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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

一年間、ありがとうございました!  九里氏の成り立ちと広がり

2024-12-26 | 九里【まとめ】
九里氏‥‥私の思っている成り立ち

秀郷流の女性が源義朝に嫁ぎ朝長の母となったが、その後離縁し、中原氏に嫁ぎ久経を産んだことから始まっていると思う。

其の中原氏は系図的には大江氏とも宇都宮氏とも近い位置にいた者であったろうと思う。

久経(頼朝の御使)と政経(一条能保の家司)は年の離れた兄弟か、年の近い親子であろうか?

その後、久経の子孫が丹波国や因幡国へ在庁官人となって派遣され、またその地の地頭ともなったと思われるが、1240年後半に千葉氏の執事となって東国へ戻ってくることになったようだ。冨城蓮忍入道・常忍であり、千葉氏の執事的存在となったのは富木常忍で、日蓮の支援者でもあった。

この千葉氏とのつながりは母親が千葉氏であったようであるが、まだ詳細は不明である。


中原氏⇒冨城・富木(丹波の河守御荘・因幡国冨城郷)のち(千葉氏執事)1200年代前期から中期
      
    蓮忍は九里太郎ともいわれ、九里氏の祖である。

    中原経久=蓮忍入道=九里太郎


和歌山の系図には、近江国に住み、佐々木氏頼に仕えた九里氏が書かれている。





 小堀助政(秀郷流佐野氏庶流)1200年代後半か1300年前半あたりに生まれたかと思う。
 九里助恒 もまた同じく1200年代後半あたりか1300年前半に生まれたかと思う。
 
1335年あたりから近江国佐々木氏頼に仕える(和歌山系図)
              
九里氏も小堀氏も、紀伊国 熊野本宮とご縁があり、その近くに居住した者もいたことが、この上の二つの別々の系図から分かる。

近江国の九里氏は住熊野となったのが1300年代と思われ、和歌山の九里氏に熊野本宮の前房と出てくるのが1484年である。

今年も、あまり進んでいないように思えるが、それでも流れが少し見えてきたかのように思える。

中原から冨城・富木氏となり、その後九里となっている。
経久の息経重が九里左衛門尉を称していることから、ここから近江国九里に住み始めたのではないだろうか?

今年も一年間、読みにいらして下さりありがとうございます!!

来年こそは天災のない平和な日本国となりますよう!
また、世界にとっても戦争のない時代になりますように、
心から願っております。




       
         

和歌山の九里氏に地理的に近い佐野氏(新宮) 紀伊国牟婁郡佐野庄・佐野成俊の年代は?

2024-12-17 | 九里バラバラ情報






上記の姓氏家系大辞典の37の項によると佐野有綱の六男廣高の曾孫あたりに1194年があったということだろうか。

1194年い熊野に移った佐野氏という事は、成俊は1200年生まれと思っていたが、もっともっと前の年代に生まれたはずである。

そこで佐野有綱を調べると、1186年に老体で‥‥とある。
という事は、1100年代初めに生まれているのではないだろうか?
更にwikipediaの佐野氏の系図には、以下のように有綱と成俊が兄弟として載っている。
成俊の娘が基綱の妻となり、基綱は婿養子となっているようである。



下記の系図は田原族譜からのものだが、こちらでは成俊の息に有綱となっている。しかも享年十九



尊長の娘の息忠廣とは、年が全く違うようで、何が本当なのだろう。

田原族譜を見ると成俊の註に「実園田成実子」とある。
園田成実とは…

足利太郎成綱・家綱の弟であった。園田小倉氏祖。


何処にも近江国の佐々木氏との接点は書かれていないので、たぶん別人と思われる。

が、此の【佐野】というキーワードはかなり秀郷流の中でも九里氏に近いかもしれない。今までは、小山氏と思って調べていたが、九里龍作は新宮生まれである。

しかし、龍作は実は高須氏である。
其の祖は、大江氏だ。
だが、何度か高須氏の中に九里の娘が嫁いでいる。

九里には、本宮の前房の僧が居たり、熊野には深いご縁があった。
御師になっていた者もいた。



この本に高須氏と九里氏が登場していた。
高須富雄 九里幸清 である。
二人は、この熊代繁里の門人であったようである。





五味家の方は、九里のお墓を守って下さっていたそうである。ありがたく思っている。

小堀氏は『秀郷流佐野氏の出』と以前書いたこととつながる。

2024-12-12 | 九里バラバラ情報
当ブログ内を【佐野】で検索してみると、
小堀氏は秀郷流佐野氏の庶流と書いていたことが分かった。
今年の9月17日の記事である。


