峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

スーパーリアリズム絵画の提示する問題は...

2016-08-02 02:09:16 | アート

スーパー・リアリズムですね...見事な技術です...

これは、或る意味ではレオナルド・ダ・ヴィンチの理想の実現ですね...

レオナルドは、顔料を極限まで薄くのばし、気の遠くなるほどの重ね塗りを繰り返すことによって『モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)』を描きました。
顔料があまりに薄く、塗り重ねの技法があまりにも繊細であったために、レオナルドのグレイジングの超絶技法は『スフマート』つまり「煙」と呼ばれました...



それでは、なぜレオナルドは、それほどまでに顔料の薄さと重ね塗りにこだわったのか...
それはひとえに「タッチ(筆痕)」を消すためだといいます...
人間が描くものであるからには、どれほど丁寧に描こうとも、かならず画面には「タッチ」の跡が残ります。レオナルドは、そのタッチを徹底的に消そうとした...
まだまだテンペラが主流だった時代、レオナルドは若いころから油彩の技術にこだわっていました。それは、単にレオナルドの新しい物好き、革新好き、好奇心ということにはおさまりません。
油彩は、時間をかけて、何度でも修正が効く...それだけではなく、例えば陰翳を表現するのに、のびの悪いテンペラでは細かな線を「ハッキング」という技法で何本も引いて表現するほかはないのですが、油彩であれば、線を描かなくとも、塗り重ねで陰翳どころか、肌の色つや、血色に至るまで微妙な色彩を表現できる...

ロマン主義以後の近代絵画では、画家の個性が最大限に尊重されることになります。「写真」とは違い、画家には「個性」がある...「タッチ」は、その個性の重要な担い手です。ゴッホ、ゴーギャン、ルノワール、セザンヌ、ピカソ...彼らの作品の偉大さは、その個性の偉大さです。
一方、レオナルドは、その技巧を駆使して「タッチ」を消し、同時に「個性」を画面から消し去ろうとした...人間としての痕跡を、画面に残さない...レオナルドの理想は、今日でいえば、「写真」のようなものだったのですね...

天才崇拝、個性尊重の近代的価値観に陰りが見えた今日、このスーパーリアリズム絵画のように、時代は、再びレオナルドの理想にもどってきているのでしょうか...

実は、問題はそれほど簡単ではありません...

レオナルドはタッチを消し去り、個性を殺し、写真を目指した...と書きましたが、それでも、例えば『モナ・リザ』からは、明らかに「タッチ」とは異質の個性、異様な「何ものか」が放射されていますね...この「何ものか」の正体とは、いったい何なのか...
研究熱心だったレオナルドは、人間を描くために、解剖までしています...レオナルドが描こうとしたのは、人間の「画像」あるいは「絵」ではなく、人間の「本質」なのです。これが、ヨーロッパの「古典主義」の理想です。



人間の肉体がただ単に「どう見えるか」ということではなく、それを超えて、人間の肉体は構造的にどうなっているのか、という点まで含めて、「リアリティ」を観ているのです。だから、解剖までして、その本質を知ろうとした...
人間の肉体の数学的な比率関係はもちろん、骨格の成り立ち、筋肉の仕組み、肌の弾力、暖かさ、匂い...骸の臭気、こわばり...それらすべてを知った上で、その「本質」を描く...それがレオナルドのリアリティですね...レオナルドの作品から放出される一種独特の迫力は、学び、考え、実験し、経験と知力を総動員して、その対象の「本質」に肉薄しようとするエネルギーなのでしょうか...



一方、十七世紀のフェルメールは、写実的な技法の見事さで有名ですが、丹念に画面に書き込まれた光の反射から、「カメラ・オプスクーラ(暗箱カメラ)」を用いて作品を製作していたことが明らかになっています。肉眼では見えないはずのキラキラと光る光の反射が、画面に描かれているのです...
わたしたちは、フェルメールの絵画を見るとき、フェルメールと一緒に「カメラ・オプスクーラ」越しに世界を観ているのです。ですから、フェルメールの作品が「写真のように...」というのは、当たり前のことなのです。フェルメール自身が、「カメラ」の中に映った映像を描いているのですから。
そして、フェルメールの絵画を見ながら、それがリアルだ、と思うとき、わたしたちは「カメラ」の映像が、現実のリアルの「正確」な「写し」であると、暗黙に前提していることになります。カメラの映像の方が、肉眼よりも頼りになるのだ...と。カメラの暗箱の中に映る「映像」が、肉眼で見る「リアル」を圧倒しつつある過渡期の現象ですね...



