出雲国の佐々木義清と巌秀は母親(渋谷重国娘)が同じであると云われている。
wikipediaには、以下のようにある。
相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受けて渋谷重国の娘を娶って生まれたのが義清とその弟厳秀である。義清は、その後成年するまで渋谷荘で過ごし、大庭景親の娘を娶った。
大庭景親には、波多野義常の室になった娘がいた。
渋谷と大庭はお互いの領地も近く、「頼朝に付くのかどうか…」という微妙な話をするほどだったようだ。
渋谷重国の孫と成る義清の妻が大庭景親の娘であったという事が、それも現しているのかもしれない。
「義清は母方の祖父の渋谷重国とともに、平氏方の大将で舅である大庭景親のもとに参陣し、8月23日の石橋山の戦いでは頼朝の敵方に加勢して戦った。その後、10月には黄瀬川の合戦で頼朝方に転じたが、義清が当初敵方であったため、頼朝から信に置かれず、一旦は兄盛綱に身柄を預けられた。しかしまもなくこれは許され、近江守護となった父秀義に従って行動した。」とある。
「承久3年(1221年)の承久の乱の功により、出雲・隠岐両国の守護となり、彼国に下向し、嘉禄元年(1225年)出雲守、安貞元年(1227年)隠岐守に補任される。出雲・隠岐守護職は、初め長男政義に、ついで次男の泰清へと相続された。泰清の子孫は隠岐・出雲の各地に分封されて土着し塩冶氏などの出雲源氏となった。」
佐々木高綱の息光綱(1187年ー1272年)も義清の娘を室とし婿養子となったそうで系図には「能義二郎左衛門尉、出雲能義に住す」とあるそうだ。
義清と同じ母であった六郎(巌秀)は、義経と共に居た時期があり(想像)、そこで亀井重清と出逢い、更に巌秀は源義経の仲介で亀井重清と義理ではあるが兄弟となったはずで、その関係から本来穂積姓である亀井氏も後に佐々木氏称することとなるのではないだろうか?
巌秀は吉田を称しているのだが、その吉田はどこなのだろうか?
出雲国能義郡の吉田荘を預かっていた可能性はどうなのだろうか?
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長岡藩の九里氏の言い伝えでは「佐々木高綱」の子孫という。