九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

大掾氏と大中臣氏に婚姻関係有り! 伊佐氏となった為賢の母は【伊勢大輔の娘】でもある。

2024-05-09 | 九里バラバラ情報
為賢の系が伊佐氏につながっている。
(有間氏も平為賢の子孫という説がある。)

その為賢の父、維幹に注目してみると、
(京の)邸宅が大中臣良岡の隣であり・・・と書かれている。





その大中臣良岡とは、尾張守・越前守・土佐守など歴任している人物である。
良岡の娘を見初め、なんと常陸にまで連れてくる。
娘の母は伊勢大輔である。
(伊勢大輔は高階成順の室という説もあり、私にはよくわからないが…。)

さらに、維幹の子孫には源頼義の室となり、清原成衡の母となった人物がいる。
そして、更に子孫に源義業妻となり、佐竹昌義の母となった人物にも繋がっている。

つまり、大中臣氏・清原氏・佐竹氏とも繋がる。
有間氏が大掾氏の庶流の伊佐氏となると、片岡氏とも近いところにいたことになるのである。片岡春は佐竹昌義の息である義政の娘を室としている。













系図のさらに先を見ていくと、平長幹の母が千葉常胤の娘であると註がある。



千葉常胤の母は、平為賢の兄である為幹の孫の鹿島政幹の娘である。
さらに、千葉常胤の娘が平(真壁六郎)長幹の母であるそうだ。(平直幹妻)








ここで、千葉氏とも繋がることが分かった。
さて、大村・有間氏はどのあたりにいるのだろう。
伊佐氏の中にいるようなのだが、系図の出ていた本には記載はなかった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小山氏・野本氏・有間氏と宇都宮中原氏(3)平姓の有間朝澄

2024-05-06 | 九里バラバラ情報
小山政光は藤原秀郷流
下河辺も政光の弟行義であり、秀郷流となる。

野本時員は下河辺政義の実子であったが、野本基員(藤原時長流)の養子となる。
(政義は行義の息)

宇都宮氏も藤原道兼流であり、有間氏以外は藤原氏である。

有間氏は大村氏から出ているとすれば、大村氏の祖は平直澄という事で、平姓となる。

もと稲毛庄内の有間に居し肥前国高来郡深江浦の有間朝澄。
その相伝者となった入道蓮忍と、
皇嘉門院の領であった三崎庄。その地頭であった片岡経春の甥であった片岡経久

どこか線でつながるような気もする。

「有間」となる前の朝澄は平姓で、かつ稲毛庄内の有間に住んでいた‥‥というのがヒントであろうと思う。

下と関係しそうである。伊佐氏(伊作氏)である。

しかも【河辺氏】が登場する…ここで出てくる河辺という苗字!
河辺清兼の「中・河辺」なのだろうか。



【肥前伊佐氏】
肥前国鹿島に土着した鎮西平氏流伊佐氏を肥前伊佐氏と呼ぶ。肥前伊佐氏は、桓武平氏繁盛流大掾氏族である常陸国伊佐郡を本貫とした多気氏の庶家で、伊佐為賢を祖とする。下向前の本貫地は常陸伊佐氏と同地である。


肥前伊佐氏一門においては、肥前国鹿島藤津荘(仁和寺領、現在の佐賀県鹿島市納富分2011 新義真言宗大本山誕生院)の総追補使伊佐平次(平治)兼元の子で藤津荘で生まれたのが後の根来寺覚鑁上人(1096年生)と伝わる。
『歴代鎮西誌』によると、兼元は為賢の孫と伝わる。


この時代、薩摩の土豪と肥前伊佐氏との間で盛んに婚姻、養子や猶子縁組がなされていた。伊佐平次兼元と共に伊作良道も伊佐為賢の子孫の一族であるとする説があり、さらに兼元と良道が同一人物ではないかと言う説や、兼元の武功は、後の時代に為賢の武功(すなわち刀伊の入寇)と混同され伝わった(『今昔物語』等)のではないかと言う説もある。
☆肥前伊佐氏からは他に平経澄(伝肥前有馬氏祖)を輩出。

概要
島津荘を開墾した平季基も同族であり、伊作良道(平良道)の子らは河邊一族と言われ(良道の長男道房が河邊氏を称したため)、各地を支配し権勢を誇った。南北朝時代には南朝方として北朝方の島津氏等と激しく争ったが、後に敗北し臣従した。



伊作・河邊一族
河邊氏
伊作良道(平良道)を祖とする。良道は薩摩国伊作郷(現在の鹿児島県日置郡吹上町)の地に下向、田中城を構え土着し、伊作姓を冠した。河邊は河辺、川辺とも書き、良道の子孫は河邊一族とも呼ばれた。


【伊佐氏(いさし)】


諸説あり、どれが当てはまるかはわからないが、下河辺氏とする説もあるという。

ならば、常陸平姓でありながら、常陸藤原氏でもあったという可能性もあるか…

常陸伊佐氏ならば、常陸藤原氏と桓武平氏からの大掾氏が重なり合う事もありそうである。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小山氏・野本氏・有間氏と宇都宮中原氏(2)朝澄開発田

2024-05-06 | 九里バラバラ情報
高来郡深江浦や串山郷をめぐって「なぜ相論になるのか」が、おぼろげながら見えてきたように思う。相伝家「北条・九条家」との力関係に依拠すると思う。(違うかも…)

宝治合戦の際に、有間朝澄は何処にいたのだろうか。
宝治合戦直後に書かれたと思われる、相伝の文書は本物なのだろうか?


その前に185ページにわたる資料が見つかり、そちらを読もうと思う。
また、深堀文書の深堀氏についても。

1273年六波羅御教書 朝澄開発田と記載あり。
という事は、その田が平朝澄に開発される以前には、名もなき場所であったのかもしれない。つまり、稲毛庄の中の有間という地名を苗字にした朝澄が、自分の開発した土地にも冠した「有間」であったかもしれないという事ではないか?





私的memo
京都大番役

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小山氏・野本氏・有間氏と宇都宮中原氏(1)

2024-05-04 | 九里バラバラ情報
今回の「肥前国高来郡深江浦」の譲り状に関して関わっていそうな一族は、
小山氏を中心に、野本氏・有間氏・中原氏だったのではないだろうか?

稲毛氏の関東の所領であった稲毛庄と遠く離れた肥前国の高来郡深江浦と一体どのような理由があって、また、どのような縁で、交換となったのか…を調べてみた。

すると意外なことが分かってきたのだ。

古くは、稲毛庄に属していた【有間村】があったそうなのだ。
 



青い丸のポイントは【馬絹神社】周辺である。

下記の地図には【中原】も見える。



つまり、稲毛庄の中の有間郷(郷か保かわからないが…)があり、そこに有間氏が居たと想定できるのである。

中原もまた、稲毛庄内か、その隣である。
稲毛重成の娘が嫁いだ宇都宮頼綱の養母関係の中原であったのかもしれない。
つまり、寒河尼の実家である。頼綱の養父は小山政光で妻が寒河尼である。
(政光の後室とあるので、それ以前にも妻がいたと思われる。)

という事で、此の稲毛氏・宇都宮(中原・横田)氏・有間氏は稲毛庄を中心とした地域に共に住んでいた可能性が高いと思われる。

稲毛重成の息【小沢重政】の母が北条時政の娘であったことから、父子が亡くなった後に北条氏が土地(皇嘉門院領であった稲毛庄)を没収したと仮定してみる。

そこで、なぜ肥前国高来郡の荘園と交換となったのか。
そこに有間氏が関係していると思うのだ。有間経澄が長崎県南島原市北有馬町谷川名 に築城もしている。(日之江城串山郷高来郡東郷に含まれているという事だ。深江浦も東郷のようである。

その辺りに詳しい論文がある。
この5ページに北条義時の代に稲毛庄と高来郡東・西郷を交換したことが分かる。


【肥前国高来東郷・高来西郷と高来一揆】 外山幹夫 著

そして、六波羅御教書に「朝澄開発田」とあるそうなので、開発をすれば領主となり荘園をもらえる約束で、経澄・朝澄と肥前国に渡ったのではないだろうか?(大村直澄は藤津・彼杵 (そのぎ)・高来の三郡を賜ったとある。そのため、元から大村氏の土地であったともいえるのだが…)
経澄は日之江城を築城し、朝澄は高来郡の荘園を開発したのではないだろうか?
大村氏とつながっていることを考慮すれば、はじめは肥前国にいた大村氏となった直澄の一流が東国へ渡り御家人として武蔵国稲毛庄内の有間郷の地頭となる。

有間となった経澄・朝澄が故郷の肥前に戻り、高来郡の城主・開発領主となった…という事なのではないだろうか?

そこが分かれば、蓮忍入道が誰なのか?も判明しそうで、まさにそこが知りたい!!

