』です。
...人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない...
とパスカルは『パンセ』の中で書いています。
...これをおしつぶすのに宇宙ぜんたいはなにも武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくでじゅうぶんことたりる...
このパスカルの言葉は、とても有名ですが、その言わんとしていることは、とても難しいものをはらんでいます。
人間は「最も弱い一本の葦」でしかない...
巨大な宇宙からすれば私たちなどは、「風の一吹き」「水のひとしずく」であっけなく死んでしまう...けれどもパスカルは、
...しかしそれは考える葦である...
と続けるのです。
...たとえ宇宙が押しつぶそうとも、人間は人間を殺すものより尊いであろう。なぜなら人間は自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間のうえに優越することを知っているからである。宇宙はそれについては、なにも知らない。それゆえ我々の尊厳はすべて思考のうちにある...
とても見事な言葉、見事な信念です...
しかし、パスカルのこの強靱な信念を、350年後の私たちは、果たして共有しているでしょうか...
現実の世界の中で、私たち人間の営みがあっけなく捻り潰される...
自然が法則に従って動いているからには、それはどうにもならないことです。
しかしそのとき、私たちは自分が自然の強大さの前に踏みつぶされることを「知っている」から「尊い」のだ、と言い切ることができるでしょうか...?
宇宙が私たちに優越する、ということを私たちは知っている...しかし、宇宙はそれを知らない...
この言葉、そしてこの言葉の中に響くパスカルの世界観の中には、人間のことを絶えず気にかけ、その救済を目指して歴史を動かす、キリスト教の正統的な「人格神」は、もはやその場を持たないかのように感じられてなりません...
『聖書』の神は、自分の許しなしには「あなたの髪の毛一本も落ちることはない...」と言い切る神です。しかしパスカルは、その神も、私たち人間の「知」の内実は知り得ないというのです...
もしも神が、人間の知恵、人間の考え、人間の思い、喜びと悲しみ、苦悩と不安、そして痛切な祈り...
そうしたものを「知らない」というのであれば、神の「人格」ということを主張することに、どんな意味があるというのでしょうか...?
私たちの思いを理解できない存在との間に、人格的な交流は基本的には成立しませんし、そういう存在を「人格」として「信頼」することができるでしょうか...
パスカルの言葉には、ただ法則にのみ従い、無慈悲に進展するシステムとしての自然、システムとしての宇宙...現代の私たちにも共通する荒涼とした世界観、宇宙観が感じられます。信仰者としてのパスカルの...しかも同時に、到来する新しい宇宙観、世界観に向き合わざるを得なかった科学者/哲学者パスカルの、もう一つの顔です。
それではパスカルは、信仰と知とに引き裂かれているのか...?
有名なこの言葉の中にも、こうした問題が顔を出しています...
さて、パスカルは「知」の中にのみ、人間の尊厳、非力な人間の偉大さを見ています。しかし、今日の私たちには、この思想はとても奇妙に映るのです。
意地悪く言えば、パスカルの論理を使えば、「おまえは知らないかもしれないが、俺はこの喧嘩でおまえに負けることを知っていた。だから、やっぱり負けたが、おまえに負けることを俺は知っていたんだから、俺の方がおまえよりも偉いんだ」という議論になりはしないか、ということです。要するに、「知っている」からといって、尊いということにはならないんじゃないのか...? ということです。
もちろん、それはその通りです...パスカルのこの議論は、論理ではありません。パスカルの思想は、根本のところで「信仰」の問題に食い込んでいきますから、結論めいたことを言うことなどとうてい無理なのですが、少なくとも「自分が死ぬこと」そして「宇宙が自分に優越していること」を知っている、という部分がポイントになることは間違いがないでしょう。
「自分が死ぬ」ということは、単に自分の命が終わるという事実を表現しているのではありません。私たち人間が「死すべき」存在だということです。自分たちが「死すべき者(モータル)」だと「知っている」というのは、知識ではなく「自覚」です。
誰かさんは、いつかは死ぬ。いつかわからないけれども自分にも順番が回ってくるだろうなぁ...ということではなくて、自分は必ず死ななくてはならない存在だ。そのとき、どうするか? それは、そのときになってばたばたしてどうなるものでもない。人生が短いことはわかっているのだから、限られた時間の中で、自分のやるべきことを全うしなくてはならない...
少なくとも、この程度の自覚はないと、どうにもなりません。
そしてもう一つ大切なことは、「宇宙が自分に優越している」ということ。つまり、この世には自分を超えるようなものが存在する、そして、その自分を超えるものが自分の命を奪うのだ、ということです。
パスカルは、その「命を奪うもの」を「宇宙」と呼んでいます。宇宙は、法則に従って動く...その中にある私たちもまた、その法則に従って生まれ、生き、そして死んでいくのです...宇宙は武装する必要などありません。私たちは最初から限りある命、有限な命を持ってこの世に生まれてきているのですから...そのときが来たら、ただ、死んでいくのです。宇宙はただ、法則に従って動いていくだけなのです...
