峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

人間は考える葦である...人間の儚さについて思う...

2017-09-10 17:40:55 | 哲学・思想

写真は、パスカルが実験を行ったサン・ジャックの塔


今年は、雨ばかりの夏で、体感的に言えば、近年ではかなりの冷夏です。

初めに、こちらを...

「太陽が15日連続で活動してない」NASAがガチ発表! 今の寒さは氷河期の前触れ、今後がヤバイ!

Tocana:2017.03.27

 

3年前の記事ですが、その後は、どうでしょうか...


*太陽元気なし 寒冷化予兆 11年周期の磁場転換起きず、黒点も最少

産経ニュース 2013.11.18

こちらも、一緒に...こちらの方が詳細です。 

 

*「不気味なほど静かな太陽」地球が「小氷期」に入るとどうなるの?

The Huffington Post :Macrina Cooper-White: 2014年01月28


自然を前にすると、人間の世界が、いかに脆弱かよくわかります...
自然の大きさと、人間の非力...古くからの根本テーマです。


今日では、科学技術が著しく発展しましたから、こうした問題は忘れられがちになっているのですが、科学は、自然の猛威に翻弄される中から出発した、という側面を持っています。
本来はとても敵うことのできない強大な存在に向かって、知の力を頼りに、自然を司る法則を知り、その法則を統御することによって、いわば自然を超えていくことを目指すのです。
しかし、自然の世界を動かしている根本的な法則性を理解しても、現実の自然は絶えず「予測不可能」な振る舞いをする...

ひとたび、現実の出来事が生起した後であれば、その出来事を導く法則と論理を解明することはできる...

しかし、人間の歴史は、自然が常に一歩も二歩も先んじて、われわれには想像できない事象を起こし、人間はその出来事を後追いで理屈づける...そんなことを繰り返しています。


科学は、全体としてみれば、輝かしい成果の集積と言うよりは、常に予想できない振る舞いをする自然に翻弄され続けた歴史、という見方もできなくはありません...
もちろん、こうした見方をすることは、決して科学を貶めるものではありません。

それは、私たち人間が自然に向き合うその接点として、科学がおそらく、人間が持ちうる一番強力な武器だからです。私たちは、科学的な知の力を借りながら、翻弄されながらも、何とかここまでやってきた...むしろそう言うべきなのでしょう...


さて、自然と人間、そして人間の知...この問題が出てくるとき、必ず引き合いに出されるテーゼがあります...
「人間は考える葦である」...17世紀の哲学者ブレーズ・パスカル(1623-1662)の『パンセ』です。



...人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない...


とパスカルは『パンセ』の中で書いています。


...これをおしつぶすのに宇宙ぜんたいはなにも武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくでじゅうぶんことたりる...


このパスカルの言葉は、とても有名ですが、その言わんとしていることは、とても難しいものをはらんでいます。
人間は「最も弱い一本の葦」でしかない...

巨大な宇宙からすれば私たちなどは、「風の一吹き」「水のひとしずく」であっけなく死んでしまう...けれどもパスカルは、


...しかしそれは考える葦である...


と続けるのです。


...たとえ宇宙が押しつぶそうとも、人間は人間を殺すものより尊いであろう。なぜなら人間は自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間のうえに優越することを知っているからである。宇宙はそれについては、なにも知らない。それゆえ我々の尊厳はすべて思考のうちにある...


とても見事な言葉、見事な信念です...

しかし、パスカルのこの強靱な信念を、350年後の私たちは、果たして共有しているでしょうか...



現実の世界の中で、私たち人間の営みがあっけなく捻り潰される...

自然が法則に従って動いているからには、それはどうにもならないことです。

しかしそのとき、私たちは自分が自然の強大さの前に踏みつぶされることを「知っている」から「尊い」のだ、と言い切ることができるでしょうか...?


宇宙が私たちに優越する、ということを私たちは知っている...しかし、宇宙はそれを知らない...

この言葉、そしてこの言葉の中に響くパスカルの世界観の中には、人間のことを絶えず気にかけ、その救済を目指して歴史を動かす、キリスト教の正統的な「人格神」は、もはやその場を持たないかのように感じられてなりません... 
『聖書』の神は、自分の許しなしには「あなたの髪の毛一本も落ちることはない...」と言い切る神です。しかしパスカルは、その神も、私たち人間の「知」の内実は知り得ないというのです...


もしも神が、人間の知恵、人間の考え、人間の思い、喜びと悲しみ、苦悩と不安、そして痛切な祈り...

