峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

西谷啓治:『宗教とは何か』...03

2012-08-24 13:34:37 | 宗教哲学

西谷啓治:『宗教とは何か』...03

 

『緒言』から...02

 

前回は、西谷が「宗教とは何か」という問いを「自分が自ら問ひつつ自ら解答を求める」という構造を持つ問い、「自問自答」の循環の中に読者自身で踏み込んでいくべき問いとして提示しようとしているということを指摘した。

 

そして、こうした「自問自答」の循環は、科学的-客観的な問題ではなく、あくまでも自分自身の問題...「生き方」あるいは「信念」や「信仰」の根幹にかかわるような問題に特徴的なものであること、そして、それ故にこそしばしば解答がない、ということにも注意を促した。

 

さて、同じこの『緒言』の中で西谷は、更に、この「自問自答」の循環を、別の側面から切り出してきている。それは「宗教」を「時間」あるいは「歴史」の位相から切り出してくる観点である。

 

前回にも書いたように、「宗教学」といえば、一般的には「従来の諸宗教に現れたさまざまな事象」に基づく、一般的な特質の究明であり、あくまでも「過去から伝えられた既成の事実」に立脚した分析、解明である。だから特に意識して、現代の宗教を扱うというスタンスを取らないかぎり、基本的には「過去にあった宗教」に目を向けたものになる。

 

しかし、いうまでもなく、それでは宗教の一番大切な根本が抜け落ちたものになってしまう。宗教はその時その時の、同時代の人間の精神的な要求に応えていくものであり、生きたものとしては常に「現在」のものでなければならないからである

 

もはや祈りにも答えることなく、それゆえ祈られることもなく、書物の中にかろうじてその名と事績の痕跡を残すだけの宗教...「宗教とは何か」という問いを立てるとき、そのような宗教を出発点として思索を始める者などいないのである。

 

それは、確かに「宗教であったもの」ではあるが、もはや生けるものとしての「宗教」ではない。その時、その時点において時代の精神をしっかりと受け止めて、生きたものであった宗教も、時がかわり、時代の精神が変われば精神的な力を失う...時代と精神を共有しない者が見れば、それは「迷信」「盲信」にしか見えないであろう。そうしたものを笑い飛ばすことは簡単なことなのであるが、確かにそれは、生きて、その時代の人間の精神的な苦悩に答え、魂の救済をしていたものなのである。

 

それならば、ここで私たちは自問自答しなくてはならない...今の時代に、現代のわれわれの心の苦しみ、悩みに答えるようなものを、私たちはもっているであろうか? 時代の変化と共にその使命を終え、かつては持っていた「宗教性」を喪失した亡骸を採りあげ、その亡骸がもはや「生きていない」という理由で「迷信」「盲信」扱いすることは、本当に正しい態度であると言えるであろうか? 

 

「私たちは、科学技術に代表されるような、人間の英知によって、迷信、盲信を克服した...」---然り、確かにそうかもしれない。しかし、生の苦しみの問題、老いの問題、病の問題、死の問題...世界を覆い尽くしているように見えるさまざまな深刻な問題...戦争、飢餓、貧困、差別や偏見、民族間、宗教間の憎しみ...こうした、技術や学問、「人間の英知」と呼ばれるものによっては、どうすることもできないような、さまざまな問題に直面したとき露わになる、私たちの精神的な脆さはどうであろう...

 

一つの例を引こう。平安時代のまさに絶頂期に君臨した藤原道長は、いよいよ臨終を迎えるときに(万寿4年:1027年)、自分の病床を法成寺の阿弥陀堂に運ばせ、九体の阿弥陀如来の手から五色の糸を自分の手まで引っ張らせて結び、北枕、西向きに横たわる。そして天台座主を招いて念仏読経させ、主だった人々に囲まれながら、自らも念仏三昧に入ったという。その死に様は安らかで、息を引き取った後もまだ念仏を唱えているかのようであったという。

 

道長に限らず、当時は阿弥陀信仰が盛んであり、阿弥陀如来の来迎図を描いた屏風を寝床のすぐそばまで持ってこさせ、阿弥陀如来の手のところから五色の糸を引っ張らせる。そしてその糸のもう一方の端を自分の身体に結びつけさせ、念仏三昧に入る、といった事がなされていたという。阿弥陀信仰に基づくこうした臨終の儀式が、まさしく一種の「往生術」(良い往生を迎えるための技法)として、死に立ち向かう人間の精神的な支えとして生きており、その結果念仏三昧に入りながらの安らかな往生を導くことに成功していたとするならば、どうであろう。こうした臨終の作法は、愚かな迷信、鰯の頭も信心から的な盲信と言えるであろうか...

