峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

月に寄せて...其の二

2016-09-26 21:50:14 | 音楽

美しい月の光に誘われて、お庭の散歩...とても贅沢ですね...

時には、こういったものも良いですね...


トスティ:『ラ・セレナータ(セレナーデ)』...

 

*****

ゆけよ おお セレナータ
ぼくのすきな娘はたったひとり
美しい頭をもたせかけて
シーツの中で休んでいる
おお セレナータ ゆけよ
おお セレナータ ゆけよ
月は美しく輝き
静寂はその翼を広げている
そしてあの暗い寝室のカーテンの後ろには
灯かりがついているのだ
美しく月は輝いている
ゆけよ おお セレナータ ゆけ
おお、あそこへと

ゆけよ おお セレナータ
ぼくのすきな娘はたったひとり
だけど ほほえみながら半分夢見心地で
シーツの中へと戻っていく
おお セレナータ ゆけよ
波は浜辺で夢を見るし
風は梢の上で夢を見る
ぼくのキスにも心開いてくれないのか
ブロンドのぼくの愛する人は
浜辺で夢を見る 波は
ゆけよ おお セレナータ ゆけ
おお、あそこへと

*****

 


サー・フランチェスコ・パオロ・トスティ(Sir Francesco Paolo Tosti;1846-1916)は、19世紀から20世紀にかけて活躍したイタリアの作曲家。

美しいメロディの歌曲を沢山書いた人です。Sir と爵位がついていることからもわかるとおり、イタリアで生まれ、教育も受けたのですが、三十代半ばにイギリスに渡り、還暦の頃に英国人となります。最後はイタリアに帰り、そこで亡くなっています。
『セレナータ(セレナーデ)』は、「夜曲」と訳されますが、映画などでお馴染みの、月明かりのもと、ギターを片手に貴婦人の部屋の窓の下で歌う愛の歌です。中世あるいはルネサンスまで起源をさかのぼることができるものです。

   おお、セレナーデ、わたしの歌うささやかな曲よ、愛する人の許に届いておくれ...

秘やかな情熱が静かな夜の静寂にこだまし、青白い月の光を一層神秘的に感じさせる...これぞ音楽の魔法です...

原詩は、ジョヴァンニ・アルフレード・チェザーレオ。

「セレナーデ」は、後にはひとつのジャンルになり、歌曲という枠を離れてさまざまな作品が作られていくのですが、やはりその始まりの姿が一番良いように思います。
歌曲としては多分シューベルトの作品が一番よく知られていると思いますが、このトスティのものも負けないぐらい美しいのです。もっと聴かれても良い曲です。



ここで歌っているのが、ルチア・ヴァレンティーニ・テッラーニ。イタリアのメゾソプラノです。素晴らしい声の持ち主で、大好きな歌手だったのですが、51歳で亡くなってしまいました...録音も少ないのですが、これは掘り出し物...とても美しい演奏です。


次は、ドイツの作品から...シューベルトの美しい珠玉の名作。


シューベルト:『ロマンス』D797

オーケストラ伴奏になっていますが、それもそのはず、これはシューベルトの劇音楽:『キプロスの王女ロザムンデ』のための音楽です。...
シューベルトは、ドイツ・リートの作曲家としてその名を残していますが、劇音楽もたくさん書いています。歌劇もあるのですが、台本が余りにひどくて上演に堪えない...と言われています。もちろん、真偽はわからないのですが...何しろ、生で聴くことがほぼ、不可能です。その中でも、この『ロザムンデ』は、比較的良く演奏されます...

*****

満月が山の頂にかかって輝いています。
恋人よ、どんなにあなたが慕わしく思われることか!
優しい心の人よ! 貞節な心の人が
誠を誓う接吻は、なんと美しいことでしょう。

5月の美しさが何の役に立つでしょう、
あなたこそがわたしの春の光でした!
わたしの夜を照らす光よ、わたしにほほえみかけて下さい、
死の中で、いまひとたび!