だから、宇宙は、私たちの知にも、思いにも、祈りにも、一切関与しない...
しかし、肉体は有限であり、儚いものであるから、私たちはこの最も弱く、儚く惨めな肉体の彼方に向かって、やはり祈るのです。無慈悲な宇宙の進行には関わらないけれども、精神の世界には、彼方があるのではないか...
私たちには「精神」がある...「精神」は、現実の世界にあっては、弱々しい肉体よりも、さらに無力かもしれないが、肉体が滅びようとも、私たちの精神は、肉体と、宇宙、自然と法則の世界の彼方へと向かうことができる...神を知り、その偉大さを知ることができる。そしてその偉大さの前に跪き、祈りを捧げることができる...私たちの肉体が打ち拉がれるのは、それを通じて私たちが、肉体と自然、宇宙の彼方があることを知るためなのだ...
今のこの文章は、一つの例でしかありませんが、たとえばこうした思想は、「自覚」のレヴェルにおいて初めて出てくるものです。もちろん、現代の私たちには、こういう思想は担いきれないだろうと思いますが...
少しばかり議論が重く、難しくなりました。
大切なことは、パスカルの文章だったら、「尊い」あるいは「人間の尊厳」といわれているその「尊い」とは、いったいどういう意味なのか、どういう意味において「尊厳」があるのか、というところに集中して考え抜くことです。
本当の意味において「尊い」とは、どういうことなのか?
それがわかれば、有限な時間、有限な命の中で、何をなすべきなのか、どうすれば「考える葦」にふさわしい尊厳を得ることができるのか...
パスカルはその尊厳を「知」「知ること」だと言っています。
しかし、普通に「知識として知っている」などということは、それだけでは尊厳でも何でもない...
先ほどは「自覚」といいましたが、もしもそうならば、何を、どう自覚すれば尊いのか...それがわかれば、「考える」ということの意味がわかり、「考える葦」の尊厳がわかるわけです...
科学の話題からはずいぶん離れましたが、こうした一番根本的なところの「知」ということを、きちんと自分のものにしていかなければ、たとえ正しい情報をつかんでいたとしても、どうしていいのかわからないまま右往左往し、途方に暮れるしかないのです...
パスカルの言葉は、知識の問題を超えて、私たちの生き方そのものに突き刺さってくるのです。そして、「知」とは本来そうしたものであるはずなのです...
最後に、パスカル自身は人生の最後に「回心」を経験します...
パスカル31歳の時のこと...
パスカルはこの時に自ら記したメモを胴衣の裏に縫い付け、39歳で亡くなるまで肌身離さず持っていたといいます...
パスカルの『覚え書き』として知られるその紙片には、こうあるそうです...
*****
恩恵の年1654年
殉教者、聖クリソゴーヌおよび他の人々の祭日の前夜、
夜十時半ころより零時半ころまで、
火
哲学者および識者の神にあらず。
確実、確実、感情、歓喜、平和。
イエス・キリストの神。
「わが神、すなわち汝らの神 」
汝の神はわが神とならん。
神以外の、この世およびいっさいのものの忘却。
人の魂の偉大さ。
正しき父よ、げに世は汝を知らず、されどわれは汝を知れり。
歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。
われ神より離れおりぬ。
「生ける水の源なるわれを捨てたり 」
わが神、われを見捨てたもうや。
願わくは、われ永久に神より離れざらんことを。
永遠の生命は、唯一のまことの神にいます汝と、汝のつかわしたまえるイエス・キリスト とを知るにあり。
イエス・キリスト。
イエス・キリスト。
われ彼より離れおりぬ、われ彼を避け、捨て、十字架につけぬ。
願わくはわれ決して彼より離れざらんことを。
彼は福音に示されたる道によりてのみ保持せられる。
全くこころよき自己放棄。
イエス・キリストおよびわが指導者への全き服従。
地上の試練の一日に対して歓喜は永久に。
「われは汝の御言葉を忘るることなからん 」
*****
パスカルのこの「覚え書き」にある、
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神にして、哲学者および識者の神にあらず...
というのは、とても有名な言葉です。この言葉は、パスカルが人格神の信仰へと立ち返ったことだと理解されています。
ニーチェは、パスカルが初めは肉体的に、そして最後には精神的に「死んだ」のだと言い切ります。しかし、本当のところは、どうなのか...
パスカルにはジャクリーヌという妹がいました(Jacqueline Pascal;1625-1661)。ジャクリーヌは、熱烈な信仰を持ち、ポール・ロワイヤル修道院の修道女となりました。そしてパスカルとジャクリーヌは、終生深い絆で結ばれていたといいます...
ニーチェ的にいえば、パスカルはこの妹によって、精神的に殺されてしまったということになるのでしょうか...
それとも、反対に、科学と宗教、知と信仰の間で引き裂かれ、揺れ動き続けたパスカルは、その早すぎる晩年になって、ようやく真の魂の平安を得たのでしょうか...
これは、誰にもわかりません...永遠に。
そして、ひょっとすると、パスカル自身にもわからないことなのかも知れないのです。