そうしたものを「知らない」というのであれば、神の「人格」ということを主張することに、どんな意味があるというのでしょうか...?

私たちの思いを理解できない存在との間に、人格的な交流は基本的には成立しませんし、そういう存在を「人格」として「信頼」することができるでしょうか...


パスカルの言葉には、ただ法則にのみ従い、無慈悲に進展するシステムとしての自然、システムとしての宇宙...現代の私たちにも共通する荒涼とした世界観、宇宙観が感じられます。信仰者としてのパスカルの...しかも同時に、到来する新しい宇宙観、世界観に向き合わざるを得なかった科学者/哲学者パスカルの、もう一つの顔です。

それではパスカルは、信仰と知とに引き裂かれているのか...?

有名なこの言葉の中にも、こうした問題が顔を出しています...



さて、パスカルは「知」の中にのみ、人間の尊厳、非力な人間の偉大さを見ています。しかし、今日の私たちには、この思想はとても奇妙に映るのです。
意地悪く言えば、パスカルの論理を使えば、「おまえは知らないかもしれないが、俺はこの喧嘩でおまえに負けることを知っていた。だから、やっぱり負けたが、おまえに負けることを俺は知っていたんだから、俺の方がおまえよりも偉いんだ」という議論になりはしないか、ということです。要するに、「知っている」からといって、尊いということにはならないんじゃないのか...? ということです。


もちろん、それはその通りです...パスカルのこの議論は、論理ではありません。パスカルの思想は、根本のところで「信仰」の問題に食い込んでいきますから、結論めいたことを言うことなどとうてい無理なのですが、少なくとも「自分が死ぬこと」そして「宇宙が自分に優越していること」を知っている、という部分がポイントになることは間違いがないでしょう。


「自分が死ぬ」ということは、単に自分の命が終わるという事実を表現しているのではありません。私たち人間が「死すべき」存在だということです。自分たちが「死すべき者(モータル)」だと「知っている」というのは、知識ではなく「自覚」です。
誰かさんは、いつかは死ぬ。いつかわからないけれども自分にも順番が回ってくるだろうなぁ...ということではなくて、自分は必ず死ななくてはならない存在だ。そのとき、どうするか? それは、そのときになってばたばたしてどうなるものでもない。人生が短いことはわかっているのだから、限られた時間の中で、自分のやるべきことを全うしなくてはならない...
少なくとも、この程度の自覚はないと、どうにもなりません。
そしてもう一つ大切なことは、「宇宙が自分に優越している」ということ。つまり、この世には自分を超えるようなものが存在する、そして、その自分を超えるものが自分の命を奪うのだ、ということです。

パスカルは、その「命を奪うもの」を「宇宙」と呼んでいます。宇宙は、法則に従って動く...その中にある私たちもまた、その法則に従って生まれ、生き、そして死んでいくのです...宇宙は武装する必要などありません。私たちは最初から限りある命、有限な命を持ってこの世に生まれてきているのですから...そのときが来たら、ただ、死んでいくのです。宇宙はただ、法則に従って動いていくだけなのです...
だから、宇宙は、私たちの知にも、思いにも、祈りにも、一切関与しない...

しかし、肉体は有限であり、儚いものであるから、私たちはこの最も弱く、儚く惨めな肉体の彼方に向かって、やはり祈るのです。無慈悲な宇宙の進行には関わらないけれども、精神の世界には、彼方があるのではないか...


私たちには「精神」がある...「精神」は、現実の世界にあっては、弱々しい肉体よりも、さらに無力かもしれないが、肉体が滅びようとも、私たちの精神は、肉体と、宇宙、自然と法則の世界の彼方へと向かうことができる...神を知り、その偉大さを知ることができる。そしてその偉大さの前に跪き、祈りを捧げることができる...私たちの肉体が打ち拉がれるのは、それを通じて私たちが、肉体と自然、宇宙の彼方があることを知るためなのだ...


今のこの文章は、一つの例でしかありませんが、たとえばこうした思想は、「自覚」のレヴェルにおいて初めて出てくるものです。もちろん、現代の私たちには、こういう思想は担いきれないだろうと思いますが...


