峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

東大卒業式の祝辞から...

2018-03-25 09:42:57 | 哲学・思想

 

*東大卒業式の式辞が深いと話題に「善意のコピペや無自覚なリツイートは......」(全文)

 

 

これはとても考えさせられるスピーチです...

素晴らしいスピーチですが、だからこそ、少しこだわって言わねばならないことがあります。

初めに、スピーチそのものについては、繰り返しになりますが、とても示唆に富んだものです。このスピーチそのものについては、ここではふれません。
問題は、この記事の、紹介文です。

このスピーチの紹介は、

「...インターネット時代における情報の扱いについて述べている」とまとめています。
これはもちろん、間違いではありません。
確かに、このスピーチは「インターネット時代」における「情報の扱い」に「ついても」述べています...

同じく紹介されている「...善意のコピペや無自覚なリツイートは時として、悪意の虚偽よりも人を迷わせます...」というくだりと併せると、それはその通りなのです。

しかし、ただそれだけならば、この式辞の一体どこが「深い」のですか?

いい加減な情報が氾濫しているこのネット社会の中で、出所をきちんと調べなさい、真偽が曖昧なままで拡散してはいけません、程度のことであれば、誰もがすでに何万回も言っていることです。ですから、この部分は、「深く」も何ともない。
それでは、どこがいったい「深い」のか...どう「深い」のか...
揚げ足取りのように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。

「深い」というのであれば、何が、どう「深い」のか、わかっていなければなりません。

誰かが「深い」と言った、あるいは「深いと話題に」と聞いたら、自分で考えることもしないで、確かめることもしないで、そのまま、そうなんだ...と思ってしまう。それが問題だ、とこの式辞は言っているのに、その式辞を紹介する文章が、すでにこの式辞が伝えようとしていることをあっさりと無視して、いわば裏切ってしまっているのです。ここを、「はいそうですか」と素通りしている限り、何も始まりません。


公平に言えば、式辞を紹介しているこの記事自体も、制約された字数の中で記事を書いているわけですから、そもそも「深い」内容にまで踏み込んでいる余裕はないはずです。ですから、そのこと自体は、仕方がないことだと言えなくもない...
しかし、だからといって「深い」ということがどういうことなのか、触れなくても良いのか...

単に文字数あるいはスペースの制限のせいで触れられなかっただけなのか、それとも、もっと深刻に、この記事の書き手自身が、実は、どこが、どう「深い」のかわかっていなかったのか...

一つの解釈を出してみます...
たとえば、スピーチでは「痩せたソクラテス」のエピソードの紹介の後、こんな風に言われています。


...これから皆さんが語る言葉には、常に名前が刻まれています。それは皆さんが普段名乗っているいわゆる「名前」だけでなく、東京大学という名前であり、教養学部という名前でもあります。ですから皆さんは、今後どのような道に進むにせよ、研究においても仕事においても、けっして他者の言葉をただ受動的に反復するのではなく、健全な批判精神を働かせながらあらゆる情報を疑い、検証し、吟味した上で、東京大学教養学部の卒業生としてみずからの名前を堂々と名乗り、自分だけの言葉を語っていただきたいと思います...


ここでは、きちんとした社会人であれば、自分の言葉には「責任」をもたねばならない、という「倫理性」が要求されています。
それは、単なる「個人的」な「名前」が担うべき倫理性だけではなく、自分が卒業した母校、所属する組織、企業...さまざまな関係性に裏打ちされている「責任」です。

要するに、社会人として生きている限り、「オフレコ」が通じない世界がある、ということです。


しかし、同時に、さらにもう一歩踏み込んで見ていくならば、簡単に通り過ぎてはいけない部分が出てきます...
いまの引用文の最後、


...みずからの名前を堂々と名乗り、自分だけの言葉を語っていただきたいと思います...


というところです。
みずからの名前を堂々と...というところは、東京大学教養学部の卒業生、というタイトルと絡んでのものなのですが、その次に、さらにその上に重ねて「自分だけの言葉を...」と言われています。

東大教養学部の卒業生としての立場と責任を自覚しての発言は、他人の意見を無自覚に受動的に繰り返すのではなく「健全な批判精神を働かせながらあらゆる情報を疑い、検証し、吟味した上で...」要するに自分で調べて、確認を取り、本当にそういうことなのか吟味してから話せ、ということです。それをしっかりすれば、取り敢えずは有名大学の卒業生というタイトルに恥ずかしくない程度の義務は果たせる、ということです。


しかし、その次、「自分だけの言葉を...」というところは、それでは済まないのです

 

批判精神を働かせ、検証、吟味したとしても、それだけでは「自分だけの言葉」にはなりません。

「検証」「吟味」しても、情報はただの情報...
その次に、更に進んで、検証、吟味した情報をもとに、自分の見識を、自分の頭で考え、自分の生き方を織り込んで、自分自身の「思想」を、自分自身の「哲学」として語り出す、ということが必要になってくるわけです。これは容易なことではありません。

そして、この部分の、こうした問題意識を視野に入れた時、初めてこのスピーチの最後に引用されてくる、ニーチェの言葉が生きてくるのです。


 

スピーチでは、こう言われています...


