川越雑記帳2(川越見て歩き)

古墳下背に陽を受けて頌徳碑(喜多院・高林謙三翁頌徳碑)

喜多院の慈眼堂は古墳の上に建てられている。
その慈眼堂の下、堂に背を向けて2つの大きな石碑があり、向って左の小さい方が「高林謙三翁頌徳碑」である。


高林謙三については、説明板のある墓地を紹介した。
高林謙三墓

その説明板の文章は短いが、この石碑には小さな字でかなり長い文章が刻まれている。


石碑の上部には「頌徳碑」と大きな文字で書かれている。
その隣の字は読みにくいが、「蘇峰菅原正敬 □齢八十八」と読める。
最初「蘇峰」の字は読めなかったが、下の本文を見て「蘇峰」だと判断した。


石碑には、つぎのように書かれている。

高林謙三翁頌徳碑               八十八翁蘇峰菅原正敬題額
易に曰く、機を知るは夫れ神かと、ニュートンは苹果の落つるを見て地球の引力を察知し、ワットは鉄瓶の噴くを見て蒸汽機缶を発明せり。是れ偶然に由ると雖も、機智妙算神明に通じ、而かも不屈不撓意志強固なるに非ざれば成す能はざるなり。発明創業のこと固より難し。高林翁の製茶機械に於ける如きは、豈特筆して其の偉績を千秋に伝へざるべけんや。翁諱は謙三、埼玉県高麗郡平沢村小久保忠吾の子、後姓を高林と改む。少壮志を立て隣郷権田直助の塾に入りて皇漢医学を修め、更に佐倉に遊び佐藤尚中に従ひて西洋医術を学び、河越に還りて開業し勤勉すること十余年、名声遠近に喧しく漸く蓄財に富む。因て謂ひらく、世の資産家なるもの或は吝嗇に陥り、或は浪費に流る。是れ経済を知らざるの徒なり。宜しく公益の為に財を利用せざるべからずと、時恰も明治開国に際し百物海外の輸入に待ち、輸出品としては僅かに生糸と製茶あるのみ。頗る貿易の均衡を失ひ、識者之を憂ふ。而して河越の野狭山は古来名園五場の一に挙げられ、茶の名産地なるを以て、翁の□(けい)眼は早くも製茶業の有利なるを看破し、是に由りて土産を興し国富を致すべしとなし、断然意を決し明治二年自ら数町歩の茶園を開拓し、十年に至り漸く繁茂せるを以て製造に着手し、四方の良工を聘して大に心を製法の改善に尽くせり。然れども、従来の手工に由りては到底時代の進運に伴ふ能はず、宜しく機械力を応用して能率を昂め、規格を統一し更に製茶の品質を改良するに非ざれば、斯業の振興を期し難し。是に於て翁率先して機械の発明に従事せしが容易に成功せず。不幸重患に罹りしも志毫も衰へず、一日炉辺にて硝子壜を弄びたるに、その中の茶の渋滞なく廻転するを見て感悟する所あり。断然意を決して医業を廃し、日夜寝食を忘れ工夫に工夫を凝らし、試験に試験を重ね、千思万考力を用ふること七星霜、遂に完全なる焙茶器を創製し、続いて茶葉蒸器、製茶摩擦器を考案し、始めて能く機械化の目的を達成し、而も香味色沢従来の焙炉製に遜色なし。十八年専売特許を受け、本邦製茶機械の始祖たる栄冠を戴き、更に研究を積み、終に現今広く使用せられつゝある高林式製茶機を完成するに至れり。晩年静岡県堀ノ内町に居住し、三十四年四月一日病みて没す。享年七十。今や製茶の機械化全国に普及し、本邦重要産業たるの基礎確立せりと雖も、創業の艱難辛苦は筆舌の能く尽くす所に非ず。発明者たる翁の本邦製茶史上画期的の功績は、実に偉大なりと謂ふべし。翁没して既に五十年、後人追慕して止まず。茲に全国茶業者大会並に全国製茶品評会を埼玉県に開くに当り、関係者相謀り石を建てゝ翁の遺徳を顕彰せむと欲し文を余に徴す。乃ち不文を辞せず状に拠りてその梗概を叙し建碑の縁由を記す。後進の士翁の遺志を継紹し、感奮興起して斯業の発展に努力せざるべけんや。
昭和二十五年歳在庚寅十月十五日    東京大学名誉教授文学博士塩谷 温撰
                   日本芸術院会員天台沙門 豊道慶中書
                               吉野豊□刻

石碑の文章には句読点がないので補った。また変体仮名は平仮名に直した。

最初、「蘇峰」が徳富蘇峰だと気付かなかったが、後で菅原正敬が蘇峰の筆名だと分った。
本文は説明板よりもかなり詳しくなっている。
最後に「昭和二十五年十月十五日」とあるが、石碑の裏を見ると「昭和廿八年三月建之」となっている。

この石碑の全文は、大護八郎「茶の歴史 ―河越茶と狭山茶― (川越叢書第9巻 国書刊行会 1982年)に載っているが、なぜか、
最初の「八十八翁蘇峰菅原正敬題額」と最後の「昭和二十五年歳在庚寅十月十五日」は書かれていない。

石碑は、ちょうど山門の方を向いて建てられているので、山門は石碑の陰に隠れている。


高林謙三については、「みどりのしずくを求めて ―製茶機械の父、高林謙三伝―(青木雅子 え・黒田祥子 けやき書房)が面白い。
年表と参考文献も参考になる。

高林謙三のページには、いくつかの参考文献を載せている。

ところで、この石碑についてネットを検索するとレファレンス協同データベースというところに、つぎのようにある。
質問
 高林謙三の顕彰碑が1953年に埼玉県川越市の喜多院に建てられたとのことだが、行ってみると見あたらない。喜多院の関係者に聞いても不明なので、正確な場所が知りたい。

回答
 喜多院の境内ではなく斎霊殿(墓地内)にあるとわかる。これを連絡する。

回答プロセス
『埼玉人物事典』より、高林謙三(1832-1901)は製茶機械発明家・医師。入間郡平沢村(日高市)生まれ。
『故高林謙三翁彰徳碑建設録』に碑の全文と建碑の経過(喜多院境内に決定・・・)あり。『狭山茶業史』に高林謙三翁頌徳碑の全文が掲載され、「喜多院境内にあり」とある。喜多院拝観寺務所に問い合わせると、喜多院境内ではなく斎霊殿(墓地内)にあるとのこと。これを連絡する。

なぜ、この石碑が見つからなかったのか、また喜多院に問い合わせても、「境内ではなく斎霊殿(墓地内)にあるとの回答があったのか分からない。
このレファレンスの登録日時は2005年02月11日、更新日時は2009年09月20日とある。
その当時もここにあったと思うのだが、出来れば最新の情報に更新されればと思う。

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