越中国宮崎氏が熊野にいるならば、その宮崎氏の祖である井口氏も紀伊国熊野にいるのではないだろうか?と予想してみた。
つながりがあるのかはまだわからないが、紀伊国那賀郡粉河荘の粉河寺・井口で検索してみると、web情報に行きあったった。
http://michi01.com/ochiai/404dst26740515.html
かなりリアルな、井口氏がどのような役割だったのかまでもわかる記事ではないか! 記事を書かれた落合様ありがとうございます。
webの良いところは、このように個人個人の中にある貴重な情報にも出会える可能性がある!ということだと思う。
この井口氏が770年以前に熊野にいた。しかも測量術という特殊な技能を持っていた・・・とある。
近江国の富永庄も「名主光明治定之処」とあり、光明皇后は701年生まれて760年に亡くなっているので、だいたい時期を同じくして、井口氏が各地で活躍していたのかもしれない。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%85%89%E6%98%8E
【熊野が測量・水路設計を職能とした和田氏の本貫】と書かれていた落合氏の記事によると、はじめは熊野和田氏がその技術を持っていたが、それを井口氏が受け継いだとある。
近江にも、井口氏も和田氏もいるではないか。
そして熊野和田氏は橘姓に改姓し【橘廣方】、その息【良輝】、その息【良形】(方)、その息【良冬】(熊野社年領 和田庄下司 号和田庄司となる。
そしてもっと私的に重要な事には、和田廣方の娘が【鈴木良氏室】となっていることである。
鈴木良氏は、穂積姓、藤白鈴木氏の当主であり、wikipediaによると『初代・鈴木基行の子。官位は従五位下、検非違使、右衛門府生。別名、鈴木判官。
検非違使に任官し、鈴木判官を称した。扶桑略記に「天徳4年検非違使右衛門府生穂積良氏」とある。妻は、同族の熊野国造で牟婁郡大領、熊野本宮大社神職を務める橘広方(従五位下、右衛門尉)の娘。』とある。
そして、さらにその鈴木良氏の息は【重氏】、その息は【重実】(庄司)、その兄【重豊】の娘は【藤原実方】に嫁いで熊野別当・【泰救】を生んだ。
ああ、実方にも、熊野別当家泰救にもつながったのだ。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E6%B3%B0%E6%95%91
ぐるり巡ってつながったのである。