関越自動車道のインターチェンジである。その道を進み、また国道16号の歩道に戻る。
「国道16号に戻って狭山方面へ進む。関越自動車道のすぐ手前右側は牛窪家である。」牛窪家は、もと桶川宿あたりにいて、慶長18年(1613)に、次郎右衛門、新兵衛の両名が大塚新田へ来て開発した。その後、代々この地で名主を勤めてきた。現在同家に二百通余の古文書が残されているが、この中には、幕府が行った寛政改革の関係史料があり、特に「諸色値段引下ヶ覚帳」のような物価引き下げ関係史料は貴重なものである。」
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「牛窪家のすぐ北に、八坂神社と大塚新田の公民館がある。」
国道16号の歩道を進むと、関越道の少し手前に右へ入る細い道があった。
その角に二本アルミポールが建ち、石の鳥居が見えた。その奥の建物が大塚新田の公民館と思われた。
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鳥居の先には、基壇の上に小さな社殿が建っていた。
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「神社の境内の消防小屋の前には、享保6年(1721)大塚新田の善男善女が百万遍供養をして建てた丸彫りの地蔵や寛政8年(1796)牛久保(窪)新兵衛ら16人の馬持講中が建てた青面金剛像の馬頭観音がある。」
青いトタン板の壁の建物の脇に覆屋があり、その中に石の地蔵があった。
その覆屋の右側には、別の石仏が建っていた。
「そのすぐ西は、ひっきりなしに車が行き交う関越自動車道である。」
関越道を潜って更に進むと、先に行った西福寺と菅原神社の前に出る。