 

現代人であれば、そもそも「臨終を迎える」という決断を受け入れる段階で、自分の行く末に絶望してしまうのではないか...ましてや、阿弥陀如来の屏風を枕元に持ってこられて、五色の糸を身体に結びつけられようものなら、顔面蒼白、狼狽してどうにもならなくなるのではないか...そうした現代人と、五色の糸をしっかりと身体に結わえ、阿弥陀如来を頼りとして、その導きを一心に握りしめて念仏を唱え、静かに臨終を迎える中世の人々と、一体どちらが優れているというのか...

 

「宗教学」が、宗教の生きた現場を離れてしまえば、もはや「非-宗教的」なものになりはてた「宗教の遺物」を取り扱うだけの「非-宗教的な宗教学」に陥ってしまうことになる。そうなってしまったのでは、いまの例に見られるように、実際に生きて働いている宗教の現場に立ってみなければどうにもならないような問題に対しては、手も足も出ないことになる。それでは、どうするか?

 

西谷は「現代の人間として自己に納得のいくやうなもの」つまり、過去ではなく、現代に生きているわれわれ自身の納得がいくもの、現代のわれわれの問題意識、現代のわれわれの精神的な危機、苦悩といったものを「宗教とは何か」という問いの中に投げかける。そうすることによって「あったもの」よりもむしろ「あるべきもの」の探求へと志向を転換させるのだ、と述べている。そうすることで「現在から過去へ眼を向ける態度」と「現在から将来へ目を向ける態度」とが「一つに結びついてくる」のだ、と。

 

これは要するに、たとえ過去の宗教を探求の対象にする場合であっても、まず第一に「宗教がもともと何であるのか」あるいは更に踏み込んで「どのようなものであるべきか」ということを睨みながら考える...その宗教が現実に生きて働いていた局面においては、それは一体いかなるものであったのか...と。

 

結局、生きて働いている姿においてこそ、宗教はその「あるべき姿」を示しているのである。だから、ある宗教の「あったもの」としての姿を手掛かりにして、その「あったもの」の中に「あるべきもの」「あるべき姿」を見ていく...。

 

宗教の危機が声高に叫ばれている現代のわれわれにとっては、もはや「生きた宗教」は自分たちにとっては、皆無に近くなっている。だからこそ、かつて「生きていた宗教」の中に、いま「生きている宗教」を、今こそ「生き返らせるべき宗教」を探し求める...。「かつてあった宗教」の中に、自分たちが求める「あるべき宗教」、現代においてこそ、力を発揮することのできる宗教を探し求めていく...。「あったもの」の理解を通じて「あるべきもの」を考え、「あるべきもの」を考え抜くことによって「あったもの」を照らし出す...

 

この作業を西谷は、「人間のうちから宗教といふものが起ってくる「もと」を、現在における自己の身上に、主体的に探求する」ことだと説明する。つまり、そもそも「宗教」というものが発生してくるその根本、根っこのところを、自分の問題として、自分の身の上、自分の生き様、自分の信念、自分の人生のこととして考え抜く...。つまり、自分の心の中に、宗教が生まれてくる、そのもとを見いだし、自分の問題として一緒に考えていく。

 

「宗教とは何か」という問いかけは、西谷にあっては、「人間のうちから宗教といふものが起こってくる」その「もと」とは何か、という問いかけであり、さらには、既に特定の宗教、特定の信仰を持っているわけではない者にとっては、「宗教とは何か」という問いを、切実に問いかけるその「もと」、特定の宗教を持たず、信仰にも縁のない人間が、それでも宗教に惹かれ、わからないながらも「宗教とは何か」と問いかける、あるいは問いかけずにはいられないその「もと」、そこに向かっての問いなのである

だから、西谷は「人間のうちから宗教といふものが起ってくる」...という言い方をしているのであるが、実際にはそうではない。そうではなく、「自分の内に宗教が起こってくる」...いまだ信仰、信念、信条といった明確な形は取らないにしても、自分の中に「宗教」の問題を看過できないものがある...