少しばかり議論が重く、難しくなりました。


大切なことは、パスカルの文章だったら、「尊い」あるいは「人間の尊厳」といわれているその「尊い」とは、いったいどういう意味なのか、どういう意味において「尊厳」があるのか、というところに集中して考え抜くことです。

本当の意味において「尊い」とは、どういうことなのか?
それがわかれば、有限な時間、有限な命の中で、何をなすべきなのか、どうすれば「考える葦」にふさわしい尊厳を得ることができるのか...
パスカルはその尊厳を「知」「知ること」だと言っています。

しかし、普通に「知識として知っている」などということは、それだけでは尊厳でも何でもない...
先ほどは「自覚」といいましたが、もしもそうならば、何を、どう自覚すれば尊いのか...それがわかれば、「考える」ということの意味がわかり、「考える葦」の尊厳がわかるわけです...

科学の話題からはずいぶん離れましたが、こうした一番根本的なところの「知」ということを、きちんと自分のものにしていかなければ、たとえ正しい情報をつかんでいたとしても、どうしていいのかわからないまま右往左往し、途方に暮れるしかないのです...
パスカルの言葉は、知識の問題を超えて、私たちの生き方そのものに突き刺さってくるのです。そして、「知」とは本来そうしたものであるはずなのです...


最後に、パスカル自身は人生の最後に「回心」を経験します...

パスカル31歳の時のこと...

パスカルはこの時に自ら記したメモを胴衣の裏に縫い付け、39歳で亡くなるまで肌身離さず持っていたといいます...

パスカルの『覚え書き』として知られるその紙片には、こうあるそうです...

 

     *****


恩恵の年1654年 

11月23日、月曜日、教皇にして殉教者なる聖クレマンおよび殉教者名簿中の他の人々の祭日、 
殉教者、聖クリソゴーヌおよび他の人々の祭日の前夜、 
夜十時半ころより零時半ころまで、

    火 

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神にして、
哲学者および識者の神にあらず。 
確実、確実、感情、歓喜、平和。 
イエス・キリストの神。 
「わが神、すなわち汝らの神 」
汝の神はわが神とならん。
神以外の、この世およびいっさいのものの忘却。 
人の魂の偉大さ。 
正しき父よ、げに世は汝を知らず、されどわれは汝を知れり。
歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。 
われ神より離れおりぬ。 
「生ける水の源なるわれを捨てたり 」
わが神、われを見捨てたもうや。
願わくは、われ永久に神より離れざらんことを。 
永遠の生命は、唯一のまことの神にいます汝と、汝のつかわしたまえるイエス・キリスト とを知るにあり。
イエス・キリスト。 
イエス・キリスト。 
われ彼より離れおりぬ、われ彼を避け、捨て、十字架につけぬ。 
願わくはわれ決して彼より離れざらんことを。 
彼は福音に示されたる道によりてのみ保持せられる。 
全くこころよき自己放棄。 
イエス・キリストおよびわが指導者への全き服従。 
地上の試練の一日に対して歓喜は永久に。 
「われは汝の御言葉を忘るることなからん 」
アーメン 

      *****

パスカルのこの「覚え書き」にある、


アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神にして、哲学者および識者の神にあらず...


というのは、とても有名な言葉です。この言葉は、パスカルが人格神の信仰へと立ち返ったことだと理解されています。

ニーチェは、パスカルが初めは肉体的に、そして最後には精神的に「死んだ」のだと言い切ります。しかし、本当のところは、どうなのか...

パスカルにはジャクリーヌという妹がいました(Jacqueline Pascal;1625-1661)。ジャクリーヌは、熱烈な信仰を持ち、ポール・ロワイヤル修道院の修道女となりました。そしてパスカルとジャクリーヌは、終生深い絆で結ばれていたといいます...



ニーチェ的にいえば、パスカルはこの妹によって、精神的に殺されてしまったということになるのでしょうか...

それとも、反対に、科学と宗教、知と信仰の間で引き裂かれ、揺れ動き続けたパスカルは、その早すぎる晩年になって、ようやく真の魂の平安を得たのでしょうか...

これは、誰にもわかりません...永遠に。

そして、ひょっとすると、パスカル自身にもわからないことなのかも知れないのです。

 



ポンペイ最後の日から、およそ2000年...私たちは大プリニウスに再び会うのか...

2017-09-03 23:33:37 | 哲学・思想

8月24日は『大噴火の日』といいます...この日は、『ポンペイ最後の日』です。

少し遅くなりましたが、初めに、こちらを...

 

*Pompeii Hero Pliny the Elder May Have Been Found 2,000 Years Later...

