ちゃこ花房~本日も波瀾万丈~

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「あ うん」の呼吸はこうして生まれた  

2023年02月25日 | 学ぶ
私のFacebookのプロフィール画像は、金剛力士像です一番好きな仏像


下のコラムは、40代前半に書いたもの

「あ うん」の呼吸はこうして生まれた
 

東大寺 金剛力士像完成のとき
鎌倉時代の奈良の天才仏師、運慶

本日「そのとき歴史が動いた」という番組で、
鎌倉時代に活躍した奈良の天才仏師、運慶が、金剛力士像を手がけた話をやっていた。

実に興味深かったので、
記憶にある間にテレビの内容をまとめてみた。

平安時代 栄華を極めた貴族たちは仏像に来世を願い、仏師と呼ばれる仏像彫刻家が貴族の注文に応じて仏像を作っていた。

当時の仏師は高い僧侶の位を得て、100人近くの弟子を従える仏師もいたほど、活躍していた。

京都宇治市の平等院鳳凰堂には、平安時代の代表的な仏像が数多くある。
来世へ人を導くという阿弥陀如来坐像は、この世のなにものにも煩わされることのない、穏やかな顔をした仏像である。

京都の仏師が活躍していた平安時代、奈良はというと、仕事に恵まれていた京都とちがって、
奈良の仏師は仕事に恵まれなかった。
奈良に生まれた運慶は、
もともとお寺の雑務をこなす地位の高くない僧侶だった。

平安時代、源平の争乱が始まり、源頼朝が反旗を翻す。

戦火は奈良にもおよぶことになり、奈良の寺院が源氏の勢力と結びつくのを恐れた平清盛は、
奈良の寺院を焼き討ちしていく。

東大寺の焼き討ちでは、3000人近くの人々の命が奪われ、多くの寺院、仏像が灰となった。

天変地異ではなく人間の意志により寺や仏像が焼き討ちにあう様を眼にした人々の心は、
いよいよ末法が到来したという意識が深まる
(末法=仏の力が衰え、人々が災厄に襲われる時代)

運慶は、目の前で寺や仏像が壊されるのをみて
わが身を削られるような思いだったのではないだろうか。
運慶は奈良の復興を願い、法華経の写経をやる。(運慶願経)

そして、人々を救うための仏像を作ろうと決心したのだった。

新しい時代の到来で武士との出会いにより、
運慶たち奈良の仏師に仏像の注文の以来が多くなる。

平家滅亡後、源頼朝を中心とした東国武士が戦の勝利を仏像にたくすために、仏像の製作を依頼するのだ。

この世のものとも思えぬ、超越的な姿の京の仏像と打って変わって
当時の奈良の仏像は、
現実の世界を生きる人間たちの喜怒哀楽を彫ったものが多い。

代表的な毘沙門天像は、邪悪な鬼を打つとされた像で、胸板の厚いボリューム感のある力強い像である。





(東大寺大仏殿中門の毘沙門天像を支える女神像)

さて、鎌倉幕府成立後、
源頼朝は東大寺再建に本格的に乗り出す。
奈良の仏師に東大寺の仏像を作ることを依頼。
東大寺大仏殿に、大仏に匹敵する仏像を6対納めるという壮絶な仕事の棟梁の役割を果たしたのが天才仏師・運慶だった。










どうやったら、木を使ってあれだけの大きな仏像ができるのか。
巨大な仏像を作るために運慶が用いた技法の秘密は、寄木造りだった。

従来の一本造りのやりかたをやめ、多くの部品を組み合わせて一件の仏像にする技法である。
出来上がった部品を組み合わせていくので、材料の大きさに関係なく大きな仏像が造れるのだ。

運慶は、さらに手を加える。1人で彫るのではなく、一門の仏師たちで仕事を手分けする方法を取ったのだ。

更なる工夫は、運慶が仏像のひな形をつくり、それを弟子たちの作業の手本にさせた。

いわば立体的な設計図を頭領自ら用意したのだ。

東大寺の周りの6対の仏像は、その後火事のために残っていないが、  
民衆の魂を救うために仏像を大きく、凛立するように配置されていた。



地蔵菩薩座像

南大門の金剛力士像を手がけたのも運慶である。

金剛力士像を作るのに与えられた期間は2ヶ月弱。
運慶は、「速疾の造立 奇特というべし」と言われた仕事の速さで
60日弱で、金剛力蔵を完成させたのだ。

邪悪なものを寄せ付けない気迫に満ちた「あ形像とうん形像」

従来の説では、運慶・快慶の二人で作ったという説が有力だったが
意外な事実が解体された力士像の体内から現れた
12人の仏師の共同作業だったのだ。
運慶は多くの仏師をまとめ、2対の仏像製作の指揮をとったのだった。
   
さらに運慶は、これまでの仏像にはない人間的な魅力を表現するために 
一度出来上がった仏像に修整を加えていく。

肩は、何枚もの木材を張り重ねて筋肉を強調
うん形像のへそは、下へずらし体をたくましく見えるようにした。
目は、二体ともまぶたを付け加え、視線を力強くする。
胸は、乳首の位置を左右に広げ胸板を分厚く見せた。
  
69日で完成させた金剛力士像は、
高さ8.4メートル、
重さ6トンの巨大像である。

あ形のあは、いっさいの始まりをあらわし、
うん形のうんは、いっさいの終わりを意味する。

あ形像は、呼吸を吸い込む姿、
うん形像は息を吐き出す姿。

あ形像とうん形像
「ぴったり息の合う、察しあう」
あうんの呼吸という言葉は、ここから生まれたものである。

源平の争乱で多くの人が死に、寺院が焼け仏像が焼かれて灰になってしまったこの時代、
運慶が人々の魂を救うために作った仏像は、この世のものとはおもえぬ超越した、たおやかな顔の像ではなく、
限りなく人間化した力強い、人間臭い像だった。

人々の魂を救うために仏像を作った運慶の偉大さは、その天才的な職の技術にとどまらず、
一派たちを指揮し、合理的にしかも早く
そして正確な像を作ったその指導力と、これまでの手法にこだわらず、斬新なやり方を見出したことにもあるのだと思う。

極楽浄土の夢に溺れた貴族の世から、
現実を見据えて生きる武士の世へと時代が移り変わる中で、仏師・運慶が、「力強いリアルな人間像」を通じて、 時代の精神を描き出した運慶の偉大さを、改めて思うのだ

この運慶のはじめての大仕事は、宇宙の真理そのものとされる大日如来坐像の製作である。
大日如来座像
(運慶デビュー作

この像は、円城寺(奈良市)に納められている。
11ヶ月の歳月を費やした代表的な作品である。


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