九里 【九里】を探して三千里

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多賀氏は多賀郷地頭職の野本氏の代官?(2)

2020-04-18 | 多賀氏

多賀郷というからには、地頭職も多賀氏となっていても良さそうなのだが、野本氏である。
どこかで、多賀氏が弱体化したのだろうか?

1300年に野本氏は忽然と姿を消したと言われている。しかも津波の為。(金沢文庫周辺に住んでいたようで‥)
そのため、急遽多賀氏が地頭職代官となって務めたのかもしれない、とも思う。
(まだ多賀を名乗っていなかった??)

===*===

自分の記事で恐縮だが、総合出版社「暦研」のブックレットより
「多賀家物語 わが家系 千四百年の旅」を表にしたものを載せてある。
其の一番下に、
多賀氏の祖秀貞 後醍醐天皇方に属し、犬上郡多賀庄を加増、これより多賀姓、とある。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/ad03d58a8e1412a3b58252ae998c2d38

下記の記事と合わせると、多賀氏が二つに分裂したのでは、と思う。
御醍醐天皇方と足利尊氏方に分かれてしまったのではないだろうか?

そして、それが上司であった「千葉貞胤」と「千葉胤貞」が分かれたことによるものなのかもしれない。

富木氏とも共通する部分があると思われるので、少々富木氏に触れてから先に進む。

両者とも江州中原から出ている。
そして周辺事情が、今まで調べてきた事と符合する。

富木常忍は因幡国から下総国にやって来て「千葉頼胤」の執事役となる。
八幡庄の中の私領で日蓮を匿い、その場所で説法してもらう事となる。

頼胤の孫が胤貞で、その妻は、常忍と共に日蓮を支援していた曾谷教信の娘である。胤貞は肥前国小城郡で生まれ、下総国千田庄・八幡庄に常住していた。


一方、貞胤は頼胤の二男の系で、曽谷教信の姪を妻としている。
この胤貞と貞胤は、戦うことになってしまっている。

wikipediaの千葉貞胤より
北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第9代執権・北条貞時より偏諱を受けて貞胤と名乗る。

正和元年(1312年)、家督を継いで当主となり、伊賀や下総の守護職を継承した。元弘元年/元徳3年(1331年)9月、後醍醐天皇挙兵討伐のため在京元弘の乱では鎌倉幕府方の北条貞直軍に属して楠木正成が守る河内下赤坂城攻めで功を挙げたが、元弘3年/正慶2年(1333年)新田義貞が幕府に反旗を翻して鎌倉を攻めると義貞に与し、武蔵国鶴見川付近で鎌倉街道下道を北上する北条貞将(貞胤の従弟にあたる)を破った

建武政権成立後は宮方につき、北朝方についた嫡流の従兄・胤貞と千葉氏の家督を争った。建武2年(1335年)には胤貞と相馬親胤に本拠の千葉荘を攻められるが、胤貞と親胤は同年11月足利尊氏の檄文に拠って上洛したため、下総での戦いは貞胤有利となり胤貞の本拠千田荘の土橋城を攻め落とす

その後も貞胤は新田義貞の軍に属し足利軍と戦うが、建武3年(1336年)1月16日には丹波国志賀郷にて嫡男の一胤を足利軍の細川定禅に討ち取られる。さらに、義貞軍は一時は足利軍を九州に追いやるものの、再起を果たし反撃した足利軍に攻め込まれ貞胤も恒良親王を擁しての北国落ちに従う

そして、延元元年/建武3年(1336年)10月に吹雪の越前国木芽峠で義貞軍とはぐれて道に迷い、やむなく足利方(斯波高経)に降伏した。だが、その直後11月19日に従兄の胤貞が急死したため貞胤は北朝方に寝返って下総守護を安堵された。その後は北朝方につき京と下総を往復するが、上洛していた正平3年/貞和4年(1348年)8月には、四條畷で楠木正成・楠木正行と戦い戦功を挙げた。

正平6年/観応2年(1351年)1月1日、61歳で京にて死去。次男の氏胤が家督を継いだ。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AF%E6%B3%A2%E6%B0%8F

===*===

こんなに目まぐるしく変わると、どちらが味方で、どちらが敵かわからなくなりそうであるが、貞胤は見事生き抜く。

===*===

富木氏は頼胤・宗胤・胤貞の方である。

多賀氏は…両者に分かれて付き、一方が上総系多賀氏となり、一方が犬上郡の多賀氏となったように思える。

まだよくは調べていない、が、、、
大きな意味で、中原の分裂でもあり、佐々木氏が京極・六角に分かれた時期もこの辺りだったのではないだろうか?

佐々木六角氏頼についた中原秀方。
佐々木京極道誉についた中原秀貞。(長野秀定、多賀孫三郎)

其の中原(長野)秀貞が多賀庄を加増され、犬上郡の多賀氏と成長したように思う。

一方中原秀方は、佐々木氏頼と共に高野山に行ったのかもしれない。
中原秀方の方は、それよりも4代前に「九里の祖」経久がいる。

秀方、住熊野と系図にある。高野山ではなかったが、きっかけは随行して行って…だったのかもしれない。この系が和歌山の九里系図に出てくるのだと思う。



この系図の中の景経の系が前回の浅井氏とつながる「井口氏」となる。

参考となったページ

http://www.asahi-net.or.jp/~SH8A-YMMT/hp/japan/toshu04.htm



http://www2.harimaya.com/sengoku/html/taga_k.html





近江国御家人井口中原系図より







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