姓氏家系大辞典では、





此の7の佐々木氏流と8の藤姓江州佐野氏が関係しそうであると思う。

同書、22は下に貼ってある。


佐野氏の成俊は近い存在であったのかもしれない。木村成俊ではなさそうである。

佐野という名のついた神崎郡と浅井郡の場所を確認してみた。
神崎郡は、伊庭氏のお膝元である能登川の近くである。
こちらは、伊庭氏の被官であった九里氏と関係がありそうな場所である。




浅井郡の佐野(二枚目の地図で赤い点で囲まれている場所)は京極氏のお膝元であったかもしれないと思う。
(小堀氏の居た小堀町とも近い…↓三枚目の地図赤い枠は小堀町)






何か、つながりがありそうに思えてきた。

近江国には、秀郷流が荘園管理をしていたと思われる節があったではないか。
この能登川付近の佐野に近い処では、豊浦庄など秀郷流の時代があったのではないだろうか?

近江国の佐々木氏が力を持つ以前から秀郷流は近江で活躍していた時代が長くあったのだろう。(田原藤太の活躍に始まり…)


その後、平安後期から鎌倉時代には、秀郷流と佐々木氏も近い関係となったのだと思う。たとえば、佐々木経高が、秀郷流や宇都宮氏のごく近いところで育てられていたなど…









安蘇郡佐野庄の場所である。↓






「二位法印尊長の娘」の息【忠廣】(新羅三郎とあるが…)

2024-12-12 | 九里バラバラ情報
前回の記事にも登場した下記の系図に成俊の兄にあたる「忠廣」に新羅三郎と記載があり、しかも母親が二位法印尊長の娘であったことが、とても気になった。

聞き覚えが或る【尊長】である。


尊長の父は一条能保である。
其の娘という事なので、尊長の義兄弟が「高能、信能、実雅、尊長(本人)、中院通方室、西園寺公経室、九条良経室 、後鳥羽天皇乳母大納言三位保子 」であり、尊長の娘から見ると叔父や叔母がゴージャスである。

藤原秀康や、熊野別当家の行忠らと上皇側として承久の乱で活躍していた、修験者としても力を持っていた尊長なのだそうである。(和歌山県史より)

wikipediaによると
『延暦寺の僧であったが、その智謀と武芸を認められ、後鳥羽上皇の側近となる。院近臣に加えられた尊長は法勝寺及び蓮華王院の執行に任ぜられ、長淵荘、宇土荘をはじめとする両寺の寺領の支配を任される。上皇の鎌倉幕府打倒計画には首謀者の一人として参加。承久3年(1221年)の承久の乱に当たっては、義兄弟ながら親幕府派の筆頭と目されていた西園寺公経父子の逮捕・監禁に当たるなど、上皇の片腕として行動する。幕府軍との戦闘においては、兄弟の一条信能とともに芋洗方面の守備に就くが、敗戦が明らかになると乱軍の中を脱出し行方不明となる。』

尊長の妻は藤原親信(坊門親信)の娘である。
尊長は1227年迄生きていたそうである。

一条能保は1147年生まれのため、尊長は1167年前後に生まれたと思われる。一条高能が1167年生である。義兄弟の実雅は1196年生なのでかなり幅があるが、仮ではあるが1167年前後と考え、上の系図の尊長の娘を1187年生と仮定すると、その息は1200年以降であろうと思う。

つまり、この系図内の【忠廣】は1200年前後に生まれた人物となるようである。成俊の母は尊長の娘とは限らないとは思う。成俊の註にだけ佐野養子と書かれている。

一条能保の家では、中原政経が働いていた。
尊重の娘のことと関係するかどうかは不明であるが、能保・高能が歿した後に『三左衛門事件』がおこり、一条能保に仕えていた後藤基清、中原政経、小野義成 が捕らえられている。
その時に、居心地が悪くなったであろうと思われるある人物が、佐野家に尊長の娘を託した、または子どもを託した可能性はないだろうか?