満月の光の中へ彼女が現れ、
彼は空を仰ぎ見た。

生きている間は遠く離れていても、
死の世界ではあなたのものです

そしてそっと心と心を重ね合わせて崩れ折れた...

*****



アンネ・ゾフィー・フォン・オッターの演奏...

この人は、声も良いのですが、インテリジェンスと洗練が見事です。。
この作品、とても美しいメロディーで、リズムのリフレインが子守歌のようなのですが、歌詞はぎょっとさせられるものがありますね...

叶わぬ恋の距離の遠さが、月の光に象徴されています。
月の光はこれほど明るく私の許に届いているのに、月そのものには決して手が届かないのです...
傍に行き、一つになることができないのならば、いっそのことこの生命を捨ててしまいましょう...
命を捨てれば、この肉体の軛を逃れて、はるか天の高み、月の光の輝くあの人の処に飛んでいくことができる...

もう一つ、ドイツの作品を...シューマンの傑作。

 シューマン:『リーダークライス』作品39の5『月夜』...


本当は歌詞の季節が違うのですが、澄み切った静寂感が、秋の夜、あるいは冬の夜にぴったりな感じを受けるのです...
シューマンには、こういう独特な静謐さを讃えた作品が、たくさんあります...

しかし、シューマンの悲劇的な生涯を知っている私たちとしては、この静けさは儚く脆いものでしかないのではないか...次第に狂気の淵に沈んでいくシューマンの精神は、この美しい作品の、手を触れると砕け散ってしまいそうな繊細さによって特徴付けられている...表面の静けさとは裏腹に、シューマンは、澄み切って張り詰めた空気の中で、大空に向かって共鳴していくような、かすかな振動を通じて、私たちに危機的なものを伝えようとしているのではないか...そんな風にも思えるのです...

*****

それは、まるで大空がそっと、...
大地に口づけでもしているかのようだった。
まるで大地が花たちのほのかな光の中で
大空のことだけを夢見ずにはいられないほどに。

そよ風が野に吹き渡り、
やわらかに穂が揺れ、
森はかすかなざわめきの音を立てていた、
星がとても明るい夜だった。

そして僕の心は
その翼を広げ、
静かな大地の上を飛び去っていった、
我が家に帰って行くかのように...

*****


歌詞は、アイヒェンドルフ。
ソプラノが、バーバラ・ボニー...ピアノが、アシュケナージ...とても素晴らしい演奏です。

美しい月は、ヨーロッパでは「狂気」と結びつけられました...
「ルナティック(lunatic)」と言えば、そういう意味です...
ヨーロッパにおける芸術の主題としての『月に憑かれたピエロ』はそのものズバリですし、『狼男』も月の光を浴びて、変身します...

ちなみに、「いかれポンチ」というのはほぼ間違いなく「月に憑かれたピエロ」のことでしょう...「ポンチ」というのはピエロのことです。

さて、こうした事情の背景には、もちろん、月の光のもつ神秘的な雰囲気もありますし、満月や新月には、特別な天体の作用が働く、という事情もあるのでしょう。

もちろん、月がわたしたち人間に及ぼす影響がどのようなものであるのか、科学的な検証によって何かが確かめられた、ということはまだ言えないのですが...
それにしても、月の満ち欠けと満潮干潮のリズムがシンクロしていたり、何らかの影響が働いていたとしても、私は驚きません...

月光と人間の精神とが、直接的な因果関係になくても、何らかのリズムのシンクロを見極める目印になっている可能性は否定できません...

ヨーロッパは科学的思考に満ちていると思われがちなのですが、実はそうではありません。つい最近まで、いわゆる「錬金術」に連なるような神秘主義的、オカルト的な思想は十分市民権を持ていましたし、今日でも、意外に根強く残っているのです。
月の光と人間の精神の関係で言えば、「ミクロコスモスーマクロコスモス」の「対応(コレスポンデンス)」という考え方は、ヨーロッパではとても強力なのです。どういうことかと言えば、世界全体、宇宙全体は「マクロコスモス(大宇宙)」...人体は「ミクロコスモス(小宇宙)」...両者は同じコスモスとして対応関係にあり、相互に影響し合っている、というのです。
天体の運行は、ですから、人間に影響する...人間は、宇宙の出来事とシンクロする...医学がこうした考え方から完全に抜け出たのは、19世紀の終わりですし、そうは言っても、今でもこうした考え方を信奉している人は、とてもたくさんいるのです。 占星術などは、完全にそうです...
しかし、科学が進歩すれば進歩するほど、こうした考え方を鼻で笑うことができなくなってくるという側面も、もちろんあるのです...

ごちゃごちゃとややこしいことを言いましたが、ともあれ、何よりもまず、美しいお月様を十分堪能することと致しましょう...

 

最後に、月と言えば、この曲を忘れるわけにはいきません...

  向かって左が、ドップラーです。ドップラー効果で知られる天文学者のドップラーの写真が間違って上げられたりしていますね。


アルバート・フェレンツ・ドップラー(1821-1883):『ハンガリー田園幻想曲』作品26


とても美しい曲です。この作品は、日本で特に有名です。よく、日本だけで...なんて言い方をされますが、そんなことは気にする必要ないでしょう。とても綺麗な作品です...そして、この演奏、とても見事です...


新石器時代のトルコの石像は...

2016-09-21 10:58:19 | 哲学・思想

 

トルコ、新石器時代の都市の遺跡から、女性像が無傷で見つかる...

元記事は、こちらです。

Intact Figurine Unearthed at Neolithic Town in Turkey

Archaeology Magazine, a Publication of the Archaeological Institute of America(Tuesday, September 13, 2016)


ニュースの舞台は、トルコ、アナトリア地方の南部コンヤ平原の小麦畑の中に位置する「チャタル・ヒュユク(Çatalhöyük)」です。

チャタル・ヒュユクの遺跡は、紀元前7,500年までさかのぼることのできる「世界最古の都市遺跡」とされたりもする場所です。東西の文化交流の要に位置する場所ですから、考古学的には、とてもホットな場所のようですね。素晴らしい遺跡が、現在大規模に発掘中です。

チャタル・ヒュユクは、とても複雑な構造の建物群があり、規模も大きいといいます。

都市全体の復元図は、こんな感じです...



記事は、この「チャタル・ヒュユク遺跡」で、スタンフォード大学の研究チームが、大理石製の女性像を発掘したという内容です。

トルコ共和国の文化観光省は、像の年代を紀元前8,000年から5,500年のもので、像高6〜7インチ、重さは2ポンドだと発表しているといいますから、新石器時代のもので、高さ15〜18センチ、重さが約1キロのものということになります。



新石器時代は「狩猟」の文化によって特徴づけられます。

とてもインパクトのある建築です。

さて、今回の記事ですが、

この姿は、日本の縄文時代の土偶を連想させます...縄文時代は15,000前から2,300年前までとされますから、世界史的には中石器時代から新石器時代にかけてです。そして、この像そのものは、紀元前8,000年から5,500年の物とされていますから、日本ではまさに縄文時代...縄文の土偶は粘土ですが、こちらは大理石だというのです。似たような造形が生まれる、というのも、面白いことです。

実は、チャタル・ヒュユクという言葉で調べると、似たような像が画像で出てきます。

こちらを見ると、土偶とは違った背景を持つもののように思われます。こうした像が、この地ではどのような意味を持っているのか...縄文時代の土偶についても様々な説が出てきますが、こちらも、同じ。過ぎ去った時間を遡ることはできませんから、確かなことを知るのは不可能なことですが、研究者たちの成果が待たれます。

迫力のある造形も魅力ですし、悠久の昔に思いをはせる縁(よすが)になりますね。


遺伝子組み換え作物の問題に寄せて...

