コトバンクによると、
大野(おおの)
多・大・太・大濃・太野・大埜等に通用。普通「オオノ」は地形からきた地名姓をさすが、古代の名族多(太)をさすこともある。「オオノ」姓は約13万。おもな族は〔1〕毛野(けの)氏より分かれた大野君の裔(えい)、〔2〕清和源氏斯波(しば)氏流、〔3〕桓武平氏大掾(だいじょう)氏流、ほか佐竹氏流、美作(みまさか)の橘(たちばな)氏流、佐伯(さえき)氏流などがある
桓武平氏大掾氏流・佐竹氏流・美作の橘氏流・佐伯氏流が気にかかる。
大掾氏流・佐竹氏流に関係しそうな「片岡氏」がいる。
美作橘氏流に関係しそうな「中原橘次経任」がいる。
藤原秀郷氏流の祖に近いところに「佐伯氏」がいる。
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「貫名重忠の妻梅菊は建久四(一一九四)年生まれ83歳没とする。」とある。(下のHPより)
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index289.html
一方の富木常忍の母は1275年に九十歳であった。という事は1185年生まれ。
姉妹だったのかな?とも思う。
大野氏に嫁いだ蓮忍の姉か妹の息が日蓮で、もう一方の姉か妹(または、弟の妻?)の息が常忍。
常忍は、伯父蓮忍に請われて「因幡国の在庁官人」に共に行き、そこで過ごし…というストーリーも在りそうと思う。
蓮忍には二人の息(経繁・経季)がいたが、もうすでに「九里」を名乗っていたという事は近江八幡の地頭か何かで、近江国に居住していたのではないだろうか。
そこで姉妹の息常忍が、蓮忍と共に因幡国へ行くには適任と白羽の矢が立って、同行した。(蓮忍は?だが、常忍33歳か34歳)
そして所領も譲られたのだが、使っていた人々が二年間ホオッテおいた為か宇倍神社に仕えることになってしまっていた…というのかもしれない。
蓮忍入道は上記の姉妹の兄か弟であったと思えば、筋が通る。しかし、あくまでも想像なので、それの証拠が必要なのだが…。
養子となっていたから、同じ「冨城氏」を名乗っていたのかもしれない。
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中原能兼が日野氏の家司であった可能性、そして常忍ともつながりがあった、という事は、能兼は蓮忍の甥で、常忍と従兄弟同士であったかもしれない。
この周辺は日蓮の関係の方々が研究されていらっしゃると思うので、その研究を待つことにしようと思う。
今の流れとして野が結構いい役割を果たしてくれそうな様子はありますよ。ノギって音でも乃木は好きですけど、野城ってのも出雲風土記にあったし熊野も野付くし。久々に各地の大野調べてみようと思います。
冨城も富木になり「富来」もあり、「き」の方も気になります。
「木田」「「紀田」「城田」なども。。。