...それはドイツの思想家、ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくる言葉です。
きみは、きみ自身の炎のなかで、自分を焼きつくそうと欲しなくてはならない。きみがまず灰になっていなかったら、どうしてきみは新しくなることができよう!
皆さんも、自分自身の燃えさかる炎のなかで、まずは後先考えずに、灰になるまで自分を焼きつくしてください。そしてその後で、灰の中から新しい自分を発見してください。自分を焼きつくすことができない人間は、新しく生まれ変わることもできません。私くらいの年齢になると、炎に身を投じればそのまま灰になって終わりですが、皆さんはまだまだ何度も生まれ変われるはずです。これからどのような道に進むにしても、どうぞ常に自分を燃やし続け、新しい自分と出会い続けてください...



情報を批判的に検討し、吟味、確認する...
さらにそれを自分の意見として語る...
これはとても大切なことです。
しかし、ここで語られる「自分の意見」なるものが、やっぱりどこかで聞いた誰かの意見だったり、どこでも語られるありきたりの主張であったり、誰かが意図的にまことしやかに作り出した思考の枠組みであったとしたら、どうでしょうか。

「自分の意見」という場合の「自分」というのは、ほんとうに「自分」の意見なのか...


私たちは、ネット上に氾濫している「情報」を、真偽を精査さえすれば、それでほんとうに良いのでしょうか? 

「真偽」の精査と一言で言っても、その「真偽」と言うものの正体は、簡単に鵜呑みにできるものではありません。

「真偽」というばあいの、その基準は、一体どの様なものなのか?

科学的な検証で事が足りるような場合は別にして、社会的・文化的な背景が大きく影響し、あるいは政治的な含意が絡み合って、問題を考える際に様々なひとの価値観や信念が否応なく関わってくるような場合、「真偽」と言いながら、その実は真偽の基準そのものがある一定の立場から「当たり前のこと」として前提され、ある文脈にとっての「当たり前」でしかない基準の無自覚な押しつけになってしまい、「真偽」の吟味ではなく、単なる「正当・不当」あるいは「正統・非正統」の判定、あるいは「主流・非主流」の仕分けになってしまっているようなケースも少なくありません。

「真偽」の「精査」と言っても、その精査を誘導する「基準」は一体どのようにして持ち込まれているのか、真偽の基準そのものの検討が必要なのではないか...

「情報」の吟味だけではなく、いつの間にか私たちが前提としている、ものの考え方の枠組みそのものも、本当にそれで良いのかもう一度吟味し、疑ってみなくてはならないのではないか...

社会の中で生きているうちに、私たちには「~は当たり前...」「~に決まっている...」と、いつの間にか信じ込んでいる思考の枠組みが、たくさんうまれてきます。それは「常識の枠組み」です。
「常識」というのは、私たちが生きていく上で、とても大切なものです。
しかし、テクノロジーがこれほど飛躍的に進化し、今までになかったようなモノが次々と生み出され、政治的、経済的、文化的に、これまでの歴史にはなかったほど素早く、広く、世界が情報のレヴェルで一つになり、あり得ない速さと規模で世界は動いていきます。
いままでの「常識」が通用しない局面が、多くの場所で起きている今日、無自覚に、無批判に受け入れてしまっている「常識」が、私たち自身を縛り、道を誤らせてはいないか...

新しい時代がやってくる時、それまでの物の見方、考え方、感じ方が劇的に変化します。
その時、新しい世界に踏み込んでいけるためには、私たち自身で「常識」の枠組みを解除していかなくてはなりません。新しい「常識」を生み出すために、それは必要なことなのです。スピーチでは、若者に向って、こう、語り掛けられています...



...皆さんも、自分自身の燃えさかる炎のなかで、まずは後先考えずに、灰になるまで自分を焼きつくしてください。そしてその後で、灰の中から新しい自分を発見してください。自分を焼きつくすことができない人間は、新しく生まれ変わることもできません...



スピーチのこの部分は、ネットリテラシーのことを言っているのでもなければ、社会人としての倫理を言っているのでもないのです。
来たるべき新しい時代...猛烈な速度で変わりつつある世界の中で、先が見えない社会を担っていく若者は、否応なく自分自身を燃やし尽くし、灰になり、新たに生まれ変わらなくてはならないのです。

来たるべき将来の姿が見えない時には、「後先考えずに」自分自身を否定し、乗り越えていかなくてはならないのです。

居心地のよい「常識」の枠をみずから破って、不安に曝されながら、手探りで新しい道を探して行かなくてはならないのです。
来たるべき時代に向けての、覚悟と決意を呼びかけるこの部分は、ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』中屈指の名文と相俟って、このスピーチの格調を高めています...

さて、

 

「深い」というのは、まずは、このあたりから始めるのではないか...


そして、こうした考え方を身に引き受ける時、このスピーチ全体は、どう見えるか...
それは、また違った姿となって現れてくるのではないか...


このスピーチは、引用されているニーチェの言葉の重みと深さに、果たしてほんとうに釣り合っているのか...
それとも、時代は、もはやこうしたニーチェの思想のような深みと重さを必要としなくなったのか...
ここからが、思想の醍醐味ではないか...
ここから考えるということも、哲学の大事な課題ではないのか...
「深さ」とは、いったいどういうことなのか...
考えさせられるスピーチです...