わたしたちの時代は、フェルメールの眼の、さらにその先にありますね...
現実を目の前にしても、現実そのものを観ない...現実の「写し」を見て、それをリアルだと認識し、納得している時代です。いってみれば、「五感」の中の「視覚」と、視覚に特徴的な特性が、リアリティーの基準になる時代ですね。
ファインダー越しに見なければ誰にも気が付かれないような、地味で目立たなかった女性、ノーマ・ジーンは、ピンナップ写真のモデルになることによって、二十世紀のアイコン、マリリン・モンローに変容します...
典型的なフォトジェニック女優であった、モンローの成功は、わたしたちの時代が、生身のモンローを見て、その映像を「写し」とするのではなく、目の前にモンローがいても、モンローの生身の肉体を通り過ぎて、「ピンナップ」のモンロー、映像化されたモンローを専ら見ている、ということを意味しています。
わたしたちの時代における「リアリティ」は、まず第一に、映像としてのリアリティ、画像としてのリアリティなのです。だから、生身の人間が、そのイメージを壊すような振る舞いをしたとき、「気持ち悪い」「ヘン」「おかしい」となるのです...

今日のような映像の氾濫の中にいるとき、わたしたちは、まず第一に「リアリティ」を「視覚」の中に探します。フェルメールにとっての「カメラ・オプスクーラ」は、わたしたちの時代においては、パソコンと、スクリーン、ハイビジョンとCGです。
そして、そもそも写真機など存在せず、今日のような映像技術を知らなかったレオナルドとっては、ただ視覚的な画像によってもたらされる「リアリティ」というのは、明らかに異質の思想です...ですから、先ほど、レオナルドが目指したものは、わたしたちの言う「写真」のようなものだ、と書きましたが、実は両者は似て非なるものです。わたしたちはレオナルドのように「観る」ことはできませんし、レオナルドがわたしたちの時代のこの映像の洪水を観るとき、それはレオナルドの眼には、どう映るのか...

現代は、視覚表現の圧倒的な「進化」あるいは「肥大化」のただ中にあります。CGのような映像技術の進歩も凄まじいですし、それが安価に手に入り、誰もがプロ級の加工ができる時代になりました。だから、ますます映像の氾濫は圧倒的なものになっていくはずです...
しかし、人間が肉体を持つかぎり、わたしたちが追いつくことができる画像データの処理には限界があります。それは、脳のキャパシティーの限界でもありますね。
あるいは、そもそもリアリティーが問われる場面において、これほど圧倒的に「視覚」が肥大化している状態は、明らかにバランスを欠いています。
もう一つ、イスラエル出身のアーティスト Yigal Ozeri の作品を...



この、見事な技術で描かれた女性たちのリアリティは、「写真」あるいは「グラフィック的なもの」によって担保される類いのものです。しかし、わたしたち映像人間は、「写真」からでも、あたりに立ち昇る瑞々しい渓流の息吹、仄かに香る川の匂いを想像し、リアルなものとして認識することができるでしょうか...
わたしたちは、視覚を通じて想像力を羽ばたかせ、リアリティを感受するように訓練されています...たとえば、現代のスーパー・リアリズム、あるいはハイパー・リアリズムの作家達の試みは、そうした方向性に向けた模索の跡をあらわしています。

しかし、技術の進歩によって、近い将来、生身の人間よりも「リアル」な人間を、映像としてみせることができるようになるでしょうか...そしてその先には、想像力の飛翔によって生み出される造形が、わたしたちの経験の世界を凌駕するときが来るのでしょうか...
いずれにしても、ヴァーチャルとリアル、という二分法による思考の限界は、とうに超えられてしまっている、と言うことはできるでしょう。そして、これは善し悪しではないのです...ただ、重要なことは、こうした時代の動きの彼方には、何が見えるのか...
わたしたちの「リアル」の行く末は...

結局それは、わたしたちが,物事を「リアル」だと認めるとき、その「リアル」さを支えるものは、何か、という問題に行き着きます。
とても難しい問題なのです。



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1 コメント

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リアリティ (黒瀬愛)
2016-08-02 23:15:55
リアリティとは、その者、実物ですが、実物自体が何者であるかわかりません。
画家たちが自分の魂を削っても形をリアルに近づけたとしても、その実物から溢れるエネルギーや空気や、魂のような目に見えないものが、その絵画から発散、放出されてこそ、実物を感じる事ができる。つまり、形や色、光や陰の技法だけなら真似出来るが、作者の命がけで生み出した何かを感じられられる事こそが、リアリズムだと思います。抽象画であっても、リアリズムを感じます。私は。
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