この「関わりの切実さ」あるいは「問いの切実さ」を、神なき時代における信仰の基礎に据えようとした神学者がいる。ナチスに追われてアメリカに亡命したドイツの神学者-哲学者パウル・ティリッヒである。「神の存在」、「神の啓示」を出発点に据えることができない現代において、たとえニーチェのように徹底的に「神の死」という前提から出発する形での関わりであっても、あるいは「神の拒絶」という形での否定的な関わりであっても、絶えず神に対して の深い関心が存在するならば、それが信仰の可能性の礎なのだ、と。ティリッヒは、この関わりを「究極的関心(ultimate concern)」と名付ける。

「究極的関心」は、結局、信仰、神、救済といった問題がその人の人格の中心まで食い込んでいる人、こうした問題を抜きには自分の生き方、自分の人生、自分の存在の意味を考えることができない人に立ち現れてくるものである。そしてティリッヒは、人間は常に限界の中に置かれている...そして、生死、老い、病、戦争、飢餓、貧困...絶えず自分の存在のはかなさ、脆弱さに曝されているのだ、だから、こうした問題---自分を超えるもの、永遠性に繋がるもの問題に直面せざるを得ない存在なのだ...そう考える

敢えて言うならば、西谷が提示する「宗教とは何か」という問いは、この「究極的関心」に相当する。あるいは漠然とした不安に導かれ、あるいは人生の上での苦悩に引きずられ、あるいは過酷な運命に翻弄されて否応なく人生の無常を思い知らされ...きっかけは千差万別であっても、何らかの機縁によって切実なものとして「宗教とは何か」という問いの前に立たされ、あるいは立つことができる...そしてこの「宗教とは何か」という問いを、単なる知識の上での問いを超えて、切実に自分自身の人生をかけた問いとして引き受けることができる...

 この『宗教とは何か』という著作の中で西谷が読者を導こうとしているのは、こうした問いの場面に立ち続けることなのである。「自分が自ら問ひつつ自ら解答を求める」という構造を持つ問い、「自問自答」の循環の中に立つということは、そういうことなのである。

 

 


西谷啓治:『宗教とは何か』...02

2012-08-13 16:44:12 | 宗教哲学

西谷啓治:『宗教とは何か』...02

 

『緒言』から...01

 

本書を繙くと、まず『緒言』に出逢う。

『緒言』では、(1)本書の成立事情が簡単に説明され、そして(2)本書全体の問題意識の解説、(3)本書を読むにあたってのあらかじめの注意書きなどが書かれている。

 

(1)の「成立事情」に関しては、本書を構成している6つの章が、6編の「エッセイ」からなっているということ。そして、その「エッセイ」が昭和29年から30年にかけて刊行された「創文社」の『現代宗教講座』の依頼で書かれたということ。更に、もともとは「宗教とは何か」という題で書くことを依頼され、そのように書かれたものの、「充分に意を盡くし」得ず、標題を変えて書き足し、それでも収まらないために書き継いでいった...という事情があること。そして最後の2つの章は、一冊の書物として纏めるにあたって、書き足したということが説明されている。

 

この解説で注意することは、本書が最初から「論文」として書かれたのではないということである。本書は『現代宗教講座』のための、それもその第1巻のための「エッセイ」として書き始められているのである

 

『現代宗教講座』という一般読書人を対象としたシリーズの第1巻に、「宗教とは何か」というテーマを貰ったということは、入門書的なもの、しかも一般的で基本的な内容のものが求められているわけであるから、本書も最初はそのような意図のもとに書き出されているのである。それが「エッセイ」という位置づけの意味でもある。しかし、そうはならなかった...

 そして本書は、最初の一篇では「充分に意を盡くし」得なかったために書き足されていくのであるが、それら4篇もすべて「エッセイ」として書かれている。つまり、著者は自分の意を尽くすことができなかったからこそ、書き足していくのであるが、その意を尽くすことができない理由は、「論文」というスタイルを取って取り組めば解決できるようなものではなかった、ということである。実際、本書にはいわゆる「注」がほとんど存在しない。

 だから著者は、「本書の諸篇は、初めから計畫的に書かれた場合のやうな組織的な聯関を持っていない」と断っているが、それは著者にとっては、思想的な組織的連関が、そしてそれ以上に「体系的な叙述」が、そもそも本質的な問題ではなかった、ということなのである。これはつまり本書が、論文には不可欠な論理的な体系性をそれほど堅固には持っていないということであり、それは言ってみれば本書が、計画的で論理的な解明を行っているわけではない、ということに他ならない。

 

これは一体どういうことであるのか...

