今回は、
京都:天龍寺 野宮神社 松尾大社の月讀社 車折神社 広隆寺 隋心院 勧修寺 宮道神社 六角堂
若狭本郷:郷土資料館
千葉:中山法華寺
を周って来た。
帰宅すると鳥取図書館から「富城氏」(富木氏)の情報が届いており、
またこれから若狭本郷での情報も整理すれば、富木氏と本郷氏のことが何かしらわかりそうである。
天候が悪く久里浜はパスして、次回の楽しみに。
まだカメラのコード類が届いていないので、写真が添付できないが
「富木常忍」の立像の下に「土岐氏」の桔梗紋がついていた。
また月讀社(松尾大社)と賀茂が関係があるかの如く御神紋の「二葉葵」がどこの扉だったのかは忘れたが扉の紋様についていた。
http://www.tsukiyomijinja.com/yuisyo.html
月読神社縁起
顕宗天皇3年(487年)阿閉臣事代という官吏が天皇の命を受けて朝鮮半島の任那に使いにでる。
その際に人に月の神が神がかりしまして「土地を月の神に奉納せよ、そうすればよい事があろう」という託宣があった。それを朝廷に奏したところ、これを受けた朝廷は壱岐の県主の押見宿禰に命じて壱岐の月読神社から分霊させ京都に祀らせた。
舒明天皇二年壱岐の公乙等を筑紫の伊都に遣わし神石を求め、一つを京都の月読神社に納める。この石はその昔、神功皇后が月神の教えによりお産を延ばされたことで「月延べ石」と名づけられた。その石は今伊都の鎮懐石八幡宮と壱岐の月読神社にあると言われている。
文武天皇大宝元年初めて行幸あり、神石をご覧になられ、壱岐古麻呂に命じて弊帛を奉納し神税を古麻呂に支払う。
宝亀33年、暴風雨で木や家が倒れた。これを占うと月読神の祟りであった、そこで忌部正美が奏じ、神島の大中臣清麻呂を山城・壱岐・伊勢にある月読神社に遣わして神の怒りを鎮めた。
國分郷古木村清月の社在り、延宝4年(1692年)6月朔日建立拝殿の内に石の御殿あり、拝殿は西北西向きで茅葺梁行2間、桁行2間半である。境内は、東西25間余り、南北31間余り、周囲1町17間余り、山中参道16間。祀管榊原主藤原正益、定祭9月23日云々。
式内大社の例により、神階を進められる。
霊元天皇延宝4年6月朔日、松浦肥前守従伍位下源朝臣鎮保、石祀及び木鏡を寄進。(木鏡の銘)には「奉ル備24座ノ内月読神社御正體木鏡1面」とあり。
「また押見宿禰の子孫(壱岐氏)はのちに「卜部氏」と名前を変えて代々、神祇官(神職)をつとめたそうで、大和王権に神道が根付くきっかけを作りました。」とあり、
http://mutsu-satoshi.com/2009/08/12/壱岐・月讀神社/
http://urabe-roots.net/urabeshi.htm
神功皇后と卜部氏は繋がっていた。
そして、後に三浦氏・源頼朝ともつながりができる。
京都:天龍寺 野宮神社 松尾大社の月讀社 車折神社 広隆寺 隋心院 勧修寺 宮道神社 六角堂
若狭本郷:郷土資料館
千葉:中山法華寺
を周って来た。
帰宅すると鳥取図書館から「富城氏」(富木氏)の情報が届いており、
またこれから若狭本郷での情報も整理すれば、富木氏と本郷氏のことが何かしらわかりそうである。
天候が悪く久里浜はパスして、次回の楽しみに。
まだカメラのコード類が届いていないので、写真が添付できないが
「富木常忍」の立像の下に「土岐氏」の桔梗紋がついていた。
また月讀社(松尾大社)と賀茂が関係があるかの如く御神紋の「二葉葵」がどこの扉だったのかは忘れたが扉の紋様についていた。
http://www.tsukiyomijinja.com/yuisyo.html
月読神社縁起
顕宗天皇3年(487年)阿閉臣事代という官吏が天皇の命を受けて朝鮮半島の任那に使いにでる。
その際に人に月の神が神がかりしまして「土地を月の神に奉納せよ、そうすればよい事があろう」という託宣があった。それを朝廷に奏したところ、これを受けた朝廷は壱岐の県主の押見宿禰に命じて壱岐の月読神社から分霊させ京都に祀らせた。
舒明天皇二年壱岐の公乙等を筑紫の伊都に遣わし神石を求め、一つを京都の月読神社に納める。この石はその昔、神功皇后が月神の教えによりお産を延ばされたことで「月延べ石」と名づけられた。その石は今伊都の鎮懐石八幡宮と壱岐の月読神社にあると言われている。
文武天皇大宝元年初めて行幸あり、神石をご覧になられ、壱岐古麻呂に命じて弊帛を奉納し神税を古麻呂に支払う。
宝亀33年、暴風雨で木や家が倒れた。これを占うと月読神の祟りであった、そこで忌部正美が奏じ、神島の大中臣清麻呂を山城・壱岐・伊勢にある月読神社に遣わして神の怒りを鎮めた。
國分郷古木村清月の社在り、延宝4年(1692年)6月朔日建立拝殿の内に石の御殿あり、拝殿は西北西向きで茅葺梁行2間、桁行2間半である。境内は、東西25間余り、南北31間余り、周囲1町17間余り、山中参道16間。祀管榊原主藤原正益、定祭9月23日云々。
式内大社の例により、神階を進められる。
霊元天皇延宝4年6月朔日、松浦肥前守従伍位下源朝臣鎮保、石祀及び木鏡を寄進。(木鏡の銘)には「奉ル備24座ノ内月読神社御正體木鏡1面」とあり。
「また押見宿禰の子孫(壱岐氏)はのちに「卜部氏」と名前を変えて代々、神祇官(神職)をつとめたそうで、大和王権に神道が根付くきっかけを作りました。」とあり、
http://mutsu-satoshi.com/2009/08/12/壱岐・月讀神社/
http://urabe-roots.net/urabeshi.htm
神功皇后と卜部氏は繋がっていた。
そして、後に三浦氏・源頼朝ともつながりができる。
今回の旅行の成果は、如何でしたでしょうか。
月讀神社は、とても厳粛な感じで、とても強い神様がいらっしゃると思っていましたが、そう言う謂われが有るのですね。
コメントありがとうございます。月讀神社はとても素敵でした。小さいけれど威厳がありました。不思議だったのは「車折神社」に賀茂神社と同じような砂でできた円錐(?)が一つあった事です。隠れるようにしてあったので目立ちませんが。。松葉は付いておらず、砂の円錐(先が少し丸い)のみでした。正面に向かって右でした。鬼門なのでしょうか?
車折神社は、京都のパワースポットとして売り出しており、「清めの社のご神力(パワー)により、車折神社の境内全体(敷地)は「悪運・悪因縁の浄化」「厄災消除」のご神力が充満しており、全国各地より大勢の方が、厄除け・八方除けのご祈祷を受けに来社されます。」とあります。
「清め」ですか。
世俗的になってしまっており残念。
でも、その効果を信じることにします。