「砂丘のたもとにて」 ―Ⅷ―

付き合い始めたばかりの頃、
わたしは順ちゃんの「家」と
は、すなわち順ちゃんの生ま
れ育った家だと信じて、疑っ
ていませんでした。

実際のところ、そこは順ちゃ
んの実家だったのでした。
有名な老舗のお漬物屋さん。

あなたもそこで育ったので
すよね。そこには当時、順
ちゃんのお父さんとお母さん
とおばあさんが住んでいま
した。でもそこには順ちゃん
の奥さん、すなわちあなたの
お母さんも、住んでいたので
す。

「無理矢理くっつけられたん
や」
順ちゃんとあなたのお母さん
は、親同士、家同士が決めた
縁組みによって結ばれたのだ
と、それは順ちゃんがアメリ
カから日本にもどってきた直
後のことだったと、聞かされ
ていました。

順ちゃんのお父さんは、順ちゃ
んがこの結婚を承諾さえすれば、
勘当も解き、音楽を続けること
を許す、家業は継がなくてもい
い、そんな条件を出したそうです。

「漬物屋になるのは、死んでも
いややって」
奥さん順ちゃんにかわって、お
店の仕事を一手に引き受けまし
た。
「せやし、カミサンには俺、一生、
頭上がらへんねん」
何もかも、順ちゃんがわたしに
語って聞かせた「お話」です。

いかにもリアルな作り話。いいえ、
それは順ちゃんなりの誠意―――
あるいは、わたしに対する同情で
しょうか―――がつかせた、「心
の籠った嘘」だったのかもしれま
せん。

順ちゃんのバンド仲間のひとりが
教えてくれた話しでは、順ちゃん
とあなたのお母さんは、高校時代
から付き合っていた恋人同士で、
両方の親の猛反対を押し切って
結ばれた、絆の深いカップルだ
ということでしたから。

順ちゃんが心の底から愛して
いたのは、あなたのお母さん。
同じように、音羽さんのフィア
ンセが心の底から愛していた
のも、音羽さん。

今も昔も変わらない、揺るぎの
ない真実だと、わたしは信じて
います。
どちらも、ですよ。

窓の外では、楓（かえで）の葉
っぱが色づき始めました。
部屋のなかには、菊の香りが漂
っています。
そちらにも、小さな秋はやって
きましたか？
かたつむりが這いまわったよう
な文字とつたない文章を、どう
か許し下さいね。

いつも、あなたのそばに
　　　　　　　　とき子より