HAARETZ:By Ariel David Aug 31, 2017

 

ヘッドラインは、『ポンペイの英雄、大プリニウス、2000年後に発見...』というもの。


西暦79年8月24日、ナポリ近郊のヴェスヴィオ火山が突然噴火し、麓に位置していたポンペイの市街は、およそ8メートルの火山灰により埋没...

『博物誌』で知られる大プリニウス(ガイウス・プリニウス・セクンドゥス:Gaius Plinius Secundus;22/23-79)は、このヴェスヴィオ山の噴火に巻き込まれ、命を落とした...

 

大プリニウスは「戦略」「歴史」「修辞学」から、「天文学」「数学」「医学」「絵画」「彫刻」...と、あらゆる学問領域に通じていました。『博物誌』は、自然と芸術についての世界最初の網羅的な百科全書で、古代の知恵の集大成だと評価されています。

 

皇帝ティトゥスへの献辞の中で、自分が100人の著者による、おおよそ2000巻の書物を参照し、そこから約20000件の重要事項を抽出したのだと大プリニウスは述べているといいます。最初の10巻は、西暦77年に発表され、残りは彼の死後、おそらく甥であり、後継者であった小プリニウスによって公刊されたのだとされています。

 


子供の頃、プリニウスはこの火山の調査のために噴火に巻き込まれたのだ、という文章を読んだことがあります。プリニウスの名前は、ポンペイと離れがたく結びついています。

しかし、事実はそれとは若干異なり、プリニウスは、もちろん火山の噴火という現象を観察したい、という意図はあったにせよ、同時に、ポンペイやその周辺都市に住む住民、そして友人たちを救出しなければ、という動機で、この災害に巻き込まれた、ということのようです。

 

大プリニウスは、ルネサンス期に新たな学問的基準が作り出され始めるまで、圧倒的な権威をもって読まれ続けた大著『博物誌(Naturalis historia)』(37巻)があまりに有名ですが、博物学者であると同時に有能な政治家であり軍人。

ローマ帝国の海外総督を歴任し、ヴェスヴィオス火山噴火の時には、ローマ西部艦隊の司令長官として、ナポリ北部近郊のミセヌムに駐留中だったといいます。


 

実は、この「ポンペイ最後の日」からさかのぼること17年前、紀元62年2月5日に、ポンペイは激しい地震に襲われ、近郊のカンパニア諸都市とともに甚大な被害を被っています。

町はすぐに、更に規模を大きくするかたちで再建...

しかし、その再建作業も完全に終わらない紀元79年8月24日に、今度はヴェスヴィオ山が突然大噴...一昼夜にわたって火山灰が降り続け、翌25日には、ポンペイ市街は完全に地中に埋まってしまったといいます。


大プリニウスは、ローマ西部艦隊の司令長官としてポンペイの市民を救助するために、ナポリ湾を横切って、30キロメートル離れた反対側のスタビアに船で急行します...



ヴェスヴィオ火山の噴火に最初に気がついたのは、甥であり、養子として後を嗣いだプリニウス...ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Caecilius Secundus;61-112)の母親だといいます。79年の8月24日の午後、その時大プリニウスと一緒にミセヌムにいた甥プリニウスの母は、異様な姿と大きさの雲に気がつき、どういうことなのか調べて欲しいと大プリニウスに知らせたというのです。

因みに、この大プリニウスの甥にあたるプリニウスは、この物語の主人公である大プリニウスと区別するために「小プリニウス」と呼ばれますが、自身もローマ帝国の政治家、文人です。属州の総督を務め、元老院の議員でもあった人物で、資産家としても知られていたといいます。

小プリニウスは、『ゲルマーニア』『年代記』の著者として歴史に名を残すコルネリウス・タキトゥス(Cornelius Tacitus;ca.55-ca.120)と親交があり、タキトゥスの求めに応じて、「書簡」のなかで一連の経緯を詳細に伝えています。この小プリニウスの『書簡集』は当時の歴史を知る上での第一級の史料となっていますが、その中で、ヴェスヴィオ火山の噴火について、


雲の形については、松の木に似ているということ以外に詳しく言い表せません。高い幹が空高く屹立し、上部では枝のように広がっておりました...

