峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

『遺体の冷凍保存(Cryonics)』を決断することは...

2016-11-22 16:44:48 | 哲学・思想

初めに、こちらを...
 
 
 
 
  
 
人間の体を特殊な技術によって「冷凍保存」し、しかるべき時に「解凍」「蘇生」させるという技術は、以前からありましたし、そうしたことを事業化した業者の存在も、既にかなり以前に耳にした事があります。
たとえば、こちらを参照...
 
 

 
しかし、実際には事情はそれほど簡単ではないようです。
こちらも、参考に...十年以上前のものですが、内容的に見て、事情がそれほど変わるとも思えません...
特に、人間が複雑な構造を持っている、ということだけではなく、寒冷化に対して生体的な対応反応をできる生き物とそうでないものとの違いは、大きいように思われます。変温動物は、自力で体温の調節ができませんから、外界の温度変化に対して様々な対応戦略を機構的に身体に備え持っているのでしょう。
 
 
 
 
さて、この問題がここで改めて取り上げられる理由は、主に、
 
この少女がまだ13才であった…つまり未成年であったこと…
父親(離婚していた)が反対していること…
裁判で争われ、未成年のこの少女が勝訴したこと…

なのですが、ここでは、議論の詳細には立ち入りません。
というのも、記事から窺う限りは、今回問題となったポイントは、 まず初めに、
 
未成年者が、(自分自身のものであっても)生殺与奪の権限とまでは言わないにしても、生命の根幹に関わる問題についての判断に関して決断することの是非であること。

次に、
 
親権者のうち、離婚した父親、それも長い期間(8年間)面会もしていない父親が反対者であることだからです。
 
つまり、「遺体の冷凍保存」の問題は、きっかけとはなっているものの、今回の「問題化」のメインの主題とはなっていないのです。

しかし、「遺体の冷凍保存」そのものの問題は、実はそれよりもはるかに大切な問題ではないか...
それも、将来における蘇生可能性の是非といったような技術的な問題ではなく、死とどう向き合うのか、という、より根本的な問題に関わるのではないか、ということです。
今あげたような諸々の問題は、もちろん、確かに大切なものではあるのですが、大本の問題から私たちの眼を逸らせてしまう可能性があるのです。
 
今回のケースは、じっさいに裁判となり、判決が下され、この女性の意思は尊重された...
この少女に残された生命の時間はきわめて短く、早急な解決が求められていました。
だから、まずは、現実的な解決を呈示しなければならないという、現実の必要性によって、時間的な緊急性が最大限に優先されたわけです。

しかし、現実的な切迫性、あるいは時間的な緊急性も、確かに事態の重要性を測る物差しではあるけれども、問題そのものの重要性と必ずしも同一ではありません。
さらに、議論を先取りしていえば、社会の側からは最終的な解決を呈示することができない問題に対しては、答えようがないのだから社会としては向き合わなくても良い、ということにはならないのです。つまり、最終的に、「それは本人自身の問題だ」という結論しかないようなことであっても、それが私たち一人一人にとって重大な問題であるのであれば、答えを出す場ではないとしても、社会全体でそれを大切な問題である、と認識し、考える姿勢を示していくことが不可欠ではないか...少なくとも、そうすることによって、本筋を見失った議論のぐるぐる回りに陥ることを回避することができるのではないか...そう思うのです。
 
さて、この記事の問題に戻って言えば、社会に対するひとりひとりの個人としての意思決定の重みの問題や、人が充分に成熟し、分別を身につけて、社会において誰とでも対等に尊重するべき形で意思決定できるようになると見なすべき年齢の問題は、結局のところ、それぞれの社会の「文化」の問題になってしまいます。それはつまり、それぞれの文化の中での相互了解に基づける以外にはありません...
ですから、どのような結論であれ、それぞれの文化的な背景を共有する集団を離れての普遍的な根拠を持つものではないし、その文化の内部においてすら、いくらでも「例外」に晒され得るものなのです。結果として、幅広い視野を入れながら議論を深めていけば、こうした一人の人間の生死に関わるような重大な問題であっても、というよりも、一人の人間の生死に関わるような重大深刻な問題であるからこそ、その結論は普遍的な価値判断の基準を喪ってしまい、箇々の集団を突き抜け、最終的には一人一人の個人の問題へと収斂していかずにはすまないのです。つまり、最終的な決定は、普遍的な判断基準ではなく、相対的な、個人的ー個別的なものに委ねられることにならざるを得ないのです。
哲学的にいえば、最終的には「実存」の問題ということになります。ですから、それなりに筋の通った理屈を提示さえすれば、この記事のケースのように、14歳というまだ「少女」あるいは「少年」と言ってよい年齢の人にも、自己決定の意思を尊重するべき、という結論が出てくることは、理解できます。

しかし、既に触れたように、もっと大切なことは、ここでのケースに関して、その「社会的な判断」の「妥当性」を検討し、あるいは個人の「意思決定」について能うる限りの普遍性を帯びたガイドラインのようなものを拵えようと努力するだけではなく、大人であれ子供であれ、老若男女を問わず、一人の人間として自分の「生死」に向き合うことの厳粛さと過酷さを先ずもって確認することではないのか...
社会的な努力は社会的な努力でしかないのです。いくら公共性に基づいて個人の死の問題を回避しようとしても、個の問題、他人がではなく、「自分」がという問題は、どうしようもなくめいめい一人一人にかかってくるのです。ここが一番中心となる議論の核心だということは、忘れられてしまってはならない。つまり、本当の問題は、少女が...あるいはこの少女が...ということではなく、私たち一人一人が、「自分は...」と真摯に深く問うことがまず最初になければならないのです。
 