さて、蓮忍入道は、宇都宮の中原なのか、大村氏・有間氏なのか。
はたまた、有間氏に嫁いだ中原娘がいたのか。
中原に婿入りした有間氏だったのか。

大村氏を調べてみたい。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Niseko 周辺 風景

2024-05-02 | 日記


              





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇都宮氏と秀郷流小山氏を繋ぐ【横田頼業】(2)野本基員とその二人の養子

2024-04-26 | 九里バラバラ情報
野本基員に注目してみたい。貞永元年(1232年)に93歳で歿している。
という事は、1140年生まれか。

基員は、二人の養子を迎えている。
笠原親景の息(親景の室は比企能員の娘である。親景は1203年に比企の変で歿している。その息となる。場所も比企に近かった野本)→野本時基(基時)

下河辺政義の息…(政義の室は河越重頼の娘である。)→ 野本時員


比企郡の野本(歴史的行政区域データセットのページより)


野本と下河辺荘のあった野田周辺

オレンジのぼかし〇が下河辺庄である。(千年村プロジェクトさんより)





其の河越重頼の妻は比企尼の次女である。その娘が下河辺政義に嫁いでいることになる。

つまり、野本氏が養子に迎えた二人は、比企氏の影響があったのかも知れない。

時員は、野本氏として活路を肥前国に求め、1221年迄 高来郡東郷・西郷(深江郷も?)の地頭職を務め、その後も務めたかったのだろうと思う。
行員の後は、越中氏の政員へと名前の一字「員」が受け継がれているようなのが不思議である。

宇都宮氏が越中氏と思っている私だが、野本氏と宇都宮氏はどのようにつながる可能性があるのか。
野本氏に入った下河辺氏(小山氏なので、秀郷流)ということなので、もともと秀郷流の中に宇都宮氏(中原氏)は入っている。

宇都宮氏=越中氏
宇都宮氏=横田氏=小山・下河辺氏=野本氏

(イコールの記号は関係あり…と読んで欲しい。)

…という事は、越中氏と野本氏は宇都宮氏経由で繋がるのである。

其の宇都宮氏とは宇都宮頼綱と横田頼業なのだと思う。


下河辺政義妻が(源義経による影響で)河越重頼の娘であったため、政義は下河辺庄を出される。その後に野本の養子となったのかもしれない。



下河辺氏=河越氏
宇都宮氏=稲毛氏…と云う事は、宇都宮氏=下河辺氏(野本氏含む)=河越氏=稲毛氏
…となり、この肥前国高来郡の周辺事情とつながってくる。

ここに、有間経澄・朝澄そして深江蓮忍・蓮仏が加わってくるのである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇都宮氏と秀郷流小山氏を繋ぐ【横田頼業】(1)その母稲毛重成の娘。そして、養祖母寒河尼。

2024-04-26 | 九里バラバラ情報
宇都宮(八田宗綱=中原宗綱)の娘である寒河尼は、小山政光の妻になり、宗綱の曾孫にあたる宇都宮頼綱を養子に迎え、頼綱は稲毛重成の娘と妻とする。
その息が宇都宮時綱と横田頼業である。ともに稲毛重成の娘を母とする。

宇都宮頼綱は1259年まで生きていた。
息の宇都宮時綱は1247年の宝治合戦で息の時村・泰親と自害している。
では、有間朝澄は…どうして同年同月同日の宝治元年6月5日に深江蓮忍に相伝することとなったのだろうか。

稲毛重成が1205年い歿しているのだが、その後に九条家から誰か地頭職を派遣されたと思うのだが、それが一代限りとくぎを打たれて派遣された有間朝澄であったのだろうか?

実は有間朝澄の父有間経澄は有間庄を持っていて、そこに日之江城を築城しているそうで、築城は建保時代というのである。(建保は1213年-1219年)
この間に経澄は肥前にいたことになる。
朝澄も共に渡っていた可能性を感じる。
稲毛重成の交換となった肥前高来郡東郷や深江郷をその地で差配する必要があるため、その役目がすぐ近くの有馬氏になったとしても不思議はない。



宝治合戦に、もしや朝澄もたまたま関東に戻っていて、参加していたのであろうか?
時綱と共に、戦っていたのではないだろうか?

宇都宮頼綱と宇都宮頼業(横田頼業)は、三浦氏に加担せずにいた。
勝敗が分かっていたのだろう。決着を見据え、着々と戦後処理をすすめ、地頭職が他人の手に渡らぬように用意していたのではないかと思われるのだ。

単なる偶然には思えない、同年同月同日の相伝なのである。


*****

後白河院時代、行員は、肥前高来郡東郷惣地頭職に、時員は、肥前高来西郷の惣地頭職に補任されている。(吾妻町史 )

行員と時員は兄弟という説もあるが、系図を見ると祖父と孫の関係である。

1244年に朝澄が地頭職となったという情報もあった。

つまり、後白河院の時代(1221年以前)は野本氏が居たのである。

そして九条家の所領となった後に、朝澄も蓮忍もその後の安富深江も地頭となっているのである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長い冬を抜け…桜咲く~~🌸

