今日は、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh;1853-1890)の命日です...
「最短の軌道」を駆け抜けた画家の中の画家を追悼です...まずは、こちらを...
*Loving Vincent - Official Trailer...
*ゴッホの「失われた耳」を子孫のDNAから培養して復活させたアート作品...
こちらも、一緒に...
*ゴッホの耳の「生きた」複製、美術館で展示 ドイツ、再生医療を応用【画像】...
この計算された趣味の悪さは、ほとんど醜悪と言って良いですね...
テクノロジーのもたらす豊かな果実は、それとちょうど同じだけ、あるいはそれ以上の、不快で気味の悪い成果をもたらします。
この作品は、現代テクノロジーの抱えるおぞましい闇を浮かび上がらせているという点では、アートとして成功しているのでしょうか...
狂気は、アートというものが人間に要求する生け贄のようなものですね...狂気がなければ、芸術は力を持たない...プラトンは、神的な狂気(マニアー)について語っています。
もちろん、こうした思想はプラトン、アリストテレスよりも遙かにさかのぼり、古代ギリシアにまでその淵源をたどることができるものなのです。
創造性と引き替えの狂気...切り落とされたゴッホの耳は、その象徴であり、美術史のそこかしこに横たわる墓石の一つのようなものですね。私たちはそこに、痛ましさを感じざるを得ないのです。だから、この作品は不謹慎なものだという感情を喚起しうるものです。
それでは、この作品は、冒涜なのか...
芸術が時代に対して何らかの形でコミットしようとする場合、美や心地よさ、好ましさだけではなく、醜さや不快さのようなものもまた、強力な武器となります。とりわけ、批判、挑発、告発のようなメッセージを担っているのであれば、冒涜的な性格を帯びていることは、作品の機能としては全く正当なものでありうるのですね。
しかし、この問題は、とても難しい...
醜悪なものが芸術の原理となり得る、ということを、公式に、高らかに宣言したのは、一九世紀のヴィクトル・ユゴー(『クロムウェル』序文)だと言います...ある意味では、そうした事柄をはっきりと認めるためには、何百年もかかった...ロマン主義の運動を通じて、過剰な自己の流出を経験する必要があった...そんなことがいえなくもないのです。
それはともあれ、さて、この作品は、どうか...
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます