峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

ゴッホに寄せて...

2017-07-29 01:41:50 | アート

 

今日は、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh;1853-1890)の命日です...

「最短の軌道」を駆け抜けた画家の中の画家を追悼です...まずは、こちらを...


*Loving Vincent - Official Trailer...

 

 

*ゴッホの「失われた耳」を子孫のDNAから培養して復活させたアート作品...

ZKM | Exhibitions 2014 :: Diemut Strebe: Sugababe(German museum shows live replica of van Gogh’s ear)

 

 

こちらも、一緒に...

 

*ゴッホの耳の「生きた」複製、美術館で展示 ドイツ、再生医療を応用【画像】...

 

 

この計算された趣味の悪さは、ほとんど醜悪と言って良いですね...

テクノロジーのもたらす豊かな果実は、それとちょうど同じだけ、あるいはそれ以上の、不快で気味の悪い成果をもたらします。
この作品は、現代テクノロジーの抱えるおぞましい闇を浮かび上がらせているという点では、アートとして成功しているのでしょうか...

狂気は、アートというものが人間に要求する生け贄のようなものですね...狂気がなければ、芸術は力を持たない...プラトンは、神的な狂気(マニアー)について語っています。
もちろん、こうした思想はプラトン、アリストテレスよりも遙かにさかのぼり、古代ギリシアにまでその淵源をたどることができるものなのです。
創造性と引き替えの狂気...切り落とされたゴッホの耳は、その象徴であり、美術史のそこかしこに横たわる墓石の一つのようなものですね。私たちはそこに、痛ましさを感じざるを得ないのです。だから、この作品は不謹慎なものだという感情を喚起しうるものです。

それでは、この作品は、冒涜なのか...

芸術が時代に対して何らかの形でコミットしようとする場合、美や心地よさ、好ましさだけではなく、醜さや不快さのようなものもまた、強力な武器となります。とりわけ、批判、挑発、告発のようなメッセージを担っているのであれば、冒涜的な性格を帯びていることは、作品の機能としては全く正当なものでありうるのですね。

しかし、この問題は、とても難しい...

醜悪なものが芸術の原理となり得る、ということを、公式に、高らかに宣言したのは、一九世紀のヴィクトル・ユゴー(『クロムウェル』序文)だと言います...ある意味では、そうした事柄をはっきりと認めるためには、何百年もかかった...ロマン主義の運動を通じて、過剰な自己の流出を経験する必要があった...そんなことがいえなくもないのです。


それはともあれ、さて、この作品は、どうか...


第一次世界大戦開戦の日に寄せて...

2017-07-28 07:00:00 | 日記・エッセイ・コラム

はじめに、こちらを...

 

*Slovenian Press Agency、STA...

 

今日は、実は「第一次世界大戦の開戦の日」です...
この記事は、2014年のものですから、ちょうど百年目にアップされた記事です。

 

第一次世界大戦の発端となった「サラエボ事件」は、1914年6月28日に、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者である、皇太子フランツ・フェルディナント夫妻が、当時オーストリア領であったサラエボを視察中、ボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって銃撃され、夫妻ともに暗殺されてしまったという事件です...夫人は当時、妊娠中だったといいます...


オーストリアがセルビアに宣戦布告した日が、7月28日。

 

上の記事によると、第一次世界大戦の結果、9万人のスロヴェニア人が犠牲になったと書かれています。

イタリア軍による侵攻の最前線になったソチャ河は、第一次世界大戦でももっとも血腥い戦いの舞台になったといいます...

 

紛争が勃発するときには、当然、その背景にさまざまな社会的な矛盾、宗教的な対立、民族主義的な差別と排除、そして何よりも深い憎悪が渦巻いています。だから、ちょっとしたスイッチが入り、その瞬間、世界規模での悲劇が発生してしまいます。
「サラエボ事件」は、皇太子夫妻、要するに大公夫妻の暗殺ですから、大きな出来事ですが、その経緯は、驚くほどあっけないものです...

 

 

情報化社会においては、ちょっとした情報の揺らぎが、100年前の「サラエボ事件」の時とは比べものにならないほどの早さで、想像できないほどの規模で世界を揺さぶります...
今日では、銃や爆薬を用いた要人の暗殺を行わなくとも、世界規模でのカタストロフが発生する危険性がある...
それは情報操作によっても可能であるし、場合によっては、操作しようという意図すらなくとも、情報が一人歩きし、思わぬ民族間、国家間の衝突を引き起こすことがあり得るのです...

 

情報化社会の発展は、世界規模での情報の交換、共有が可能になりますから、世界中で人と人との相互理解が進み、戦争や紛争の抑止に繋がる...
そういう見解も耳にしますが、膨大な量の情報の海に呑み込まれ、発信源すら特定もできず、事実関係も検証されないままに、さまざまな「情報」が走り回るこの現状を見るにつけ、わたしたちの心の奥底に巣くっているさまざまな不安、恐怖、憎悪...こうしたものに火がつき、根拠なきデマによって、思わぬ事態が生起するのではないか...

たとえば、いまは、アメリカ合衆国のような、あらゆる意味において圧倒的な世界のスーパー・パワーを誇る国家の元首が、マス・メディアの報道が公平性を欠く、という主張の元に、ツイッターで直接世界中に情報の発信をする時代です...

直接的な発信は、確かに情報の歪みをある程度は回避する効果があることはわかります。しかし、ツイッターのようなリアル・タイムの発信は、一歩間違えば取り返しのつかない事態を起こしかねない...発信されてしまったならば、情報によっては、取り返しがつかないことがあり得る...