2016-09-21 01:12:19 | 哲学・思想

2年前のものですが...

まずは、こちらを。FB上の岡本よりたか氏のコメントです...

 

自然栽培は、遺伝子組み換え作物のアンチテーゼなのか。

FB:岡本よりたか(2014年9月20日)

 

自然栽培は、遺伝子組み換え作物のアンチテーゼなのか。

よく言われることである。遺伝子組み換え作物と対極にある自然栽培は、遺伝子組み換え作物阻止のための切り札であると。

だが、僕は違うと思う。自然栽培は、農法や農業としての対局という、遺伝子組み換え作物と同レベルで存在するものではない。

自然栽培というのは生き方である。科学に寄り添い過ぎた現代農業と、経済に取り込まれた現代社会による歪みを矯正するために生まれた、自然の調整機能である。

遺伝子組み換え作物を阻止しようと思い、モンサント社に反旗を翻したところで、実は何も変わらない。この巨大な怪物を作り出したのは科学と経済依存のこの世の中である。だからこそ、阻止するためには、全ての人たちが今の生活を改めていかなければならないと思う。

職をなくし浮浪する者が増える社会、健康に害のある薬品やワクチンが蔓延する社会、争い奪い合う社会から背を向け、自然に寄り添う生活を多くの人たちが始めることで、遺伝子組み換え作物の居場所が失われ、社会全体が変わっていく。

生活に困窮し、あるいは金はあっても心が荒み、あるいは人間関係に疲れ、国のシステムに苦しめられる人たちが、ある時自然との会話の大切さに気づき、化学物質を使用せずに作物を栽培し、自らの身体と心を少しづつ改造してゆく。薬も飲まず、非難せず、穏やかに生きてゆけば、不自然な遺伝子組み換え作物など、居場所がなくなり、撤退を余儀無くされる。

遺伝子組み換え作物を生み出す企業を攻撃するよりも、情報として知るだけでいい。そして自然栽培という自然に寄り添う栽培を少しでもいいからやってみればいい。それがやがて大きなウェーブになり、最終的には不自然な食べ物を生み出すバイオテクノロジー企業は撤退して行くだろう。

それこそが本当のアンチテーゼ。気の長い話のようで、僕はそれが近道だと信じている。

 

*****

 

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これは、とても大切なことを伝えてくれています...
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正しいと思うことを人に伝えようと努力することはとても大切なことですし、そのためには信念のレヴェルで共鳴する人を集めて、戦わなくてはならないことだってあり得る...

武器を用い、暴力に訴える戦いはいけないけれども、声を上げ、反対の意思を表明し、言論を通じて、自分たちの生き方を貫こうと努力しなくてはならないときだってある...

しかし、戦って行かなくてはならない相手によっては、声を上げ、言論に訴え、政治的な闘争に持ち込むよりも、もっと大切な戦い方が存在する...

「遺伝子組み換え作物」の問題は、とても複雑で深刻なテーマです。
モンサント社に象徴されるような、政治的、経済的なレヴェルでの問題として考えることもできるのですが、それ以上に、こうしたものを生み出してきたテクノロジーとどう向き合うのか、という、もっと深い主題がその底に横たわっています...

遺伝子組み換え作物の栽培推進は、危険か否か...
私たちの健康に対して、どうか...
自然環境に対して、どうか...
農業政策として、どうか...
経済政策として、どうか...
それぞれのレヴェルで、様々な議論が可能であるし、それはそれとして、しっかりと、できる範囲でやって行かなくてはなりません。
しかし、何重にもわたるそうした議論の連鎖をくぐり抜けていくうちに、、いつの間にか、一番根本の問題...
「遺伝子組み換え技術」というもの、テクノロジーに対して、私たちはどう向き合っていくべきか、という、すべての根源にある重要な問いを忘れてしまいがちになるのです。
しかし、実は、こうした問題こそが、一番重要なのです。