後藤氏も中原氏(久経と政経に血縁関係があったとすると)も、秀郷流である。佐野氏も秀郷流である。




木村の祖となった成俊は、中原ではない成俊であったという事も考えられるのではないか?

2024-12-07 | 九里バラバラ情報
源経方の息が(養子であったかもしれないが)中原であったとは限らない。
夢中になっていると、中原以外の事を忘れてしまう。。。

紀氏で、木村と名乗り…となっていく「成俊」を探し出したい。

成俊を調べてみると、秀郷流の足利氏の中に佐野庄司となっていた成俊がいた。
年代的には、この佐野成俊の方が中原成俊よりもぴったりとくるかもしれない。定道の息のあたりの年代かと思われる。

前回の記事の【中原成俊】が、経方と関係がある人物かどうかの疑いの目を以って調べれば、調べるほど暗雲が垂れ込めてくる‥‥

木村氏・佐野氏を調べてみて、佐々木氏との接点などをチェックしてみようと思う。


佐野庄司の成俊も養子であった可能性もあるので、益々複雑である。 
                    ↓ 佐野養子 とある。







難しい… 難しすぎる…
対馬冠者・甲斐権守の検索もなかなか思っているような情報は今のところ出てきていない。

佐野氏は秀郷流、そこから繙けるか???


もう一度【伊香三郎成俊】を考える(1)

2024-12-07 | 九里バラバラ情報


この本では源経方と二男行定、三男定道、が養子父子関係であったとある。

一方系図では成俊が経方の息となっている記載も、また曾孫となっている記載もある。(二人の成俊がいたのかもしれない。)

系図研究の基礎知識 近藤安太郎著には『成俊は対馬冠者と号し甲斐権守・神主となった。』とある。





いろいろな系図で、年代も確定せずに戸惑う。

近江国の伊香郡にいた中原成俊(伊香三郎)は、前から数えても、後ろの年代から逆算しても1000年あたりの人物に思えるのだ。中原成俊が二人いた可能性もある。

平成俊も、大江成俊も、木村となった紀成俊もいるので、それぞれが実在していたのかもしれないと疑いつつ進めなくてはいけないようである。

さて、
木村氏にとっては沙沙貴神社神官に戻った形になるという。

沙沙貴神社はもともとは紀氏が守っていた神社であったのだ。
『常楽寺城は琵琶湖の海上ルートを押さえる目的で築城されたと考えられ、代々、佐々木氏の源流狭々城山君の支流で沙沙貴神社の神官であった木村氏が城主であったとされる。(城郭探訪さん)』
https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/9f7e52a24dae8fce866d1e2c74dce39e

古代にまで遡ってみると、狭々城山君 倭帒宿禰  山部 置目 などがみえる。その辺りのことは、また改めるとして、

今回はこの紀氏から出てきた成俊と伊香郡の伊香三郎成俊(中原)が同一人物かどうかを調べてみようと思う。

資料上では、中原成俊(1124年 越中守)と【伊香三郎】(中原成俊)を調べようと思う。


寛治5年(1091年)



康和五年(1103年)

天治元年(1124年)


保安元年(1120年)








此の成俊の活動期は 1091~1124年あたりと思う。







今回、この辺りの年代を調べてみてわかったことを書いていく。

まず、親子と兄弟の年代が、ある系図では間違っているようである。

経方から書いていく。
経方は永久三年 62歳で没している。(1115年 )… 1053年生
のように、没年から逆算しながら進めていく

    源経方 1053年生ー1115年没
     季定(為俊)1081年生-1131年没 
     行定 1084年生ー1139年没
     成俊 1074年生(その辺りか?)ー活動期 1091年~1124年
     定道 1109年生ー1171年没
     秀義 1115年生ー1184年没

つまり、定道の息が成俊ではないことになる。

成俊が経方の息であったとすると経方はかなり若い頃となる。
季定よりも前に生まれていた成俊となると思う。

定道は秀義と同世代となる。任誉が秀義の継父となっている系図もある。

もう一つ「俊」という一文字は何処から来たのであろう。
季定の初名も為俊と「俊」がついている。
伯父にあたる経方の弟の経俊かもしれない。(日野冠者)

紀氏の母方の祖父盛宗は1069年に下野守となっている。
紀盛宗の娘を母とする紀行定と成俊は兄弟なのだろうか?