 

と伝えています。

 

 

これは、1822年のヴェスヴィオ火山の噴火の画ですが、上部が枝を這ったように広がるこの噴火を、小プリニウスの詳細な記述にちなんで「プリニー式噴火」と言います。日本では、1783年に浅間山がこのプリニー式噴火を起こし、「天明の大飢饉」となって老中の田沼意次が失脚しています。因みに、文中に、噴煙を松の木にたとえるのは、イタリアカサマツの姿だと言われています。

 

 

プリニー式噴火は、噴き上がる巨大な噴煙柱が、通常でも高度一万メートル、場合によっては成層圏に達し、五万メートルに到る場合もあるといいます。

数日から数ヶ月にわたって一帯を暗闇に包み、最後には噴煙柱が自らの重みに耐え切れずに崩れ落ち、火砕流となって麓を襲います。その破壊力は凄まじいもので、周辺百キロを瞬時に飲み込んでしまうこともあるといいます。

小プリニウスの書簡では、雲が山の斜面を急速に下って海に雪崩れ込み、火口から海までを覆ったと記されています。


さて、大プリニウスは、当初は博物学者としての興味と探究心から、足の速い小型船でこの現象の調査に赴くつもりでいたものの、ポンペイ近郊のスタビアにいた友人の家族から、伝書鳩を用いたか狼煙を使って伝えられた、スタビアの絶望的な状況を知り、ローマ帝国の艦隊司令官として自身が動かすことのできる最高の軍船を使って、友人たちだけではなく「あの美しい海岸に住む多くの人々」を助けようとしました。

ここで大切なことは、2014年にイタリア防衛省についての著作を出版したフラヴィス・ルッソが、大プリニウスのこの艦隊派遣について、インタビューで、


彼(大プリニウス)以前には、戦のために建造されたものが、人を助けるために活用しうるなどと思いつく者はいなかった...


と語っていることです。つまり、大プリニウスの判断は、軍隊の災害派遣の先駆です。これが、ヘッドラインの「ポンペイの英雄」という言葉の由来です。


いずれにしても、大プリニウスが派遣した軍船は、およそ200人程度の兵士あるいは避難民をデッキに収容し、しかも悪天候の中でも航行することができる最強の軍船であったといいます。

しかし、ひとたび火砕流が発生してしまったならば、打つ手はありません。

大プリニウスは、スタビアに到着すると下船し、友人たちを探しますが、避難民を導いてスタビアの海岸に来たところで火砕流に巻き込まれ、命を落とします...行方不明になった2日後、「眠るがごとき」姿の亡骸が発見されたといいます。


フラヴィウス・ルッソは、大プリニウスの艦隊派遣によって、最大でおよそ2000名の生命が救われたのではないかと見積もっています。

2000名という人数は、79年のヴェスヴィオ火山の噴火で全滅し、後に発掘されたポンペイ、ヘルクラネウム、スタビアでの犠牲者の数とほぼ同じです。

大プリニウスは、自身が艦隊と共にスタビアに赴くと同時に、ヘルクラネウムにも軍船を派遣しています。



1980年代に、ヘルクラネウムの港の発掘が行われ、軍営の跡と焼け焦げたボートと乗組員、そしておよそ300人の亡骸が見つかりました。



海岸まで避難しても、なすすべもなくなく死を迎えた人々の姿は、改めて自然の猛威のすさまじさを物語ります...



さて、更にここから、後日譚が...


初めの記事は、クラウド・ファンディングのお願いです。その経緯を...


20世紀の初頭に、技師をしていたゲンナロ・マトローネという男が、スタビアの海岸近くでおよそ70体の人骨を発掘しますが、その中の一体は「黄金の三重ネックレス」「黄金のペンダント」そして「象牙と貝殻で象眼された短剣」を身に帯びていたといいます。

小プリニウスの伝える情報と場所も状況もピッタリであったことから、マトローネはこの人骨が大プリニウスのものだと主張します。

しかし、当時の考古学者たちは、ローマの軍司令官たるものが「キャバレー・ダンサー」のような宝石を身につけて海岸を走り回るなどということは、あり得ない、と一笑に付します。

侮辱されたマトローネは、短剣とこの豪華な装身具を身につけていた人物の亡骸だけを残して、黄金の装身具を闇のバイヤーに売り払い、残りの人骨をすべて埋め戻してしまいます。後に、短剣と人骨はローマの小さな博物館に寄贈され、今日に到るまでほとんど忘却の淵に沈んでいたといいます...


しかしルッソは、マトローネの残したスケッチから、黄金の装身具も短剣の装飾も、ともにローマ帝国海軍の高位将官にふさわしいものであり、大プリニウス自身が属していた騎士階級にも合っている、と指摘しています。

更に、ある人類学者はこの人骨が50代の人間のものであると結論づけましたが、小プリニウスの記述から、大プリニウスが亡くなったのはまさに56歳であり、年齢的にも矛盾がありません。


こうした経緯を踏まえて、本題です...