あるいは、文化的な背景が異なる国家において、その意味するところが正しく理解されるかどうか、誰にもわかりません。


アジアでも、中東でも、政治的、経済的、軍事的な緊張が、ここ数十年でも最高レヴェルに到るまで高まっています。

百年ほど前の、この戦争の頃と較べて、私たち人類はどれほどのことを学んだのか...

 

インターネットを通じた情報化社会は、世界を直接一つに結びつける...

そんな幻想を抱く人もかつては大勢いました。しかし、情報というものに対する向き合い方をきちんと整理し、しっかりしたスタンスで情報の大海を溺れることなく泳ぐ...それができない限り、かえって情報に振り回され、操作されてしまうことの危険が増大しつつあるのではないのか...むしろ、そういう危険性に対して、一人一人が真剣に向き合うべき時が来ているように思います...


クラシック音楽を越境する...?

2017-07-28 00:14:01 | 音楽

まずは、こちらを...

 

*コントかと思ったら楽譜通り!とある協奏曲のシュールすぎるオチ

 
 

元ページでは動画が見られませんから、問題のシーンはこちらから...
 
 

これは面白い...
しかし、こうした試みは、実はアートシーン全般から見ればそれほど新しくもないし、驚くようなものでもありません。
にもかかわらず、これが驚きを持ってむかえられるのは、いわゆる「クラシック音楽」というものの放つオーラが、「コンサート・ホールで演奏されるような音楽とは、こうしたものだ、こうしたものであるべきだ...」という暗黙の前提、見えない枠組みとして、いかに強力にわたしたちを呪縛し続けているか、ということの証にもなっていますね...

言わずもがなのことですが、確認だけはしておいた方が良いかと思います...
まずはじめに、カーゲル氏はいわゆる「クラシック音楽」の枠組みを解体したくて、あのような試みをしているのですね。
しかつめらしく「クラシック」スタイルでのコンサートを進行させていながら、最後にどんでん返しを食わせているわけです。
要するに「トロイの木馬」方式です。
正統派のクラシックファンは最後のところで激怒するはずです。少なくとも激怒したり、呆れたり、馬鹿にしたりする人が一定以上存在することを想像するはずです。そこが、問題提起になっているわけですね。聴衆の「あたりまえ」「当然」「常識」を揺さぶっているわけです。
音楽を愛し、真摯に音による創造の世界に向き合っているのであれば、様々な挑戦が生まれてくるのは当然です。その挑戦の歴史が「音楽史」として遺されてきたわけです。
リズム、和声、メロディ、楽器、編成、演出...あらゆる部分において、より効果的で創造的な語法が発見され、分析改良の上で理論化され、新しい時代の語法となる...この繰り返しが音楽の発展の歴史です。
その時代においては不快に響くものであっても、次の世代にとっては斬新で刺激的、創造性を喚起するものになっていったりします。J.S.バッハは、生前には余りに激しい技法を駆使することで「騒々しい」と言われていたのですね...あるいは、ジェズアルドの作品は、400年経った今日の私たちの耳にすら、とても挑発的に響きます。
「クラシック」と呼ばれるものが、「評価が確定したエスタブリッシュメント」ということを意味しているというのであれば、真に創造的な人々は絶対に「クラシック」なんかになれっこありません。クリエイティブな試みは、絶えず最前線を歩きます。要するに、創造性の世界においては「アヴァンギャルド」であることが必要なんです。
コンサートホールで、職業的音楽家たちが、交響楽団という伝統的な楽器を伝統的な編成と配置において聴取の前で作品を演奏する...
この伝統と常識の厚みの重圧と束縛の中で、伝統的な語法の縛りを遵守する...できることにも限りがありますね。
カーゲルの試みは、問題提起です...そういうことで、本当に良いのか...?
百年以上前に、シェ-ンベルクは「調性」つまり音階と和声の基本原理そのものが音楽的な創造を束縛する最後の呪縛だと考え、「無調音楽(アトナール)」と呼ばれる新しい骨法を考えました。しかし、当時の人々にとって...今日においてもなお、大多数の人にとって...調性の仕組みはとても肌に合ったものですから、調性の呪縛を解くためにはしっかりした方法上の仕組みが必要です。そこで音階そのものの解体には手を付けないで伝統的な音の響き(「機能和声」の原理)を解体する語法を体系化していきます...
クラシックの世界にも「冗談音楽」の伝統は存在します。特にイギリス人はかなり強烈なクラシックのパロディーを好んだりしますね。何しろ『モンティ・パイソン』の国ですから...デニス・ブレインも参加していた『ホフナング音楽祭』が有名ですね。
 
以前に佐村河内氏の代作事件が大騒ぎになりましたが、あれが大騒ぎになるのは、事件の舞台が「クラシック音楽」だったからなのです。
権威で聴き、評判で聴き、名声で聴き、前提と先入観、いわゆる常識で聴く...
そうすると、じっさいに鳴り響いている音楽ではなく、それを通り越していわゆる「クラシック音楽」いわゆる「バロック」いわゆる「ベートーヴェン」を聴いているだけになってしまいます。だから作者の真贋で揉め、騒ぎになる...
ダンス・ミュージックのファンだったら、「のれる」音楽かどうか...踊れる音楽かどうか...クラシックかぶれじゃない音楽好きにとっては、気に入るか入らないか、好きか嫌いか...それだけです。暗黙の枠組みさえなければ、音楽はとてもわかりやすいはずです...もちろん、だからこそ、自分自身の感性の質、センス、趣味が問われてしまうのですから...ここは、とても恐ろしい...
さて、マウリシオ・カーゲル先生は、いわゆる「クラシック音楽」を越境しようと試みた一人...先生に敬意を表して、いわゆる「クラシックらしさ」から自由になって見てみるべきですね...
さて、それでは、この作品、どうなんでしょう...(笑)