 

本書は「宗教哲学」を専門とする哲学者:西谷啓治の「主著」として名高いものであるが、この主著は「論文」つまり学術的なスタイルでは書かれなかった...

 おそらくは最初の依頼者の希望でもあった一般的な「啓蒙的-学術的解説」でもなく、著者のような立場の人間が「意を尽くす」ために通例取り組むような「専門的-学術的論文」でもなく、エッセイとして書かれる...

 要するに、本書が「エッセイ」と言われているのは、特に「エッセイ」というスタイルがあるというわけではなく、「解説」でも「論文」でもない、独自のスタイル...そうしたスタイルの前例がないために、どこにも分類できず、ただ「エッセイ」としか言いようのないスタイルで書かれざるを得なかった、という事情を指しているのである

 そして、「宗教とは何か」というテーマそのものが、そうした独自のスタイルを要求するものであった...ここが一番大事なポイントである。

 

それでは一体、何がそうした独自のスタイルを要求するものであるのか?

 

著者は、このように書いている。

 「宗教とは何かといふ問いは、(中略)自分が自ら問ひつつ自ら解答を求めるといふ意味のものでもあり得る...」と。

 「宗教とは何か」と、自分が自ら問いつつ、自ら解答を求める...

 自分にとって、宗教とは何か? 宗教は必要なものか? 

 こうした問いを自ら問いつつ自ら解答を求める...自問自答を繰り返す...これはすなわち、宗教の問題が、その人の生き方そのものに深く食い込んできている時に起こることに他ならない。

 自分にとってそれほど重要でない問題を「自問自答」する人はいない。私たちが「自問自答」するときというのは、その問題が気になって仕方がなく、頭から離れなかったり、あるいは抜き差しならない形で迫ってきていたり、自分から進んで自問自答しているというよりも、むしろ自問自答させられている...そうせざるをないような状態に置かれている...そんな場合がほとんどである。

 だから、宗教の問題が自分の人生、自分の生き方の根本にかかわり、何らかの形でそれに対して自分なりの解決の糸口を探し、自分なりの態度を決定しなくてはならないとき、私たちは自ら問いつつ、自ら答えていこうとする。この時、人に答えを求めることはできない。それは自分自身の、しかも自分の心の奥底の問題であるから...

 そう、そしてこの「自ら問いつつ、自ら答えようとする」場合、つまり「自問自答」する場合というのは、基本的に問いに対する答えが「存在しない」あるいは「見つからない」場合がほとんどなのである

 例えば、この「宗教とは何か」という問題意識においては、

 (1)まず第一に「宗教」というものは余りに多様で、一義的に定義できない...「教義(教え)」を核としているのか、「典礼(儀礼:セレモニー)」を核としているのか、「行(修行)」を核としているのか...。崇拝の対象を持つのか持たないのか...。だから、どの「宗教」を基準にして、「宗教とは何か」と問うべきなのか、混乱してしまわざるを得ない。

 (2)そして第二に、内面的な「信」「信仰」ということを基礎に置くものである場合、人間の心の中は「事物」のように分析解明することはできない...自分自身の日常的な心の中ですら、クリアーにはわからないものであるのに、ましてや宗教的な場面における人間の心の中など、どのようにして知ることができるのか...

 (3)更に、第三には、「信」あるいは「信仰」の宗教を考える場合であるならば、自分の中に「信/信仰」が生起して、初めてその宗教が自分の中に成立するのであるから、「宗教とは何か」ということが自問自答できるためには、既にその人自身の中に宗教の核である「信/信仰」が確立していなくてはならない。しかし、「信/信仰」するためには、一体何を信じ、信仰するというのか...これが既にわかっているのであれば、そもそも「宗教とは何か」と自問自答する必要はない。

 

そう、つまり、第三のポイントで見えてきていることは、「宗教とは何か」という問いが、ある位相においては明らかな「循環になっているということなのである。「何を信ずるべきか、ちゃんと知っているから、信じることができる」---「ちゃんと信じることができているから、信ずるべきものがしっかりと心の中に存在し、だからこそそれが何か、知ることができる」---「自分の信じているものは、素晴らしいものだ、と確信を持って知っている、だから揺るぎのない信仰がある」---「確信を持った知に裏打ちされた信仰がちゃんとある、だからその信仰の内容を、はっきりと確かに知ることができる」...