ルッソたちは、アルプス山中のエッツィ渓谷で発見された「5300年前の男」『エッツィ(アイスマン)』の鑑定をした研究者たちに、さらなる調査を依頼したいというのです。スタビア近郊で発見されたこの人骨がプリニウスのものであると断定はできない...しかし、そうかも知れないという示唆を与えるものが沢山ある...だから、科学的に精査をする価値がある、と言いたいのです。

ルッソたちが提案する調査は、2つです。


(1)骨格を復元し、大プリニウスの肖像と比較する。

(2)歯を放射性同位元素の検査にかける。


重要なのは、後者です。

というのも、後者の検査は分子人類学の領域のもので、たとえば私たちが飲んだり食べたりすると、飲み水や食べ物を通じてその土地の土壌から様々な金属成分が体内に吸収されます。そして、土壌に含有される金属成分の組成は、場所によって異なるというのです。

体内に取り込まれた金属成分は全身に回りますから、私たちの歯のエナメル質の金属成分の組成を調べると、エナメル質が形成される少年期に、その人がいったいどこで育ったのかがわかる、というのです。


この調査をするには、おおよそ1万ユーロのお金が必要となるそうです。そして、もしも科学的なテストが可能になるのであれば、大プリニウスが生まれ育った北イタリアのコモ地方の土壌サンプルと照らし合わせることで、この人骨の人物を同定する道が、更に先に進む...


この人骨を収蔵する博物館は、歯のサンプルを採ることを快諾しているといいます。

更に、ローマ時代の人骨が、人物のレベルで特定されるというケースは、実はきわめて稀だ、という事情もあるといいます。

ローマ時代の人々は、キリスト教の聖者や殉教者を除けば、たとえばエジプトのファラオのように、きちんと死者の亡骸を装飾し、名前がわかるように埋葬したりはしなかったし、何よりもイタリアはエジプトの砂漠のような乾燥地帯ではないというのです。その点、ポンペイのようなケースは、ヨーロッパでは貴重な「タイム・カプセル」ケースだ、といいます。そういう意味でも、この調査には学術的な価値がある、というのです。


さて、このクラウド・ファンディングに応ずるかどうか...それは各自の問題です。このブログはそういう意図で書いたのではありません。

このブログの動機は、記事を書いている人物の、大プリニウスに対する尊敬の念に興味をそそられたからです。

元の記事では、ヘッドラインでは、ポンペイを壊滅させたヴェスヴィオ火山の大噴火のような大災害にさいして、いのちの危険を顧みず大胆な災害支援を決断し自ら犠牲になった偉大な軍司令官プリニウスへの関心を喚起していますが、結論部分では、学問することに身を捧げた博物学的=百科全書的な知の巨人である大プリニウスへの賛辞が中心になっています。

プリニウスの『博物誌』は、確かに膨大な情報量を誇り、驚異的な幅広さを誇るものの、迷信や不確かな伝聞の類いも多く、今日の目から見れば、奇妙なものに見える...そのような指摘もあります。もちろん、今日の科学から批判することは簡単であり、それほど意味のあることだとは思いませんが、それはそうでしょう。反対に、そうでなければ、その後の2000年近い歴史の中で、私たち人類は一体何をやってきたのだ、ということになります。

しかし、元の記事を書いているライターは、自分たちの調査がどのような結論を出そうとも、プリニウスその人がもしもその結果を見たとすれば、疑がわしげな態度を取るであろうし、私たちに対して「ひとつまみの塩をもって(with a grain of salt)」つまり「懐疑的に」物事を受け止めよ、と説くであろうし、「唯一の確かなことは、確かなものなどないのだ」ということを私たちに思い出させてくれるであろう、と書いています。

大プリニウスは、その人生の最後において、ヒューマニズム的な勇気を奮い起こした...そして、学問の勇気は、それと同じだ...と言いたいのでしょう。その点に関しては、私もまったく同じ思いです。

もと記事の最後に、このようなエピソードが紹介されています...

小プリニウスの記述によれば、

ヴェスヴィオ山に向かう艦隊に火山灰が豪雨のように降り注ぎ、火山弾が凄まじい勢いで雨霰と降り始めた時、港に戻りましょう、と提案する舵手に向かい、大プリニウスは言った...運命は勇敢な者を好む...