死と向き合うことは、とても大変なことです。親しい人や身近な人の死に面することであっても、これは過酷な体験になります。ましてや、自分自身の死の問題は、誰にとってもあまりにも重い問題です。「哲学とは死の訓練である」というのはソクラテスの言葉ですが、人は一生かかって、自分自身の死に向き合う準備をする...
そして、まだ14歳の少女、人生の経験も少なく、死を迎えるための様々な経験も知恵も熟していない少女に、無防備に近いその状態で死に立ち向かえ、というのがどれほど過酷で無慈悲なことか...
しかし、だからといって、誰もこの少女の身代わりをすることはできませんし、助けてあげることなどできないのです。
 
この少女は、判事に宛てて「私はまだ14歳で、死にたくありません」と綴ったといいます。
恐ろしい死を回避するために、「クライオニクス(人体冷凍保存)」を通じての将来の蘇生に賭けたわけです。この気持ち、この思いは、誰にもよくわかりますし、誰もが共感する部分を持つもの
です。
しかし、何十年かして、本当のこの少女が蘇生に成功したとして、そこに親しい人の顔はあるでしょうか...
その時、世界はどう変わっているのか、誰にもわかりません。
この少女は、死という全く未知の世界に赴くことを先延ばしにしようとしましたが、蘇生を通じてこの世界に帰ってきたとしても、そこはこの少女が慣れ親しんでいた社会ではないかもしれないのです。自分の全く知らぬ世界、自分を知る人もない世界に、たった一人帰って行かねばならないかもしれない...
そしてもう一つ...
この少女は、たとえ蘇生に成功して将来の進んだ技術によって病を克服し、望み通りの人生を再開できたとしても、人間はいつかは死んでいかねばならない者ですから、将来再び自分自身の死を迎える...謂わば二度、死ななければならないのです。あるいは、死のような体験を繰り返さなければならないのです。
 
誰にとっても、将来とは予想不可能なものなのです。
ましてや、途中の過程を飛び越えてしまう形で将来に向き合うということは、どれほど大変なことか...
果たして、そうした危険を承知の上で、将来開けるかもしれない人生の時間に賭ける試みは、死に向き合うことと較べて、その過酷さを和らげることになるのでしょうか...
 
誤解して貰っては困るのですが、私はここで、この少女の下した決断についてどうのこうの言おうとしているのではありません。
この女性は、まだ若いながらも、過酷な自分自身の人生に向き合い、決断したのですから...
ただ、私たち一人一人は、やはり自分自身の問題としてこの問題を考えなくてはなりません。それは、「クライオニクス(人体保存冷凍)」の問題としてではなく、自分自身の死とどう向き合うのか、という問題としてです。
14歳の少女が自分の死と向き合う...これほど過酷なものではないにしても、誰もが自分の死に直面したとき、「まだまだ早い、まだまだ死にたくない」と思うものです。
誰にとっても、死と直面する瞬間は、「早すぎる」のです。
だから、問題の本質は、「クライオニクス」をめぐる様々な議論のなかになどは存在しないのです。
この少女の決断から私たちは何を思い、何を考え、何を学ぶのか...

私たち一人一人がしっかりと自分の人生を、その終わりに向かって考えることをしなければ、五十になろうが、六十になろうが、無防備に、準備もなく右往左往しなくてはならないのです。
「メメント・モリ(死を想え)」は、過去のことではなく、現在も、将来も、限りある生命の者にとっては、永遠のテーマなのです...
 
 
参考に、こちらはクライオニクスを提供している企業のページ...
 
 


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2 コメント

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共感 (黒瀬愛)
2016-11-22 18:35:31
老師様は、宗教家として丁寧に分かりやすく、死について問いかけていらっしゃいますね。
とても共感しました。
誰もが避けて通れなくても、死については核家族になってから遠ざけられている問題。
常に死を意識するのは誰もが嫌がるでしょうが、
死と向き合う事で密度の濃い人生を送れるはずです。死にたくないのは誰でも同じです。

作家の池波正太郎さんがエッセイで誰もが死に向かって時を刻んでいる。だから、十二分な仕事をして、自分の自由時間を食道楽と絵画に注いだ。
池波さんは、年賀状を毎日一枚づつ書いて、12月にはきちんとだせるように。仕事も年末前に終らせ、人が働いている時遊んで人が休みのお正月に仕事をすると言う几帳面な人生を送られました
。72歳で白血病で亡くなるまで膨大な仕事をして、沢山遊んで好きなものを召し上がって人に真似できない人生を送った。羨ましく見習いたい方の1人です。
あっと言うまに終わる人生最後の日まで自分らしく、少しでも人に役立つ事をして死にたいです。
死と言う爆弾が落ちる前まで明るく元気に生きたいです。
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Unknown (budahime)
2016-11-22 23:05:58
解決のない、神秘的な状態なのでしょうか。自然の息吹と考えるには、あまりにも残酷のように思います。多種多用な解釈と理解があります。
老師さまの、厳粛と過酷を確認との内容は、納得いたしました。現在、死への願望も存在することは、失敗への恐怖であったり、成功への恐怖であったりということなのでしょうか。あらゆる意味を失ってしまったあと、生還しよう、という、人間の巨大な欲望を、創造的に緊張感を持って、考えたいと思いました。
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