 こうした、「信/信仰」と「知」の相互関係の循環の中に飛び込むことができる、ということが、ある宗教を「信じる」ということであるならば、一体どこから飛び込めば良いのか...「わからなければ、信じることができない---信じなければ、わかることができない」

どうであろう、先ほど、「ある位相においては循環になっている」と書いたのであるが、この「位相」とは、「私自身の問題」という位相なのである。つまり、著者は「宗教とは何か」という問いを、のっぴきならないギリギリのところであなたにとって/私にとって、宗教とは何か」という次元に引き摺り込んでいくのである。

 

いま上で上げた3つのポイントの第一は、客観的、第三者的に見た上での問題。第二は、二人称的に人間の「内面」のこととしてみた問題。そして第三は、自分自身の問題...一人称の、私、きわめて個人的な信念、信仰、生き方の姿勢にかかわる問題。

本書の成立事情の背景にある、執筆のきっかけ...『現代宗教講座』というシリーズの第一巻の文章...この執筆依頼は、おそらく第一の問題の次元での解説なのである。つまり、宗教というものは、あまりにも多様で全体を見通すような視座が必要だ、だから、様々な宗教現象を貫く根本的な構造を明らかにして欲しい...事実、西谷自身もこの「緒言」の中で、「従来の諸宗教に現れたさまざまな事象に基づいて」宗教の「一般的特質を解明した論述」が期待されていたのであろう、と書いている。

教科書的な書物であれば、おそらくこのレヴェルでの議論に終始するはずである。そして、自分自身がある一定の信仰なり信念を持っている執筆者であるならば、第二の、人間の内面性の問題にまで踏み込んで行くであろう。そして、ここまでは、学術的なスタイルの論究が或る程度有効な領域である。しかし、西谷はそうした次元を飛び越えて、いきなり第三の次元に読者を誘導する...これが、本書の成立過程の背景にある基本問題である

 

「自ら問いつつ自ら答えていく...」こうした次元での精神的な格闘を徹底的に経験した西谷自身にとっては---西谷啓治の生涯の思想的テーマが、「ニヒリズム」つまり「虚無」の問題だったことを想起して欲しい---、第一、第二の次元の問題など、いかほどのものでもなかったのである。だから、依頼者の希望は承知しながらも、敢えて自分の問題に踏み込んでいく。

 

そして、この西谷の姿勢は、こと宗教の問題に関しては、学問的-客観的なスタンスよりも、遙かに対象に沿った、的確なものだったのである。なぜならば、いまも書いたように、例えば「信仰」の宗教を問題にするのであれば、信仰が生起している場所、その場面以外には生きた宗教はないのだから...教義や典礼は、信仰のドラマが生起しているその現場の抜け殻、脱皮した皮のようなものであるから。禅と浄土、そしてキリスト教を思想的な遍歴の中で経由してきている西谷にとっては、宗教とは、人間が何かに触れ、気が付き、衝撃を受け、恐れ戦きながら近づき、自分自身を変容させていくドラマ、その過程の進行を命としているはずである

 だから西谷は「宗教とは何か」と聞かれたならば、自分自身の経験に忠実に、まず初めに、読者を答えのない自問自答の循環の中に引き入れること、そして読者自身に自問自答させること、そして最終的には「答えのない自問自答の循環」から「知りつつ信じる循環」の中に自分で歩み入らせることなのである

それゆえ、本書を読むときには、「客観的な情報を得る」ことを目的としているのでは、肩すかしに終わるであろうし、「著者の考えを知る」、というつもりで読んでも、目指す方向がずれたままになってしまう...著者の狙いは、あくまでも読者が本書を読みながら、自分自身の問題として、自分の身の上に置きながら自分でも考え、「自分自身の自問自答の循環」の中に、自分の足で入っていくことなのである

 

 

 

 

 

 