2024-04-25 | 日記
  
札幌、桜満開になりました!
 なぜか、梅はまだ咲き始めたばかり。 
  
                  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肥前国 高来郡にやってきた有間経澄(鎌倉時代・建保の頃) 父幸澄は源頼朝に仕える

2024-04-24 | 九里バラバラ情報
前回のブログ記事に続くが、
養母尼とは、どなたのことなのか?
有間朝澄の先祖は?
を調べていこうと思う。

まず、❶有間朝澄の先祖
❷朝澄の養母とは…の順にしたいと思う。

肥前国高来郡の串山郷、深江郷に関しては以下のことから始まったのである。

武蔵国稲毛庄の稲毛三郎重成の所領と肥前国高来郡の所領が交換となった。(1213年)

❶有間朝澄の先祖
大村氏と同祖のようである。
文治二年、の條を読んでみると↓


文治二年(1186年) 藤津彼杵庄地頭職、大村に居す‥‥幸澄のことか?

兄弟3人
兄経純:遠江権守、高木郡有馬に居す(経澄)
次男:丹後守忠証(澄)は大村に住す
三男:兵部少輔証憲は薩摩に住す


彼杵町(そのぎまち)は、長崎県東彼杵郡の中部にあった町




上記の経澄から朝澄が続くと思われる。
頼朝に仕えた幸澄
その息である遠江権守となっていた経澄を調べてみよう。


藤原北家に続く系図もある。

朝澄より前に、経澄が有間にやってきていたことがわかる。それが、伝承では建保の頃という。(1213-1219年)

稲毛庄と高来郡東荘が交換となった年にすぐに派遣されたかもしれない。
東国にいた人物となるのではないだろうか?

ちなみに稲毛重成は1205年に歿している。
寒河尼は1228年に歿しているので、1213年は存命である。
寒川尼は養子として宇都宮頼綱を迎え入れ、その息(稲毛重成娘との息)時綱や、その息(寒河尼の曾孫)の顔も見たに違いない。
時綱の同母弟の横田頼業もまた、宝治合戦後は時綱の子を養子としている。

そして、上記の大村氏には宇都宮通房に仕えていた者がいたという。

そして、宇都宮氏の中に深江氏がいることが分かった。(朝澄よりも後の時代ことであるが…。)

深江蓮忍は宇都宮氏と関係のある中原氏で、
中原蓮忍入道=九里太郎なのかもしれない。

大村氏は野本氏や越中氏とも関係があるのだろうか?
もしも本当に藤原北家とつながる系図ならば、秀郷流も北家の出である。

藤原秀郷流信夫佐藤氏族の林田氏からも大村氏が出ているそうである。

清和源氏満季流高屋氏族の林田氏、
満季流江戸幕臣の林田氏、
藤原秀郷流信夫佐藤氏族の林田氏
美作国(現: 岡山県)・四国・筑前国(現: 福岡県)・筑後国・肥前国・肥後国の林田氏、
肥前大村藩の林田氏の系譜を収録。


信夫佐藤氏の林田氏と大村の林田氏、此処が同じルーツであるとすると、あり得るかと思うが、この系図をどうしたら見ることができるのかわからない。

*****

今回の調べでは、

❶有間氏の先祖の経澄・幸澄がわかり大村氏と同祖であることが分かった。

❷朝澄の養母は、寒河尼が時綱の息が大きくなるまでの間一代だけという約束で、朝澄に地頭を任せたのではないか?と思っている。
もしくは、稲毛重成の娘が、同様のことを一代だけという形で提案したか。

その後、深江蓮忍に渡っているという事は、蓮忍は宇都宮時綱の息か、庶子であった可能性もある。
もしくは、寒河尼の夫である小山氏の関係から出てきたとも考えられる。

寒河尼のすぐ近くに、結城朝村(網戸)がいて、蓮忍と称するが
「康元元年(1256年)11月23日に北条時頼の出家に殉じて出家し、法名を蓮忍と号したが 」とあり、

宝治元年の深江蓮忍は1249年のことであるため、当てはまらない。

この深江郷の地頭を相伝した深江蓮忍は、宇都宮時綱が宝治合戦で自害してすぐの交代なので、やはり宇都宮氏にちかい者であろう。
もしも、九里太郎の蓮忍であるならば、宇都宮氏と秀郷流の中間に位置する人物である。

