観光客の多い蔵造りの通りを北へ直進すると、東明寺に突き当たる。
東明寺のイチョウは、山門の外からでも良くみえる。
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山門の脇から入ると、イチョウの木の下に石碑が建てられている。
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木漏れ日で少し見にくいが、
市指定史跡
川越夜戦跡
と彫られている。
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石碑の裏には、川越夜戦について書かれている。
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川 越 夜 戦 跡
川越夜戦は、今から四百余年前、川越城争奪のために起った戦いで、
東明寺附近が激戦の中心となった。よってこれを一名東明寺合戦とも
呼び、日本の大夜戦の一つである。
もともと川越城は、長禄元年(一四五七)扇谷上杉持朝が、執事太
田道真、道灌の父子に築かせたものであるが、天文六年(一五三七)
に北条氏綱に占領された。その後、扇谷上杉朝定のときにいたり、山
内上杉憲政、古河公方足利晴氏と組み、川越城を奪還すべく、天文十
四年(一五四五)十月、八万余騎をもって川越城を包囲した。
これに対し半年あまり籠城し、ひたすら防戦につとめていた川越城
將北条綱成は、翌十五年(一五四六)四月二十日の夜、小田原から来
援した、黄八幡北条氏康の八千余の軍勢と呼応し、三千の城兵を率い
て出撃し、連合軍を壊滅した。この戦いに上杉朝定は討死し、これを
境いに北条氏は、関東地方に一大勢力を樹立するにいたった。
昭和五十五年文化の日
東明寺 五十二世 朝日龍幹 撰文
勲四等 八十九歳 山崎嘉七 揮毫
同 人 建立
イチョウと石碑の周囲には、砂利の上一面に銀杏が落ちていた。
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幹の近くは特に多く、石碑の後ろへ廻るとき、砂利といっしょにかなりの数を踏んでしまった。
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境内はいつも静かで、大きな合戦のあった場所とはとても思えない。
ここで人に合うことはほとんどないが、この日は、カメラと資料のようなものを持った人が一人だけいた。
川越夜戦については、
川越夜戦(1) 川越夜戦(2) 川越夜戦(3)
を見て下さい。