同じgooblogのなかに「糟谷氏」に書かれているものを発見しました。
面白いです!!
コメントが入らないようですので、
勝手ながらシェアさせていただきます。(1)~(15)まであります。
とても読みやすくて、周辺事情がだいたいわかりました。
https://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630/e/9e2ed0f8174aca9cbb50f2ebd1531b28
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wikipediaから情報を
「寿永3年(1184年)に平氏追討の戦功により糟屋有季が、源頼朝から播磨国印南郡南条郷を与えられた。承久の乱(承久3年6月、西暦:1221年6月)後、糟屋有教がこの地に築城した。鎌倉時代には加古川城は播磨守護所で、守護代糟屋氏が在城した。 」
「加古川城(かこがわじょう)は播磨国印南加古川村(兵庫県加古川市加古川町本町)にあった日本の城(平城)である。現在、城跡は称名寺となっている。」
webより(古城盛衰記)
https://sites.google.com/a/onodenkan.net/lie-dao-cheng-zhi-ji-xing/hyougoke/jia-gu-chuan-cheng
「【七騎供養塔】 正平五年(1350年)告げ口により都を追われ出雲へ落ちてゆく塩冶判官高貞が足利尊氏軍に追いつかれた時、弟六郎他郎党7人が高貞を討たせまいと、この場所で戦ったが全員討死した。それを追悼するため、文政三年(1820年)頼山陽の撰文書にて建立された。
上の記事だが、なぜこの場所でだったのか…ここが大事だと思う。
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塩冶氏は佐々木義清の裔であり、京都から出雲に急ぎ戻る途中の事、ここで追いつかれたとなっているが、実は加勢を求めて寄ったのではないだろうか。(想像)
糟屋氏は加古川城(守護所でもあった。)で、ここに比企の乱・和田合戦後の残党が頼って流れてきていたのではと思う。
さらに豊臣大名一覧を見ていて、宇陀郡内に「加須屋真雄」がいた。
この情報も気になるので書いておく。
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他に気になっているmemo
伊吹山 日本武尊 その妻 弟橘媛 茂原の橘樹神社
同じく糟屋の高森神社、昔は高部屋神社
日本武尊の息が仲哀天皇であったはず。
やはり仲哀天皇と神功皇后の周辺