朝澄も養母とあるからには、この宇都宮氏の近くにいた縁戚関係のある人物であろうと思う。

この、宇都宮氏周辺と秀郷流の周辺(野本氏)、そして、その間に位置する下河辺氏が絡んだ地頭職の奪い合い‥‥と思われる。

そこに、宇都宮氏に片寄りかけた地頭職を、なるべく秀郷流の方へシフトするように朝澄のあとに蓮忍を投入し、その後、野本氏を続投させた、かのように見えるのである。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肥前国 串山郷 有間朝澄一期の後は越中政員が伝領すべしという本主養母尼の遺言あり。

2024-04-21 | 九里バラバラ情報
串山郷は有間朝澄一期の後は越中政員が伝領すべしという本主養母尼の遺言をたてに、政員は朝澄に押書を置かせよう …

これは、有間朝澄と越中政員が、縁戚関係であったという事ではないのだろうか?
養母という事なので、朝澄が養子、政員が実子か孫と思われる。

此の養母、初めは比企尼か、比企氏関係者かと思ったのだが、、、、
いろいろと調べているうちに、下河辺・小山氏の周辺なのではないか?と思い始めた。

野本時員は、実は下河辺政義の息子であった。が、野本基員の養子に入った人なのである。母は河越重頼の娘である。


上記のwikipediaによると以下のようにある。

野本氏は、藤原氏の末裔であり武蔵国の地名に由来するが、13世紀後半には武蔵国に関する記録からは忽然と消えてしまう。しかし、五味文彦は、『吾妻鏡』における前述の野本斎藤基員の子の元服記事(建久4年(1193年))に着目し、時の権力者北条氏以外の御家人で元服記事が『吾妻鏡』に採用されているのは、『吾妻鏡』の編纂された時期に、野本氏が鎌倉幕府の中枢にいた『吾妻鏡』の編纂者と特別な関係にあったことを推定している。



 

此の越中七郎左衛門政員もまた野本氏なのではないだろうか?と仮定し、
ではなぜ越中氏となったのか、を調べてみようと思う。

コトバンクによると以下のようになる。
高来東郷
たかくとうごう
  • 長崎県:南高来郡
  • 高来東郷
中世にみえる郷名。高来郡内のうち伊佐早庄を除いた地域、したがってほぼ島原半島を東西に分けた呼称であったと考えられる。史料上は郷内に神代こうじろ村(現国見町)、御墓野村、三会村(現島原市)、深江村(現深江町)・有馬庄(現北有馬町など)などがみえる。



承久三年(一二二一)八月三〇日の関東裁許下知状(保阪潤治氏所蔵文書)に「東郷」とみえ、平家没官領で京都仁和寺領の高来西郷が慈円の所領となったため不輸の地となり、その年貢を東郷地頭の野本行員が肩代りして納めることになったという。

寛元二年(一二四四)有馬を本拠とする有間朝澄は「高木東郷」地頭職について幕府に訴えたが、棄却されている(「吾妻鏡」同年六月二七日条)。

訴訟の相手はこの年以前に高来東郷の惣地頭職を給付されていた東国御家人の越中政員と考えられ、政員は同四年朝澄と串山くしやま郷(現南串山町など)をめぐって相論になり、朝澄一期の後は政員が伝領すべしという本主養母尼の遺言を盾に朝澄に押書を作成するよう訴えているが、寛元四年(一二四六)幕府はこれを棄却している(「吾妻鏡」同年三月一三日条)。


その野本氏の基員の息が斎藤野本頼員と「源頼朝」頼一字賜わって元服したという。建久4年(1193年) 


越中氏とは、もともとは稲毛庄関係の、宇都宮頼綱の妻となり時綱を産んだ稲毛重成の娘、その時綱の息を預かった時綱の同母弟の横田頼業から始まっているようなのである。
横田頼業は越中守でもあった。

このもともとは稲毛氏が預かっていた皇嘉門院領と交換となった肥前国高来郡である。

そして、此の本日のブログのはじめの「養母」は頼綱の養母であった寒河尼か、時綱の母か、なのではないだろうか?(次のブログで詳細を書きたい)

時綱の息:長高、時村、元朝、時親、泰親、景親 
時村と泰親が宝治合戦で父の時綱と共に歿している。

肥前国高来東郷・高来西郷と高来一揆 外山幹夫 著

上記の論文も、非常にためになった。
その後に登場してくる越中新左衛門尉長員の父が、越中七郎左衛門次郎政員ではないかという事である。

高来郡の惣地頭職…現地出身者ではなく 、 武蔵国御家人野本氏であり 、 北条氏一 門であり 、 さらに詳細な出身地は不明であるが 、 恐らく東国御家人とみられる越中氏である 。 …(略)とあり、
私もこれから調べてみようと思う次第である。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする