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峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

差別するAI ?...問題の所在はどこに...

2018-08-19 10:05:39 | 哲学・思想

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まずは、こちらを...

*「差別するAI」は無知なだけ? 批判より啓蒙を...

河 鐘基(ハ・ジョンギ)
Forbs Japan:2018/08/18 17:00 

 

情報テクノロジーの飛躍的な革新は、情報を通じて世界を一つにし、価値観を異にする多様な文化圏相互の対立や葛藤を克服し、わたしたちが生きる日常的な生活圏においても社会的、経済的な格差を縮めて行くはずだ...
そんな主張を耳にしたこともありましたが、残念ながら、そうなってはくれそうもありません。
 
人間ではなく、AIが応対しているにもかかわらず、人種やジェンダーによって対応が変わってしまう...そしてその対応の違いは、社会的な「差別的振る舞い」としてわたしたちには受け止められる。
このコラムでは、ニコンのカメラが、他の人種に較べて比較的眼が小さい東洋人の顔を「目を瞑っている」と認識して警告を発してしまう...特定の人種的・文化的特徴を備えた写真や単語に関連付けられるワードが肯定的、あるいは否定的な偏向を帯びていると認識される...といった例が出されています。
 
上の記事は、こうしたことに対して、AIが性差別・人種差別をしているのだと、AIが悪者にされている、という社会現象を紹介しているのですが、それは感情的には理解出来なくはないものの、あまりにも単純すぎる話です。


このコラムが紹介しているもとの記事は雑誌『ネイチャー』だといいますが、『ネイチャー』の論調が、コラムによる紹介通り「人工知能(AI)による性差別や人種差別が深刻な社会問題となっている」というものであるならば、自分自身の意志を持ち、自分自身の好悪によって態度を表明しているわけではなく、単純に人間によって設計されたアルゴリズムに従って情報を「処理」し、コマンドを実行しているだけのAIに、「差別主義的」であると汚名を着せるのは、いうまででもなくAIに対する、そのような世論の側の無知によるものです。
 
ただ、コラムが指摘しているように、AIには罪がない、と言うだけではもちろん、問題の解決にはなりません。
そもそも、どうしてこのような事態が起きるのか...そこが問題です。


そしてその点に関しては、このコラムは、AIに与えられているアルゴリズム処理のためのデータの偏りに、問題の根本を見ています。つまりAIそのものが人種差別的・性差別的であるかどうかではなく、AIがさまざまな判断をする際に参照する、判断のためのデータベースをどう作り上げていくかという問題、「学習データの構成問題」が決定的なのだ、というのです。

コラムは、スタンフォード大学がインターネットから収集した画像データのデータベースを分析し、


写真認識AIの開発に頻繁に使われるデータの約60%が、わずか3カ国から提供されているということだ。一方、世界人口の約36%を占める中国・インドからアップロードされている割合は3%だ...


と指摘する『ネーチャー』の記事を引用しています。ちなみに、引用文中の「わずか三ヵ国」というのは、アメリカ(45.4%)、イギリス(7.6%)、イタリア(6.2%)だといいます。


『ネイチャー』の記事ではまた、「ウィキペディア作成に参加している女性割合が、18%にも満たない」ということも指摘されているといいますが、これでは辞書の項目の採用や記事の詳細さ、学説紹介のバランス、内容...さまざまな偏りが色濃く生じることは容易に想像されます。
このウィキペディアについての指摘は、AIとは直接はかかわらないように思われるかも知れませんが、そうではありません。これは、AIが差別的な判断をしないための「公平で偏りのない」学習データベースなるものを作成することの難しさを指摘しています。


ネット上には性差別的・人種差別的なものだけではなく、政治的、宗教的、経済的、文化的な差別を助長するバイアスを強烈に帯びた情報が氾濫していますが、そうしたものから距離を取り、広く公開され、比較的公正に纏められ、幅広く利用されているウィキペディアに潜む問題点を指摘することで、既に強固に存在する社会全体における情報の偏りを考えるならば、AIに与えるべき「公平で偏りのない」学習データなど、一体どこにあるのか、どこから、どう取ってこれば良いのか...という問題提起となっています。


ネットの情報空間は、膨大な量の情報が氾濫するゆえに、あたかも情報の偏りが中和されているように「見える」だけであって、そもそもインター・ネットの情報空間にエントリーし、アクセスする人たちは特定の人たちであり、頻繁に発信し、その発信が影響力を持つゆえに反響を通じて再発信され、再々発信されるような人たちの存在を考えるならば、ネットの情報空間こそまさしく多数派をめぐる熾烈な闘争の場であり、常に強烈なバイアスの下で動いている世界であり、性的、人種的、文化的、政治的、経済的な公平さとはほど遠いのだ、ということを、わたしたちははっきりと意識しておかなければなりません。
広く門戸が開かれ、世界中の人がアクセス出来る、ということは、公平性やバランスを保証してくれはしません。情報空間におけるマジョリティーは経済的にも政治的にも強大な権力となりますから、むしろ反対に、情報空間は最も過激な権力闘争の場となっています。そのような場所から、公平公正、偏りのない...ということが果たして可能なのか...
  
さて、このコラムでは、「差別するAI」の問題を、


これら問題の大半は、差別というよりも「データ不足」もしくは「技術不足」、または「ネット&特定サービスに接続している人々の偏り」に原因があるとする観点の方が正しいはずである。人間で言えば「無知」で「世間知らず」なだけである・・・


と人間のアナロジーで纏めています。だから結論は、

 

必要なのは批判よりも、啓蒙である。差別偏向を正すためのデータをいかに広範かつ大量に収集できるか。新しいアイデアが求められそうだ・・・・・


と同じく人間の教育のアナロジーで締めくくられています。

これは、ある意味ではとてもよくわかることです。

AIは人間が設計したものであり、設計した人間を鏡のように映し出しています。

しかし、そこには人間の自画像が映ってはいるものの、それは映り出された姿にすぎないものであって、人間そのものではありません。

だから、アナロジーは所詮アナロジーであって、あたかも人間であるかのような結論を持ち込むことは、何の主張にもならないのです。


コラムでは、「差別するAI」の問題の解決を「啓蒙」という言葉で表現していますが、われわれ人間にとって「啓蒙」とはどういうことなのか...

たとえば、18世紀に開かれた「啓蒙の時代」のただ中に立ち、近代的なものの考え方の礎となる思想を鍛え上げたドイツの哲学者、イマヌエル・カントは『啓蒙とは何か』(1784年)のなかで、「啓蒙」とは「未成年の状態から抜け出ること」だと定義しています。そして「未成年の状態」とは「他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができない」ことであると説明しています。それはたとえば、「書物に頼り」「牧師に頼り」「医者に食事療法を処方してもらう」...「お金さえ払えば、考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれる」のだと、200年以上前にカントは言っています。



AIはインプットされる情報の処理を、人間によって設計されたアルゴリズムにしたがって「実行」します。ですから、AIの判断の論理的モデルは、設計者によってデザインされたものであって、デザインされたプロセスの指示にしたがって判定をしているだけです。だから、条件が同じであれば、基本的には同じ判断が導き出されるはずです。人間で言えば、20歳代の四季の移り変わり、30歳代の四季の移り変わり...家族とともに過ごす賑やかな四季の移り変わり...老境に入り、すべてを喪ってただ独り孤独に自分自身の生命の終わりを凝視しながらの四季の移り変わり...その時その時、人間の思考はさまざまな感懐とともに変化していきますが、AIにはそういうことがあるのでしょうか...

もしも人間の行う思考が...たとえば是非善悪、意味、価値といったものが、そして喜びや悲しみ、愛や憎しみ、怒り、赦し...パッションとわたしたちが呼んでいるさまざまなものが、数量化され、数学的に記述されるのであれば、人間とAIの間の差は、限りなく縮まることになるでしょう。

しかし、もしもそうでないのであれば、AIにインストールされる「思考」は、どのような論理によって構築されているにせよ、あらかじめ設計された制度の枠内における合理性の枠組みからでることはありませんし、命令の実行者ではあっても、命令の決断者ではありません。決断とは、さまざまな論理的枠組み...得失是非、善悪邪正...あるいは非合理的なパッションを伴った論理...義理人情、名誉、矜恃...の対立葛藤を断ち切って為す行為を指すのであって、初めからさまざまな対立軸の間にプライオリティーを設定しておいて、スムーズに論理的な決定を行うようにプログラムされているとすれば、それは「決断」ではなく、「実行」あるいは「遂行」でしかありません。


誰もが自分自身の中にさまざまな判断軸の間のプライオリティーを潜在的に持っていますが、それでも迷う。迷うのが、人間なのです。論理的には解決がつくようなことであっても、迷う。

それが人間の思考に特徴的なものであって、迷った上での決断は、どのようにして最終的にそのように決定したのか、表面的にはともかく、合理的な説明はできないものなのです。

そうした、非合理的で個人性を強く帯びた人間的な思考では困ることがあるから、AIに客観的で公平中立な、偏りのない判断を委ねる...なぜ「困る」かと言えば、わたしたちの社会は誰もが平等・公平に扱われるべきであるから...

上のコラムの結論「差別偏向を正すためのデータ」が必要だ、というのは、とても人間的な主張...それも、誰もが平等・公正に扱われるべきである、という現代の社会に生きる人間の主張です。その主張はとても人間的な強い願望を背景にしています。誰もが均質等価で、公平平等に扱われるべきだ...というのです。

もちろん、それを悪いと言っているのではありません。しかし、自然界を見れば、どの生物も平等・公平に扱われたりはしていません。いつどこで河川が氾濫し、いつどこに熱波が襲い、いつどこで地震が起き、いつどこに寒波が襲うのか、誰もわかりませんし、誰もが襲われうる、という点では平等・公平でも、わたしたち一人一人が現実にそうしたものに見舞われるときには、簡単に納得などできません。当事者にとっては、いかなる平等も公平もありません。


結局、AIをめぐる様々な議論は、わたしたちが自分たちをどう考えるか、人間をどう考えるか、自分たちの生命を、人生をどう考えるか、という問題に帰着します。

だから、AIが差別するのではなく、差別するわたしたちの社会をAIが忠実に映し出しているだけなのです。


コラムでは、AIの学習データの偏向の問題を指摘していますが、偏向なくものを考える、ということはどういうことなのか...ここのところをきちんと考えるならば、社会的な正義と公正についての議論がどれほど紛糾し、出口の見えない議論に到るのか、『ジャスティス』をはじめとするマイケル・サンデルの一連の著作と、サンデルによって提出され、それをきっかけとして湧き上がってきたさまざまな議論を見ればわかるはずです。

AIの学習データベースを作成するときに、偏向を除去すると言うとき、一体誰がそれをするのか...

偏向なく公平・平等に情報を収集してデータベースを作成出来るような人が、ほんとうに存在するのでしょうか? 

そしてそうした作業をAIにさせようとするのであれば、AIにその手続きを命令するプログラムは、誰が作るのか...プログラムそのものの問題もありますし、情報を取ってくるインターネットの情報空間そのものが抱え持っている強力な情報バイアスの問題も存在します。

現在のインターネットの情報空間にエントリーしている人々の人数と、その人たちの発信量は、世界中のすべての人の人口構成比を反映してはいません。そして、世界中のすべての人が、同じ比重で扱われるような形で、インターネットの情報空間にエントリーする時代がいつかやってくる、等と本気で信じるような人はいないと思います。もしもそのようなことが起きるとするならば、それは同時に裏側から見れば、ネットによる世界的規模での監視社会の誕生にほかなりませんし、ネット空間における巨大パノプティコンの誕生であって、世界はオーウェルが予言したような究極のディストピアになってしまいかねません。


ほんとうに必要なのは、AIの啓蒙ではなく、啓蒙とはどういうことなのか、考えるとはどういうことなのか、とわたしたち自身が考えることです。その意味では、カントの提出した課題にたいして、わたしたちはまだまったく応えることができていません。

そして、公平を期すために言えば、AIの研究は、わたしたちの行う「思考」というものを、伝統的な「内省」という方法とは正反対の側面から明らかにしてくれるものであり、その意味では、AIテクノロジーの発展は、哲学的に極めて興味深いテーマを数多くもたらしてくれるものでもあるのです。

AIテクノロジーは限りなく人間の思考に近づいていきますが、それはもう一方で、人間がものを考えるということはいったいどういうことなのか、それを理解していく作業にほかなりません。ただ、忘れてはならないことは、AIの機能が飛躍的に向上することによって、いつしか人間がものを考えることは、すなわちアルゴリズムの処理なのだ、と思い込んでしまうことです。

人間の思考にも、アルゴリズムの処理と重なり合うような側面を見ることは可能です。しかし、鏡に映っている自分を自分自身だと思い込むのと同じ、一種の錯誤でしかありません。

便利さのために、自分自身を放棄する...

考えることの放棄は、究極の隷属状態です。その時、自分は人間として何のために生きているのか、どう生きていきたいのか、それを忘れてしまう本末の転倒が起きる...

AIをめぐる様々な議論の中にそうした転倒の萌芽を見出すたびに、私は言い知れぬ思いを抱くのです。



 


東大卒業式の祝辞から...

2018-03-25 09:42:57 | 哲学・思想

 

*東大卒業式の式辞が深いと話題に「善意のコピペや無自覚なリツイートは......」(全文)

 

 

これはとても考えさせられるスピーチです...

素晴らしいスピーチですが、だからこそ、少しこだわって言わねばならないことがあります。

初めに、スピーチそのものについては、繰り返しになりますが、とても示唆に富んだものです。このスピーチそのものについては、ここではふれません。
問題は、この記事の、紹介文です。

このスピーチの紹介は、

「...インターネット時代における情報の扱いについて述べている」とまとめています。
これはもちろん、間違いではありません。
確かに、このスピーチは「インターネット時代」における「情報の扱い」に「ついても」述べています...

同じく紹介されている「...善意のコピペや無自覚なリツイートは時として、悪意の虚偽よりも人を迷わせます...」というくだりと併せると、それはその通りなのです。

しかし、ただそれだけならば、この式辞の一体どこが「深い」のですか?

いい加減な情報が氾濫しているこのネット社会の中で、出所をきちんと調べなさい、真偽が曖昧なままで拡散してはいけません、程度のことであれば、誰もがすでに何万回も言っていることです。ですから、この部分は、「深く」も何ともない。
それでは、どこがいったい「深い」のか...どう「深い」のか...
揚げ足取りのように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。

「深い」というのであれば、何が、どう「深い」のか、わかっていなければなりません。

誰かが「深い」と言った、あるいは「深いと話題に」と聞いたら、自分で考えることもしないで、確かめることもしないで、そのまま、そうなんだ...と思ってしまう。それが問題だ、とこの式辞は言っているのに、その式辞を紹介する文章が、すでにこの式辞が伝えようとしていることをあっさりと無視して、いわば裏切ってしまっているのです。ここを、「はいそうですか」と素通りしている限り、何も始まりません。


公平に言えば、式辞を紹介しているこの記事自体も、制約された字数の中で記事を書いているわけですから、そもそも「深い」内容にまで踏み込んでいる余裕はないはずです。ですから、そのこと自体は、仕方がないことだと言えなくもない...
しかし、だからといって「深い」ということがどういうことなのか、触れなくても良いのか...

単に文字数あるいはスペースの制限のせいで触れられなかっただけなのか、それとも、もっと深刻に、この記事の書き手自身が、実は、どこが、どう「深い」のかわかっていなかったのか...

一つの解釈を出してみます...
たとえば、スピーチでは「痩せたソクラテス」のエピソードの紹介の後、こんな風に言われています。


...これから皆さんが語る言葉には、常に名前が刻まれています。それは皆さんが普段名乗っているいわゆる「名前」だけでなく、東京大学という名前であり、教養学部という名前でもあります。ですから皆さんは、今後どのような道に進むにせよ、研究においても仕事においても、けっして他者の言葉をただ受動的に反復するのではなく、健全な批判精神を働かせながらあらゆる情報を疑い、検証し、吟味した上で、東京大学教養学部の卒業生としてみずからの名前を堂々と名乗り、自分だけの言葉を語っていただきたいと思います...


ここでは、きちんとした社会人であれば、自分の言葉には「責任」をもたねばならない、という「倫理性」が要求されています。
それは、単なる「個人的」な「名前」が担うべき倫理性だけではなく、自分が卒業した母校、所属する組織、企業...さまざまな関係性に裏打ちされている「責任」です。

要するに、社会人として生きている限り、「オフレコ」が通じない世界がある、ということです。


しかし、同時に、さらにもう一歩踏み込んで見ていくならば、簡単に通り過ぎてはいけない部分が出てきます...
いまの引用文の最後、


...みずからの名前を堂々と名乗り、自分だけの言葉を語っていただきたいと思います...


というところです。
みずからの名前を堂々と...というところは、東京大学教養学部の卒業生、というタイトルと絡んでのものなのですが、その次に、さらにその上に重ねて「自分だけの言葉を...」と言われています。

東大教養学部の卒業生としての立場と責任を自覚しての発言は、他人の意見を無自覚に受動的に繰り返すのではなく「健全な批判精神を働かせながらあらゆる情報を疑い、検証し、吟味した上で...」要するに自分で調べて、確認を取り、本当にそういうことなのか吟味してから話せ、ということです。それをしっかりすれば、取り敢えずは有名大学の卒業生というタイトルに恥ずかしくない程度の義務は果たせる、ということです。


しかし、その次、「自分だけの言葉を...」というところは、それでは済まないのです

 

批判精神を働かせ、検証、吟味したとしても、それだけでは「自分だけの言葉」にはなりません。

「検証」「吟味」しても、情報はただの情報...
その次に、更に進んで、検証、吟味した情報をもとに、自分の見識を、自分の頭で考え、自分の生き方を織り込んで、自分自身の「思想」を、自分自身の「哲学」として語り出す、ということが必要になってくるわけです。これは容易なことではありません。

そして、この部分の、こうした問題意識を視野に入れた時、初めてこのスピーチの最後に引用されてくる、ニーチェの言葉が生きてくるのです。


 

スピーチでは、こう言われています...


...それはドイツの思想家、ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくる言葉です。
きみは、きみ自身の炎のなかで、自分を焼きつくそうと欲しなくてはならない。きみがまず灰になっていなかったら、どうしてきみは新しくなることができよう!
皆さんも、自分自身の燃えさかる炎のなかで、まずは後先考えずに、灰になるまで自分を焼きつくしてください。そしてその後で、灰の中から新しい自分を発見してください。自分を焼きつくすことができない人間は、新しく生まれ変わることもできません。私くらいの年齢になると、炎に身を投じればそのまま灰になって終わりですが、皆さんはまだまだ何度も生まれ変われるはずです。これからどのような道に進むにしても、どうぞ常に自分を燃やし続け、新しい自分と出会い続けてください...



情報を批判的に検討し、吟味、確認する...
さらにそれを自分の意見として語る...
これはとても大切なことです。
しかし、ここで語られる「自分の意見」なるものが、やっぱりどこかで聞いた誰かの意見だったり、どこでも語られるありきたりの主張であったり、誰かが意図的にまことしやかに作り出した思考の枠組みであったとしたら、どうでしょうか。

「自分の意見」という場合の「自分」というのは、ほんとうに「自分」の意見なのか...


私たちは、ネット上に氾濫している「情報」を、真偽を精査さえすれば、それでほんとうに良いのでしょうか? 

「真偽」の精査と一言で言っても、その「真偽」と言うものの正体は、簡単に鵜呑みにできるものではありません。

「真偽」というばあいの、その基準は、一体どの様なものなのか?

科学的な検証で事が足りるような場合は別にして、社会的・文化的な背景が大きく影響し、あるいは政治的な含意が絡み合って、問題を考える際に様々なひとの価値観や信念が否応なく関わってくるような場合、「真偽」と言いながら、その実は真偽の基準そのものがある一定の立場から「当たり前のこと」として前提され、ある文脈にとっての「当たり前」でしかない基準の無自覚な押しつけになってしまい、「真偽」の吟味ではなく、単なる「正当・不当」あるいは「正統・非正統」の判定、あるいは「主流・非主流」の仕分けになってしまっているようなケースも少なくありません。

「真偽」の「精査」と言っても、その精査を誘導する「基準」は一体どのようにして持ち込まれているのか、真偽の基準そのものの検討が必要なのではないか...

「情報」の吟味だけではなく、いつの間にか私たちが前提としている、ものの考え方の枠組みそのものも、本当にそれで良いのかもう一度吟味し、疑ってみなくてはならないのではないか...

社会の中で生きているうちに、私たちには「~は当たり前...」「~に決まっている...」と、いつの間にか信じ込んでいる思考の枠組みが、たくさんうまれてきます。それは「常識の枠組み」です。
「常識」というのは、私たちが生きていく上で、とても大切なものです。
しかし、テクノロジーがこれほど飛躍的に進化し、今までになかったようなモノが次々と生み出され、政治的、経済的、文化的に、これまでの歴史にはなかったほど素早く、広く、世界が情報のレヴェルで一つになり、あり得ない速さと規模で世界は動いていきます。
いままでの「常識」が通用しない局面が、多くの場所で起きている今日、無自覚に、無批判に受け入れてしまっている「常識」が、私たち自身を縛り、道を誤らせてはいないか...

新しい時代がやってくる時、それまでの物の見方、考え方、感じ方が劇的に変化します。
その時、新しい世界に踏み込んでいけるためには、私たち自身で「常識」の枠組みを解除していかなくてはなりません。新しい「常識」を生み出すために、それは必要なことなのです。スピーチでは、若者に向って、こう、語り掛けられています...



...皆さんも、自分自身の燃えさかる炎のなかで、まずは後先考えずに、灰になるまで自分を焼きつくしてください。そしてその後で、灰の中から新しい自分を発見してください。自分を焼きつくすことができない人間は、新しく生まれ変わることもできません...



スピーチのこの部分は、ネットリテラシーのことを言っているのでもなければ、社会人としての倫理を言っているのでもないのです。
来たるべき新しい時代...猛烈な速度で変わりつつある世界の中で、先が見えない社会を担っていく若者は、否応なく自分自身を燃やし尽くし、灰になり、新たに生まれ変わらなくてはならないのです。

来たるべき将来の姿が見えない時には、「後先考えずに」自分自身を否定し、乗り越えていかなくてはならないのです。

居心地のよい「常識」の枠をみずから破って、不安に曝されながら、手探りで新しい道を探して行かなくてはならないのです。
来たるべき時代に向けての、覚悟と決意を呼びかけるこの部分は、ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』中屈指の名文と相俟って、このスピーチの格調を高めています...

さて、

 

「深い」というのは、まずは、このあたりから始めるのではないか...


そして、こうした考え方を身に引き受ける時、このスピーチ全体は、どう見えるか...
それは、また違った姿となって現れてくるのではないか...


このスピーチは、引用されているニーチェの言葉の重みと深さに、果たしてほんとうに釣り合っているのか...
それとも、時代は、もはやこうしたニーチェの思想のような深みと重さを必要としなくなったのか...
ここからが、思想の醍醐味ではないか...
ここから考えるということも、哲学の大事な課題ではないのか...
「深さ」とは、いったいどういうことなのか...
考えさせられるスピーチです...


人間は考える葦である...人間の儚さについて思う...

2017-09-10 17:40:55 | 哲学・思想

写真は、パスカルが実験を行ったサン・ジャックの塔


今年は、雨ばかりの夏で、体感的に言えば、近年ではかなりの冷夏です。

初めに、こちらを...

「太陽が15日連続で活動してない」NASAがガチ発表! 今の寒さは氷河期の前触れ、今後がヤバイ!

Tocana:2017.03.27

 

3年前の記事ですが、その後は、どうでしょうか...


*太陽元気なし 寒冷化予兆 11年周期の磁場転換起きず、黒点も最少

産経ニュース 2013.11.18

こちらも、一緒に...こちらの方が詳細です。 

 

*「不気味なほど静かな太陽」地球が「小氷期」に入るとどうなるの?

The Huffington Post :Macrina Cooper-White: 2014年01月28


自然を前にすると、人間の世界が、いかに脆弱かよくわかります...
自然の大きさと、人間の非力...古くからの根本テーマです。


今日では、科学技術が著しく発展しましたから、こうした問題は忘れられがちになっているのですが、科学は、自然の猛威に翻弄される中から出発した、という側面を持っています。
本来はとても敵うことのできない強大な存在に向かって、知の力を頼りに、自然を司る法則を知り、その法則を統御することによって、いわば自然を超えていくことを目指すのです。
しかし、自然の世界を動かしている根本的な法則性を理解しても、現実の自然は絶えず「予測不可能」な振る舞いをする...

ひとたび、現実の出来事が生起した後であれば、その出来事を導く法則と論理を解明することはできる...

しかし、人間の歴史は、自然が常に一歩も二歩も先んじて、われわれには想像できない事象を起こし、人間はその出来事を後追いで理屈づける...そんなことを繰り返しています。


科学は、全体としてみれば、輝かしい成果の集積と言うよりは、常に予想できない振る舞いをする自然に翻弄され続けた歴史、という見方もできなくはありません...
もちろん、こうした見方をすることは、決して科学を貶めるものではありません。

それは、私たち人間が自然に向き合うその接点として、科学がおそらく、人間が持ちうる一番強力な武器だからです。私たちは、科学的な知の力を借りながら、翻弄されながらも、何とかここまでやってきた...むしろそう言うべきなのでしょう...


さて、自然と人間、そして人間の知...この問題が出てくるとき、必ず引き合いに出されるテーゼがあります...
「人間は考える葦である」...17世紀の哲学者ブレーズ・パスカル(1623-1662)の『パンセ』です。



...人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない...


とパスカルは『パンセ』の中で書いています。


...これをおしつぶすのに宇宙ぜんたいはなにも武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくでじゅうぶんことたりる...


このパスカルの言葉は、とても有名ですが、その言わんとしていることは、とても難しいものをはらんでいます。
人間は「最も弱い一本の葦」でしかない...

巨大な宇宙からすれば私たちなどは、「風の一吹き」「水のひとしずく」であっけなく死んでしまう...けれどもパスカルは、


...しかしそれは考える葦である...


と続けるのです。


...たとえ宇宙が押しつぶそうとも、人間は人間を殺すものより尊いであろう。なぜなら人間は自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間のうえに優越することを知っているからである。宇宙はそれについては、なにも知らない。それゆえ我々の尊厳はすべて思考のうちにある...


とても見事な言葉、見事な信念です...

しかし、パスカルのこの強靱な信念を、350年後の私たちは、果たして共有しているでしょうか...



現実の世界の中で、私たち人間の営みがあっけなく捻り潰される...

自然が法則に従って動いているからには、それはどうにもならないことです。

しかしそのとき、私たちは自分が自然の強大さの前に踏みつぶされることを「知っている」から「尊い」のだ、と言い切ることができるでしょうか...?


宇宙が私たちに優越する、ということを私たちは知っている...しかし、宇宙はそれを知らない...

この言葉、そしてこの言葉の中に響くパスカルの世界観の中には、人間のことを絶えず気にかけ、その救済を目指して歴史を動かす、キリスト教の正統的な「人格神」は、もはやその場を持たないかのように感じられてなりません... 
『聖書』の神は、自分の許しなしには「あなたの髪の毛一本も落ちることはない...」と言い切る神です。しかしパスカルは、その神も、私たち人間の「知」の内実は知り得ないというのです...


もしも神が、人間の知恵、人間の考え、人間の思い、喜びと悲しみ、苦悩と不安、そして痛切な祈り...

そうしたものを「知らない」というのであれば、神の「人格」ということを主張することに、どんな意味があるというのでしょうか...?

私たちの思いを理解できない存在との間に、人格的な交流は基本的には成立しませんし、そういう存在を「人格」として「信頼」することができるでしょうか...


パスカルの言葉には、ただ法則にのみ従い、無慈悲に進展するシステムとしての自然、システムとしての宇宙...現代の私たちにも共通する荒涼とした世界観、宇宙観が感じられます。信仰者としてのパスカルの...しかも同時に、到来する新しい宇宙観、世界観に向き合わざるを得なかった科学者/哲学者パスカルの、もう一つの顔です。

それではパスカルは、信仰と知とに引き裂かれているのか...?

有名なこの言葉の中にも、こうした問題が顔を出しています...



さて、パスカルは「知」の中にのみ、人間の尊厳、非力な人間の偉大さを見ています。しかし、今日の私たちには、この思想はとても奇妙に映るのです。
意地悪く言えば、パスカルの論理を使えば、「おまえは知らないかもしれないが、俺はこの喧嘩でおまえに負けることを知っていた。だから、やっぱり負けたが、おまえに負けることを俺は知っていたんだから、俺の方がおまえよりも偉いんだ」という議論になりはしないか、ということです。要するに、「知っている」からといって、尊いということにはならないんじゃないのか...? ということです。


もちろん、それはその通りです...パスカルのこの議論は、論理ではありません。パスカルの思想は、根本のところで「信仰」の問題に食い込んでいきますから、結論めいたことを言うことなどとうてい無理なのですが、少なくとも「自分が死ぬこと」そして「宇宙が自分に優越していること」を知っている、という部分がポイントになることは間違いがないでしょう。


「自分が死ぬ」ということは、単に自分の命が終わるという事実を表現しているのではありません。私たち人間が「死すべき」存在だということです。自分たちが「死すべき者(モータル)」だと「知っている」というのは、知識ではなく「自覚」です。
誰かさんは、いつかは死ぬ。いつかわからないけれども自分にも順番が回ってくるだろうなぁ...ということではなくて、自分は必ず死ななくてはならない存在だ。そのとき、どうするか? それは、そのときになってばたばたしてどうなるものでもない。人生が短いことはわかっているのだから、限られた時間の中で、自分のやるべきことを全うしなくてはならない...
少なくとも、この程度の自覚はないと、どうにもなりません。
そしてもう一つ大切なことは、「宇宙が自分に優越している」ということ。つまり、この世には自分を超えるようなものが存在する、そして、その自分を超えるものが自分の命を奪うのだ、ということです。

パスカルは、その「命を奪うもの」を「宇宙」と呼んでいます。宇宙は、法則に従って動く...その中にある私たちもまた、その法則に従って生まれ、生き、そして死んでいくのです...宇宙は武装する必要などありません。私たちは最初から限りある命、有限な命を持ってこの世に生まれてきているのですから...そのときが来たら、ただ、死んでいくのです。宇宙はただ、法則に従って動いていくだけなのです...
だから、宇宙は、私たちの知にも、思いにも、祈りにも、一切関与しない...

しかし、肉体は有限であり、儚いものであるから、私たちはこの最も弱く、儚く惨めな肉体の彼方に向かって、やはり祈るのです。無慈悲な宇宙の進行には関わらないけれども、精神の世界には、彼方があるのではないか...


私たちには「精神」がある...「精神」は、現実の世界にあっては、弱々しい肉体よりも、さらに無力かもしれないが、肉体が滅びようとも、私たちの精神は、肉体と、宇宙、自然と法則の世界の彼方へと向かうことができる...神を知り、その偉大さを知ることができる。そしてその偉大さの前に跪き、祈りを捧げることができる...私たちの肉体が打ち拉がれるのは、それを通じて私たちが、肉体と自然、宇宙の彼方があることを知るためなのだ...


今のこの文章は、一つの例でしかありませんが、たとえばこうした思想は、「自覚」のレヴェルにおいて初めて出てくるものです。もちろん、現代の私たちには、こういう思想は担いきれないだろうと思いますが...


少しばかり議論が重く、難しくなりました。


大切なことは、パスカルの文章だったら、「尊い」あるいは「人間の尊厳」といわれているその「尊い」とは、いったいどういう意味なのか、どういう意味において「尊厳」があるのか、というところに集中して考え抜くことです。

本当の意味において「尊い」とは、どういうことなのか?
それがわかれば、有限な時間、有限な命の中で、何をなすべきなのか、どうすれば「考える葦」にふさわしい尊厳を得ることができるのか...
パスカルはその尊厳を「知」「知ること」だと言っています。

しかし、普通に「知識として知っている」などということは、それだけでは尊厳でも何でもない...
先ほどは「自覚」といいましたが、もしもそうならば、何を、どう自覚すれば尊いのか...それがわかれば、「考える」ということの意味がわかり、「考える葦」の尊厳がわかるわけです...

科学の話題からはずいぶん離れましたが、こうした一番根本的なところの「知」ということを、きちんと自分のものにしていかなければ、たとえ正しい情報をつかんでいたとしても、どうしていいのかわからないまま右往左往し、途方に暮れるしかないのです...
パスカルの言葉は、知識の問題を超えて、私たちの生き方そのものに突き刺さってくるのです。そして、「知」とは本来そうしたものであるはずなのです...


最後に、パスカル自身は人生の最後に「回心」を経験します...

パスカル31歳の時のこと...

パスカルはこの時に自ら記したメモを胴衣の裏に縫い付け、39歳で亡くなるまで肌身離さず持っていたといいます...

パスカルの『覚え書き』として知られるその紙片には、こうあるそうです...

 

     *****


恩恵の年1654年 

11月23日、月曜日、教皇にして殉教者なる聖クレマンおよび殉教者名簿中の他の人々の祭日、 
殉教者、聖クリソゴーヌおよび他の人々の祭日の前夜、 
夜十時半ころより零時半ころまで、

    火 

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神にして、
哲学者および識者の神にあらず。 
確実、確実、感情、歓喜、平和。 
イエス・キリストの神。 
「わが神、すなわち汝らの神 」
汝の神はわが神とならん。
神以外の、この世およびいっさいのものの忘却。 
人の魂の偉大さ。 
正しき父よ、げに世は汝を知らず、されどわれは汝を知れり。
歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。 
われ神より離れおりぬ。 
「生ける水の源なるわれを捨てたり 」
わが神、われを見捨てたもうや。
願わくは、われ永久に神より離れざらんことを。 
永遠の生命は、唯一のまことの神にいます汝と、汝のつかわしたまえるイエス・キリスト とを知るにあり。
イエス・キリスト。 
イエス・キリスト。 
われ彼より離れおりぬ、われ彼を避け、捨て、十字架につけぬ。 
願わくはわれ決して彼より離れざらんことを。 
彼は福音に示されたる道によりてのみ保持せられる。 
全くこころよき自己放棄。 
イエス・キリストおよびわが指導者への全き服従。 
地上の試練の一日に対して歓喜は永久に。 
「われは汝の御言葉を忘るることなからん 」
アーメン 

      *****

パスカルのこの「覚え書き」にある、


アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神にして、哲学者および識者の神にあらず...


というのは、とても有名な言葉です。この言葉は、パスカルが人格神の信仰へと立ち返ったことだと理解されています。

ニーチェは、パスカルが初めは肉体的に、そして最後には精神的に「死んだ」のだと言い切ります。しかし、本当のところは、どうなのか...

パスカルにはジャクリーヌという妹がいました(Jacqueline Pascal;1625-1661)。ジャクリーヌは、熱烈な信仰を持ち、ポール・ロワイヤル修道院の修道女となりました。そしてパスカルとジャクリーヌは、終生深い絆で結ばれていたといいます...



ニーチェ的にいえば、パスカルはこの妹によって、精神的に殺されてしまったということになるのでしょうか...

それとも、反対に、科学と宗教、知と信仰の間で引き裂かれ、揺れ動き続けたパスカルは、その早すぎる晩年になって、ようやく真の魂の平安を得たのでしょうか...

これは、誰にもわかりません...永遠に。

そして、ひょっとすると、パスカル自身にもわからないことなのかも知れないのです。

 



ポンペイ最後の日から、およそ2000年...私たちは大プリニウスに再び会うのか...

2017-09-03 23:33:37 | 哲学・思想

8月24日は『大噴火の日』といいます...この日は、『ポンペイ最後の日』です。

少し遅くなりましたが、初めに、こちらを...

 

*Pompeii Hero Pliny the Elder May Have Been Found 2,000 Years Later...

HAARETZ:By Ariel David Aug 31, 2017

 

ヘッドラインは、『ポンペイの英雄、大プリニウス、2000年後に発見...』というもの。


西暦79年8月24日、ナポリ近郊のヴェスヴィオ火山が突然噴火し、麓に位置していたポンペイの市街は、およそ8メートルの火山灰により埋没...

『博物誌』で知られる大プリニウス(ガイウス・プリニウス・セクンドゥス:Gaius Plinius Secundus;22/23-79)は、このヴェスヴィオ山の噴火に巻き込まれ、命を落とした...

 

大プリニウスは「戦略」「歴史」「修辞学」から、「天文学」「数学」「医学」「絵画」「彫刻」...と、あらゆる学問領域に通じていました。『博物誌』は、自然と芸術についての世界最初の網羅的な百科全書で、古代の知恵の集大成だと評価されています。

 

皇帝ティトゥスへの献辞の中で、自分が100人の著者による、おおよそ2000巻の書物を参照し、そこから約20000件の重要事項を抽出したのだと大プリニウスは述べているといいます。最初の10巻は、西暦77年に発表され、残りは彼の死後、おそらく甥であり、後継者であった小プリニウスによって公刊されたのだとされています。

 


子供の頃、プリニウスはこの火山の調査のために噴火に巻き込まれたのだ、という文章を読んだことがあります。プリニウスの名前は、ポンペイと離れがたく結びついています。

しかし、事実はそれとは若干異なり、プリニウスは、もちろん火山の噴火という現象を観察したい、という意図はあったにせよ、同時に、ポンペイやその周辺都市に住む住民、そして友人たちを救出しなければ、という動機で、この災害に巻き込まれた、ということのようです。

 

大プリニウスは、ルネサンス期に新たな学問的基準が作り出され始めるまで、圧倒的な権威をもって読まれ続けた大著『博物誌(Naturalis historia)』(37巻)があまりに有名ですが、博物学者であると同時に有能な政治家であり軍人。

ローマ帝国の海外総督を歴任し、ヴェスヴィオス火山噴火の時には、ローマ西部艦隊の司令長官として、ナポリ北部近郊のミセヌムに駐留中だったといいます。


 

実は、この「ポンペイ最後の日」からさかのぼること17年前、紀元62年2月5日に、ポンペイは激しい地震に襲われ、近郊のカンパニア諸都市とともに甚大な被害を被っています。

町はすぐに、更に規模を大きくするかたちで再建...

しかし、その再建作業も完全に終わらない紀元79年8月24日に、今度はヴェスヴィオ山が突然大噴...一昼夜にわたって火山灰が降り続け、翌25日には、ポンペイ市街は完全に地中に埋まってしまったといいます。


大プリニウスは、ローマ西部艦隊の司令長官としてポンペイの市民を救助するために、ナポリ湾を横切って、30キロメートル離れた反対側のスタビアに船で急行します...



ヴェスヴィオ火山の噴火に最初に気がついたのは、甥であり、養子として後を嗣いだプリニウス...ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(Gaius Plinius Caecilius Secundus;61-112)の母親だといいます。79年の8月24日の午後、その時大プリニウスと一緒にミセヌムにいた甥プリニウスの母は、異様な姿と大きさの雲に気がつき、どういうことなのか調べて欲しいと大プリニウスに知らせたというのです。

因みに、この大プリニウスの甥にあたるプリニウスは、この物語の主人公である大プリニウスと区別するために「小プリニウス」と呼ばれますが、自身もローマ帝国の政治家、文人です。属州の総督を務め、元老院の議員でもあった人物で、資産家としても知られていたといいます。

小プリニウスは、『ゲルマーニア』『年代記』の著者として歴史に名を残すコルネリウス・タキトゥス(Cornelius Tacitus;ca.55-ca.120)と親交があり、タキトゥスの求めに応じて、「書簡」のなかで一連の経緯を詳細に伝えています。この小プリニウスの『書簡集』は当時の歴史を知る上での第一級の史料となっていますが、その中で、ヴェスヴィオ火山の噴火について、


雲の形については、松の木に似ているということ以外に詳しく言い表せません。高い幹が空高く屹立し、上部では枝のように広がっておりました...

 

と伝えています。

 

 

これは、1822年のヴェスヴィオ火山の噴火の画ですが、上部が枝を這ったように広がるこの噴火を、小プリニウスの詳細な記述にちなんで「プリニー式噴火」と言います。日本では、1783年に浅間山がこのプリニー式噴火を起こし、「天明の大飢饉」となって老中の田沼意次が失脚しています。因みに、文中に、噴煙を松の木にたとえるのは、イタリアカサマツの姿だと言われています。

 

 

プリニー式噴火は、噴き上がる巨大な噴煙柱が、通常でも高度一万メートル、場合によっては成層圏に達し、五万メートルに到る場合もあるといいます。

数日から数ヶ月にわたって一帯を暗闇に包み、最後には噴煙柱が自らの重みに耐え切れずに崩れ落ち、火砕流となって麓を襲います。その破壊力は凄まじいもので、周辺百キロを瞬時に飲み込んでしまうこともあるといいます。

小プリニウスの書簡では、雲が山の斜面を急速に下って海に雪崩れ込み、火口から海までを覆ったと記されています。


さて、大プリニウスは、当初は博物学者としての興味と探究心から、足の速い小型船でこの現象の調査に赴くつもりでいたものの、ポンペイ近郊のスタビアにいた友人の家族から、伝書鳩を用いたか狼煙を使って伝えられた、スタビアの絶望的な状況を知り、ローマ帝国の艦隊司令官として自身が動かすことのできる最高の軍船を使って、友人たちだけではなく「あの美しい海岸に住む多くの人々」を助けようとしました。

ここで大切なことは、2014年にイタリア防衛省についての著作を出版したフラヴィス・ルッソが、大プリニウスのこの艦隊派遣について、インタビューで、


彼(大プリニウス)以前には、戦のために建造されたものが、人を助けるために活用しうるなどと思いつく者はいなかった...


と語っていることです。つまり、大プリニウスの判断は、軍隊の災害派遣の先駆です。これが、ヘッドラインの「ポンペイの英雄」という言葉の由来です。


いずれにしても、大プリニウスが派遣した軍船は、およそ200人程度の兵士あるいは避難民をデッキに収容し、しかも悪天候の中でも航行することができる最強の軍船であったといいます。

しかし、ひとたび火砕流が発生してしまったならば、打つ手はありません。

大プリニウスは、スタビアに到着すると下船し、友人たちを探しますが、避難民を導いてスタビアの海岸に来たところで火砕流に巻き込まれ、命を落とします...行方不明になった2日後、「眠るがごとき」姿の亡骸が発見されたといいます。


フラヴィウス・ルッソは、大プリニウスの艦隊派遣によって、最大でおよそ2000名の生命が救われたのではないかと見積もっています。

2000名という人数は、79年のヴェスヴィオ火山の噴火で全滅し、後に発掘されたポンペイ、ヘルクラネウム、スタビアでの犠牲者の数とほぼ同じです。

大プリニウスは、自身が艦隊と共にスタビアに赴くと同時に、ヘルクラネウムにも軍船を派遣しています。



1980年代に、ヘルクラネウムの港の発掘が行われ、軍営の跡と焼け焦げたボートと乗組員、そしておよそ300人の亡骸が見つかりました。



海岸まで避難しても、なすすべもなくなく死を迎えた人々の姿は、改めて自然の猛威のすさまじさを物語ります...



さて、更にここから、後日譚が...


初めの記事は、クラウド・ファンディングのお願いです。その経緯を...


20世紀の初頭に、技師をしていたゲンナロ・マトローネという男が、スタビアの海岸近くでおよそ70体の人骨を発掘しますが、その中の一体は「黄金の三重ネックレス」「黄金のペンダント」そして「象牙と貝殻で象眼された短剣」を身に帯びていたといいます。

小プリニウスの伝える情報と場所も状況もピッタリであったことから、マトローネはこの人骨が大プリニウスのものだと主張します。

しかし、当時の考古学者たちは、ローマの軍司令官たるものが「キャバレー・ダンサー」のような宝石を身につけて海岸を走り回るなどということは、あり得ない、と一笑に付します。

侮辱されたマトローネは、短剣とこの豪華な装身具を身につけていた人物の亡骸だけを残して、黄金の装身具を闇のバイヤーに売り払い、残りの人骨をすべて埋め戻してしまいます。後に、短剣と人骨はローマの小さな博物館に寄贈され、今日に到るまでほとんど忘却の淵に沈んでいたといいます...


しかしルッソは、マトローネの残したスケッチから、黄金の装身具も短剣の装飾も、ともにローマ帝国海軍の高位将官にふさわしいものであり、大プリニウス自身が属していた騎士階級にも合っている、と指摘しています。

更に、ある人類学者はこの人骨が50代の人間のものであると結論づけましたが、小プリニウスの記述から、大プリニウスが亡くなったのはまさに56歳であり、年齢的にも矛盾がありません。


こうした経緯を踏まえて、本題です...


ルッソたちは、アルプス山中のエッツィ渓谷で発見された「5300年前の男」『エッツィ(アイスマン)』の鑑定をした研究者たちに、さらなる調査を依頼したいというのです。スタビア近郊で発見されたこの人骨がプリニウスのものであると断定はできない...しかし、そうかも知れないという示唆を与えるものが沢山ある...だから、科学的に精査をする価値がある、と言いたいのです。

ルッソたちが提案する調査は、2つです。


(1)骨格を復元し、大プリニウスの肖像と比較する。

(2)歯を放射性同位元素の検査にかける。


重要なのは、後者です。

というのも、後者の検査は分子人類学の領域のもので、たとえば私たちが飲んだり食べたりすると、飲み水や食べ物を通じてその土地の土壌から様々な金属成分が体内に吸収されます。そして、土壌に含有される金属成分の組成は、場所によって異なるというのです。

体内に取り込まれた金属成分は全身に回りますから、私たちの歯のエナメル質の金属成分の組成を調べると、エナメル質が形成される少年期に、その人がいったいどこで育ったのかがわかる、というのです。


この調査をするには、おおよそ1万ユーロのお金が必要となるそうです。そして、もしも科学的なテストが可能になるのであれば、大プリニウスが生まれ育った北イタリアのコモ地方の土壌サンプルと照らし合わせることで、この人骨の人物を同定する道が、更に先に進む...


この人骨を収蔵する博物館は、歯のサンプルを採ることを快諾しているといいます。

更に、ローマ時代の人骨が、人物のレベルで特定されるというケースは、実はきわめて稀だ、という事情もあるといいます。

ローマ時代の人々は、キリスト教の聖者や殉教者を除けば、たとえばエジプトのファラオのように、きちんと死者の亡骸を装飾し、名前がわかるように埋葬したりはしなかったし、何よりもイタリアはエジプトの砂漠のような乾燥地帯ではないというのです。その点、ポンペイのようなケースは、ヨーロッパでは貴重な「タイム・カプセル」ケースだ、といいます。そういう意味でも、この調査には学術的な価値がある、というのです。


さて、このクラウド・ファンディングに応ずるかどうか...それは各自の問題です。このブログはそういう意図で書いたのではありません。

このブログの動機は、記事を書いている人物の、大プリニウスに対する尊敬の念に興味をそそられたからです。

元の記事では、ヘッドラインでは、ポンペイを壊滅させたヴェスヴィオ火山の大噴火のような大災害にさいして、いのちの危険を顧みず大胆な災害支援を決断し自ら犠牲になった偉大な軍司令官プリニウスへの関心を喚起していますが、結論部分では、学問することに身を捧げた博物学的=百科全書的な知の巨人である大プリニウスへの賛辞が中心になっています。

プリニウスの『博物誌』は、確かに膨大な情報量を誇り、驚異的な幅広さを誇るものの、迷信や不確かな伝聞の類いも多く、今日の目から見れば、奇妙なものに見える...そのような指摘もあります。もちろん、今日の科学から批判することは簡単であり、それほど意味のあることだとは思いませんが、それはそうでしょう。反対に、そうでなければ、その後の2000年近い歴史の中で、私たち人類は一体何をやってきたのだ、ということになります。

しかし、元の記事を書いているライターは、自分たちの調査がどのような結論を出そうとも、プリニウスその人がもしもその結果を見たとすれば、疑がわしげな態度を取るであろうし、私たちに対して「ひとつまみの塩をもって(with a grain of salt)」つまり「懐疑的に」物事を受け止めよ、と説くであろうし、「唯一の確かなことは、確かなものなどないのだ」ということを私たちに思い出させてくれるであろう、と書いています。

大プリニウスは、その人生の最後において、ヒューマニズム的な勇気を奮い起こした...そして、学問の勇気は、それと同じだ...と言いたいのでしょう。その点に関しては、私もまったく同じ思いです。

もと記事の最後に、このようなエピソードが紹介されています...

小プリニウスの記述によれば、

ヴェスヴィオ山に向かう艦隊に火山灰が豪雨のように降り注ぎ、火山弾が凄まじい勢いで雨霰と降り始めた時、港に戻りましょう、と提案する舵手に向かい、大プリニウスは言った...運命は勇敢な者を好む...

 

 

 

 


ギリシア人は、『イーリアス』の偉大なアガメムノン王の末裔なのか...

2017-08-06 18:56:55 | 哲学・思想
はじめに、こちらを...


 


記事のタイトルは『ギリシア人は本当に神話的なルーツを持っていた...古代のDNA研究で明らかになる』というものです。


この研究は、19人の人骨の歯から採取されたDNAの比較分析によってなされたと言うことです。その内訳は、

(1)紀元前2900年から1700年のものと同定される、クレタのミノア文明に属する10人の人骨。
(2)紀元前1700年から1200年のものと同定される、ギリシア本土のミケーネおよびその周辺の発掘された墓地から採集された4人の人骨。
(3)紀元前5400年から1350年のものと同定される、初期農耕時代あるいは青銅器時代の文化に属する、ギリシアあるいはトルコの人骨。


このサンプルから、ヒト・ゲノムのデータを抽出、さらに、このデータの中から、サンプルとして120万文字のゲノムの文字列を取り出して、それを世界中から集められた334体の古代人のデータ、および30名の現代のギリシア人を比較して、それぞれがどの程度の近縁関係にあるかということを整理しての結果ということです。
 
 
この記事には古代の民族移動の波がどこまで届き、ギリシアの現在の民族がどのような物語を経由して今日に到るか、ということに関して、とても面白い議論が書かれていますが、長くなりますので、それはもと記事を読んでいただくとして、重要なのは、ゲノム・データの比較から、
 
(a)現代のギリシア人は、ほんとうに神話時代の英雄、アガメムノンやオデュッセウス...神々に愛された英雄たちの末裔であるのではないか。
(b)古代のミノア文明の人々とミケーネ文明の人々との間は、遺伝的に極めて近親だ。
 
という結論が出されていることです。
記事には、
 
「古代人のDNA分析が示唆していることは、現存のギリシア人は、後世にギリシアに入植してきた人々とは僅かなパーセントのDNAしか共有しておらず、ほんとうにミケーネ文明の人々の末裔であるということです。そして、ミケーネ文明そのものに関しても、この文明に属する人たちは、紀元前2600年から1400年の間にクレタ島で繁栄した、偉大な先住文明であるミノア文明の人々(神話的な王、ミノス王にその名が由来します)と密接な関係にあるということが、研究によって明らかになりました...」
 
とあります。
 
 
ギリシア人は、自分たちの先祖が、ホメロスの『イーリアス』に登場するミューケナイ族である、という自負を持っています。
自分たちは、トロイア戦争によって小アジアのトロイア人を滅ぼしてそこに入植した偉大なアカイア人の末裔だ...アガメムノン、オデュッセウスの末裔だというのです。
この神話に遡る民族の矜恃は、シュリーマンによって、そしてアーサー・エヴァンズによって、歴史的事実との交錯点をもち、真実としてのインパクトを強く持ってきます...
それでも、例えば、
そうした考古学的な成果と神話は違う、神話で描かれる栄光はフィクションだ...
あるいは、
紀元前1600年から1200年にかけて、じっさいにギリシア本土を支配した栄光のミケーネ人は、ドーリア人によって滅ぼされ、歴史から人種としても消えてしまったのだ...
といった反論がなされ、議論が絶えなかった...
 
 

現代のDNA解析の技術は、考古学的な資料の分析よりも、はるかに精密確実な知見を私たちに与えてくれます。
その成果を駆使した研究の途中報告が、この記事です。
 
*****

さて、ギリシア人といえば、私にはやはり古代ギリシアの神話世界です。


ムーサよ、怒りを歌え、ペーレウスの子、アキレウスの怒りを...(『イーリアス』プロロゴス)


ギリシアの神話、ギリシアの悲劇は、物語のインパクトが、凄いのです...
壮大な『イーリアス』の物語が、半神、神と人との間に生まれた類いなき高貴な存在であるアキレウスの、怒りを歌うことから始まるのは、古代ギリシアの世界にはふさわしいことです。

みすぼらしい姿の詩人たちが、半眼となって、キタラ琴をてに歌い始めるとき、ムーサが降臨する...
儚い肉体を借りて、ムーサ(女神)が歌うのです。それが、芸術の、歌の、音楽の秘密です...

『オデュッセイア』の中では、英雄オデュッセウスその人が、盲目の吟遊詩人デーモドコスの歌う、トロイの木馬の物語を聴き、涙を流すのです...
自分自身が携わり、その場に居合わせた、その物語を歌う詩人の歌に涙する...
歌が、現実を凌駕する瞬間です。
やむを得ぬこととは言え、自分自身の奸計がひきおこしたトロイア滅亡の大殺戮の、その現場において鬼神のように戦い続けたその男が、盲目の音楽師の奏でる朗唱に、涙する...

現実の世界を動かすものは何か...
どうしようもなく大きく動き、人々の計らいを押し潰し、多くのいのちを磨り潰しながら動いていくこの世界の物語は、眼に見えないわれわれ人間の『運命』を歌う...
実は、眼に見えないこの運命こそが、私たち人間の生きる意味を与えてくれる源ではないか...しかしそれは、人間自身を破壊し、破滅の淵へと引きずり込むほどの強烈なパッションの世界です。

人間のパッションが、神々を動かす...そしてそのパッションの巨大な炎が、人々を駆り立て、激しい争いを激発し、大規模な戦争となり、都市を焼き払い、民族そのものを破滅に到らす...
多くは、経済的な理由ではありません。名誉と意地の齟齬、情念と秩序の衝突...愚かと言えるほどの、死に到るまでの錯誤と狂気の物語...
普通の人間の普通の世界のものではない、別な領域の物語...神々と英雄の物語、と人は言います。神々も英雄も信じることのできない、いまの言葉で言えば、それは、過剰なものの物語です。
 
ホメロスの『イーリアス』は、伝説の『トロイア戦争』を描いた物語...世界最古と言われる、古代ギリシアの記念碑的作品です。

物語は長く、複雑ですが、大きな骨組みを言えば、ミューケナイの王アガメムノンと、アガメムノンの弟でスパルタを継いだメネラーオスを中心にするアカイア勢(ギリシア勢)が、イーリオス(トロイア)の王プリアモスとその子パリスを倒し、滅亡させる物語です...


有名な絶世の美女ヘレネとパリス、アキレウスの死、オデュッセウスの苦難、トロイの木馬といった印象深い登場人物やエピソードは、その後の物語『オデュッセイア』とともに、巨大な神話的な物語群を構成しています。

これらの物語は、現実の世界とどう関わるのか...

神々と、半神、英雄たちの様な過剰なパッションを持たない、スマートで上品な現代人は、アキレウスやアガメムノンのような、人間離れしたパッションの代わりに、自然と人間、さらには世界そのものを思いのままに設計監理する狡知と、その精密無比な狡知とはおよそ釣り合うことのない、単純で粗雑、卑俗な欲望に突き動かされて、同じような悲劇の物語を、いまもなお、世界中で、倦むことなく編み続けています。
しかしそこには、偉大な人間も、神々の崇高さも存在しない...
現代の物語を歌うのは、ムーサ(女神)ではなく、欲望を実現するための計算を隠し含んだプロパガンダの魔神です...この魔神は、心理学と社会学、政治学と経済学を融合させ、科学と学問の名の下に現実の世界において権力として機能しています。それは、威力においては巨大であるが故に、神のごとき姿に映るかも知れない...
しかし、そこに、本当に偉大さはあるのか、崇高さはあるのか...
計算を外してしまったとき、そこには何が残るのか...
引き摺り倒され、唾を吐きかけられるレーニンやフセインの銅像は、火をかけられ、打ち砕かれたギリシアの神像たちと同じなのか、違うのか...違うのであるならば、何が違うのか...

偉大さとは、崇高さとは、聖性とは...

偉大なアガメムノンの末裔、現代のギリシア人は、いったいその何を持って偉大なのか...それは、DNAの問題なのか?
これは、ギリシア人だけの問題ではないのです...