西谷啓治:『宗教とは何か』...01

2012-08-09 22:23:54 | 宗教哲学

「宗教哲学」再考

西谷啓治:『宗教とは何か』

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「宗教哲学」について考えてみたい。

 

「宗教」と言うと、「危ないもの」...そのようなイメージを持つ人も多いはずである。

 

最近も話題になった「オウム真理教」など、宗教が社会的に大きな話題になる機会というのは、大体においていわゆる「カルト教団」の犯罪がらみの事件がほとんどであるから、それはそれで無理もないところがある。

 

だから、「宗教」すなわち、いわゆる「カルト宗教」という括りになりがちである。

 

あるいは、もう一方で「伝統教団」について言えば、こちらも社会的に関心を集めるのは、高額のお布施、葬式不要論など、金銭にまつわるいかがわしい話題が多い。

 

だから「伝統宗教」も、どちらかと言えばいかがわしいもの、というイメージになりがちである。

 

しかし、例えば明治の文豪 夏目漱石は、小説『行人』の中で、主人公にこんなことを言わせている。

 

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない...」

 

漱石がここで主人公に語らせている言葉は、宗教のもつ危険さ、危うさを、一層深いところから炙り出している。

 

「カルト宗教」のようなものでなくとも、宗教そのものが、「死ぬ」(ここでは「自殺」が暗示されている)あるいは「発狂する」といったギリギリのところで問題とされるのだ、というのである。

 

「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか」...この言葉が、「一層深いところから...」と書いたのは、「宗教」というものが本来、めいめいの「信念」、根本的なところでの生き方そのものにかかわる「信念」「信仰」に関わるものであるからに他ならない。

 

つまり、「宗教」が時としておそろしく「危険」なものになり得るというのは、危険で狂気に満ちた「カルト教団」が宗教の世界に存在するから...というのではなく、宗教の問題が、「自死」や「狂気」の危険に曝されるような問題であるから...そのように考えるべきではないか...

 

自分の生き方を左右するような「信念」「信仰」...こうしたものが根本的に問題となるような事態は、その人にとって文字通り「死ぬか、気が違うか...」という極限の問題となり得る。

 

だから、「宗教」という危険なものが存在する...というのではなく、人間の心の底の底、人格を根底から揺さぶりかねないような信念や信仰の次元で苦悩し、精神的な危機にさらされるとき、初めて宗教の問題が立ち現れる...

 

つまり、「危険」なのは宗教の方ではなく、人間の心...精神的な苦悩の深み...

 

そして、そうした危険な心の深層の問題に踏み込むことができるのは、宗教だけ...だから、宗教は時として信じられないような狂気を露わにすることがある...

 

ひょっとすると、カルト教団の狂気は、教団が信者の心を食い物にし、利用した、などと言うのではなく、むしろ反対に、教団そのものが、人間の心の奥底にある狂気の闇に蝕まれ、呑み込まれてしまった結果なのではないのか

 

いまは、この問題に立ち入ることはここまでにしておこう。取り敢えず、こうした考え方も可能である、少なくとも吟味し、検討に値する仮説である、ということだけを確認しておこう。

 

さて、そのように考えるならば、私たちは一体、「宗教」に対してどのように向き合っていくべきか...?

 

ここで、「宗教哲学」の問題が改めて問われることになる。

 

心の奥底、時として狂気をはらむ闇の深層...こうしたものに向き合い、しかも呑み込まれないためには、自分の信念や信仰が根本のところで揺さぶられる危機の最中にあっても、それを耐え抜き、乗り切っていくだけの精神的な強靱さが必要となる。

 

そして、この勁さ、この強靱さをわがものにするための武器として、哲学が考えられる。「宗教-哲学」は、宗教という闇く非合理的な世界に向って、哲学のもつ思惟の明瞭さ、論理の明晰さによって挑む試みであり得る

 

次回から、哲学者の西田幾多郎に始まる京都学派の思想家、西谷啓治の著書:『宗教とは何か』を採りあげる。この著作は、いま述べてきたような問題連関に対して、かなりの見通しを与えてくれる。

 

この著作、『宗教とは何か』という標題から、「宗教入門」「宗教哲学入門」といった入門書的な性格のものを想像されるかもしれないが、実際にはそうではなく、「宗教とは何か」という問いが、私たちが生きていく上で、最後にして最大の問いとなる...そんな問題意識が響いてくるような標題なのである。