一つの系図では行定の息に定道がいるとある。これが真実に近いかもしれない。紀氏の流れにある。




経方ー成俊の成俊は中原成俊でもあるのではないだろうか。
近江国御家人井口中原系図内の成俊の年代とは違っているので、伊香三郎ではなさそうである。

しかも上の系図では行定の息に家行がおり、家行は愛智郡の出で、初名行俊と「俊」がついているあたりも、中原と関係がありそうでもしかすると紀氏と中原氏との婚姻か養子関係があったのではないかと思わせる。

此の家行の名前は、中原の経行・成行を思わせる。途中で改名しているあたりも紀氏からの養子縁組があって中原氏に入ってきたのかもしれない。



経方は、伊香郡・愛智郡の中原氏と結び、また、下野の紀氏と関係も結んで佐々木荘のみではなく、広く力を及ばせることに注力していたのではないだろうか?

何が正解かはわからないが、定道は「成俊の父親ではない」ことがはっきりとしたと思う。
また、中原成俊は二人いて、一人は1000年生まれ、もう一人は1070年代生まれと思われる。
もしくは、系図の位置のずれかもしれないが…



源経方の周辺(2) 経方の妻であった紀盛宗の娘 と 宇都宮、因幡、がヒントではないだろうか?

2024-12-02 | 九里バラバラ情報
経方の周辺を見ると、

妻の一人は源義光(新羅三郎)の娘
もう一人が、下野守紀盛宗の娘 である。

此の紀氏は、下野という土地柄もあり、宇都宮氏と密接な関係のある紀氏と思われる。
しかも、紀氏といえば、源頼政の弟の紀氏(池田)に養子に入った泰政もいた。
Wikipediaの池田氏のぺ―ジには以下のようにある。

【源平合戦の頃に、源頼政の弟源泰政が池田氏の養子に入り、泰政の子の泰光が摂津豊島郡を時景(摂津池田氏)、美濃池田郡を泰継(美濃池田氏)に継がせた。】

さらに頼政には土岐氏に通じている弟が二人いた。一人は源光重である。
もう一人は、源国政(山県国政)

重大なことは、この源(山県)国政の母は、

宇多源氏佐々木党 木村兵部大輔定通女

と【木村定道の娘】であったことだ。
定道とは、経方の孫にあたる。経方ー行定ー定道 である。

という事は、経方の周辺を見ると、

紀氏とも、土岐氏ともつながりを持つ源頼政とその父仲政との縁。

下野守盛宗とのつながりと、宇都宮氏(中原氏でもある)との縁。

宇都宮氏(中原氏)と藤原秀郷流との縁。

源義光(新羅三郎)とその裔との縁。

そして地元の沙沙貴山君氏との縁。
沙沙貴山君のwikipediaには「孝元天皇の皇子である大彦命を始祖とする阿倍臣一族とされる[1]。平安時代まで蒲生・神崎両郡の大領として近江国(現在の滋賀県)に勢力を持っていた 」とある。
この大彦命を調べていくと、沙沙貴山君(佐々貴山君)も摂津の国とつながりがあることが分かった。摂津には長田神社があった。

更にもしかして、
後に中原蓮忍(九里太郎)と常忍が、因幡国の在庁官人となっていることからも見ても、
経方と同時代に登場している伊福部氏か…ともいわれる「服経方」(長田経方。資経の父)も此の源経方であるかもしれない可能性を感じるのである。




榎本(小山氏流) ↓






源頼政は、熊野へ赴き源行家に話に行ったと記憶している。
その辺りも、此の榎本などにつながってくるのかもしれない。



ちょっと、手が届きそうな気がしている。
今回こそ、九里氏の源泉に近いのではないだろうか??