あるテクノロジーを積極的に導入しようとする人たちがいる...その人たちの抱く欲望、野心...経済的な野心、政治的な野心、支配への欲求...それはそれとして、しっかりと向き合い、考え、行動しなくてはならないのですが、そのためにも、そういった人たちの野心や欲望を、そもそも可能にしている、技術、テクノロジーそのものに対して、どう向き合うか...
そのテクノロジーは、野心や欲望を実現するための武器として、不気味な力をふるうものであると同時に、テクノロジーが約束するバラ色の世界観ももう一方ではある...
科学技術が約束してきたバラ色の世界観なるものが、どれほど異様で不気味な世界を作ってしまったかということは、もちろん、一方では言えるのですが、公平に言えば、豊かさと安定、安全も生み出してきたのです...
科学技術は、両刃の剣です...
ですから、一方でテクノロジーの恩恵に乗っかりながら、もう一方で技術革新を嫌悪する...

これは、善悪邪正とは別の次元で、自己撞着でしかないのです。
科学技術の発展の、どこで線を区切るのか...
技術の応用の背後に控える様々な欲望の渦の中の、どこに線を引くのか...
どこまでを認めて、どこで引き返すのか...
個人であってすら、その判断が難しい中で、社会全体でそれを決めていくことは、不可能に近いことです。だから、科学技術に関して、賛成、反対...という図式にとらわれすぎてしまうと、結局、自己撞着の枠組みの中で空しく足掻くしか道がないのです...

ここで語られているのは、そういうアンビヴァレントから身を引き離し、がちがちになりがちな二項対立の図式の根っこにある問題に帰って行こう、という決意です。
それが、テクノロジーと、どう関わっていくか、という問題に対する決意です...
「自然栽培というのは生き方である」というのが、ここで示されている決意ですね...
是非善悪ではなく、自分は、そういう生き方を選ぶ、という決意です。ただ、こうすることによって、気が遠くなるような、複雑怪異な議論...政治、経済、社会、倫理...すべてを巻き込んだ議論に対して、距離をとることができる。

...薬も飲まず、非難せず、穏やかに生きてゆけば、不自然な遺伝子組み換え作物など、居場所がなくなり、撤退を余儀無くされる...

ここで書かれていることは、確かに小さく非力なことです。しかし、おそらく、これほどどっぷりとテクノロジー漬けになってしまった社会においては、これ以外には脱出口はないのではないか...そう思えてなりません。
非力であることとは、裏を返せば、誰でも、簡単にできることだ、ということです。
権力も、発信力も、特異な能力も、必要ない...
ただ、しっかりと考え、情報を手に入れるべく努力し、日常の生活を少しずつ変えていけばよいのです...
ここで書かれていることは、夢でしかない...
私たちの常識は、そう叫びます...
しかし、やってみなくてはわからない...
夢を夢で終わらせないために、何かできることはないか...
それが試されている...そう思うのです...


スティーブ・ジョブズは「ロー・テク」の親だった...

2016-09-20 07:10:54 | 哲学・思想

はじめに、二年前のものですが、こちらを...

スティーブ・ジョブズが子どもにiPhone やiPadを使わせなかった理由 ...

中高生のためのシンガポール留学

 

こちらも...もと記事です。英文ですが、難しくありません。

Steve Jobs Was a Low-Tech Parent

Fashon & Style: By Nick Bilton(Sepy.10,1014)

 

これは、至極当然のことを語っています...

 こうしたことが、驚きを持って受け入れられてしまうところに、怖さがあるのです。
IT技術の弊害を云々などしなくとも、教育、人を作る時には、絶対に手を抜いてはいけないこと、これは常識でわかるはずです。
人と人とがしっかり向き合って、時間をかけること...
しかも、しかるべき時に、しかるべき場所で、しかるべき人がやる...
自分が、こうした部分に関して「手抜き」をされたり、「代理」で済まされたりしたら、あなたはどう思うか?
ましてや、代理人ではなく、機械であったら...?


親たちが、時間を「節約」するために子供たちにIT端末を与える行為に対して、抵抗する子供たちは、まだ良いのです。少なくとも、問題の所在がわかっている...少なくとも、親たちよりも、まだ、事態を「感じて」はいる...
しかし、そうしたことが当たり前になってしまい、そのまま10年、20年と経過した時、手遅れになってしまった...では、済まされないのです。

この記事にもその嫌いはあるのですが、こうした問題を扱うときには、議論が、どうしても有害サイトの閲覧の話に偏ってしまいがちとなります。それももちろん大事な問題なのですが、それよりももっと根源的な部分において、人間の発達、教育、という次元での影響も考えなくてはなりません。

どのような形であれ、「創る側」と「創ったものをあてがわれる側」とは厳然とした違いがあるのです。「創る側」には見える問題も、「あてがわれる側」には見えないことが多い。あてがわれたものを器用に使いこなしたとしても、創る側に回ることができるとは限らない...創る側に回るためには...あるいは少なくとも、問題や弊害を知らずに丸ごとかぶってしまわないためには、少なくとも人間としてのベーシックな部分において、創る側と同じところに立っていなくてはなりません。そして、それはそれほど特別なことを要求するのではありません。つまり、自分の目で見て、耳で聞いて、手で触り、鼻で嗅ぐこと...パッドではなく、木や土や石、水、太陽...そして何よりも、自分の頭で考えることです。

ツールやガジェットがどれほどクリエイティヴに見えても、それを持っている人をクリエイティヴにしてくれはしないのです。私たちの周りに、現に氾濫しているように、ただ、驚くほど進んだハイ・テク機器を使って、驚くほど陳腐で月並みな物が生産されるだけのことなのです。ツールの力によって一見、凄いものができたように見えるとしても、すぐに誰もが同じようなものを嫌になるほど作り出してしまいます。

人間は、確かに凄い技術を生み出してきましたが、雑草一本、ミジンコ一匹作ることすらできないのです。それは、テクノロジーがたいしたことない、というのではなく、私たちが当たり前のように思っている自然が、実はどれほど素晴らしいか、ということなのです。


曼珠沙華 あっけらかんと 道の端 ...

2016-09-19 00:52:36 | 日記
 
曼珠沙華 あっけらかんと 道の端

夏目漱石の句です...

曼珠沙華は、何よりも血のようなその紅さ、その容姿、咲く場所、そして季節のせいでしょう、あるいは哀しく、あるいは恐ろしく、あるいは淋しく、あるいは妖しく...さまざまな思いを想起させてくれる花です。特に夕暮れ時に、西の空に傾きゆく陽の光りを受けて、畦に並ぶ沢山の緋い花が、いっそう赫赫と耀く姿は、何かこの世のものならぬ不思議な気配を辺りに漂わせます。
しかし、朝の爽やかな光りの中で見る姿は、とても可憐ですし、昼の強い日差しの中で見れば、意外なほどおとなしく、ポツンポツンと、むしろ控えめに咲いているように見えるのです。
漱石のこの句は、そんな控えめで、静かな佇まいの一瞬を、「あっけらかんと…」と見事に切り取って来ています。
妖しく私たちの心をかすかにかき乱すような不思議な魔力がかき消え、嘘のように楚々とした、呆気ないほど素直な素顔が垣間見得る一瞬です。

さて、妖しい魔法の気配を身に纏うのが、本当の姿なのか...それとも、あっけらかんと、何の神秘もなくひっそりと道の端に立つのが、本当の姿なのか。
漱石は、曼珠沙華の見せる意外な顔に驚きながらも、やはりその妖の世界の向こう側に、思いを馳せているのでしょうか...
思わしくない天候が続く中、曼珠沙華が今は盛りと咲きそろいました。