中さん

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日記(7.31)

2024-07-31 11:29:04 | 日常
2024  7月31日  (水曜日)    ②  晴れ
赤い日本選手団ユニホームが表彰台の高いところに連日のっている。
新聞の一面も毎日赤が目立つ。
日本も強くなったものだ。

〇体操男子も金をとった。今は”I”難度の技に来ているとか
 私が体操競技をやっていた時代は”C”難度でウルトラC も特別な技
 サーカス等の技もすごいが・・競技では着地が重要だ。
★見入ってしまうひねり技・・トランポリンがなかったら生まれなかったであろう・・
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朝の野菜収穫。キュウリが30本以上。大きくなってしまったものも出てきた。
ミニトマトとが 肌の表面が割れし始めたが。完熟はうまい!その場でいただく・・
ナスも成り時期を迎えていてキュウリと同様沢山収穫。
洗ってクーラボックスに納めて一段落。一時間ほどかかった。
汗がひかないなあ~とにかく外は灼熱だ・・何も出来ず。
いつ痛めたのかわからないが右のアキレス腱が痛む。
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★この時期ゴミ集積場は月一度の集積でペットボトルがいっぱいだ。
子供のころは井戸水ばかり飲んでいたのが当たり前であった。
気温も30度超え程度で・・あったなあ~ 外でも十分遊べた。
ただサイダーやラムネがあって美味しかった。
ビンはその場でお店に返却・回収だった。
ペットボトルの日なんてなかったなあ~!
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そんなことで水をペットボトルで売るなんて
信じられない時代を過ごしてきた私は今だに抵抗感がある。
加えてコーラが登場して、その薬の様な味にびっくり。
今は様々な飲料水があって自動販売機も大活躍。
〇70年間の間に気候「温」も・身近な飲料水の変化と種類の多さにも驚く。
 そんな思いを朝の休息時間に巡らしている。
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毎日新聞   余録   
 「日本の馬はいつもたがいにケンカしようとしている。全くひねくれていて人になつかない」。
 トロイ遺跡の発見で知られるシュリーマンは幕末の来日時にこう記した。
 調教が不十分な馬にあきれたらしい
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▲明治政府は欧米に劣る馬の改良を始め、先進馬術を導入した。
 フランスで学び「日本騎兵の父」と呼ばれたのが秋山好古(あきやま・よしふる)。
 司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公、秋山兄弟の兄である
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ドイツに学んだ陸軍も騎兵術は仏流で馬術の教官も仏留学組が中心。
 欧米に追いつき追い越せの到達点が
 1932年ロサンゼルス五輪の馬術障害飛越で愛馬ウラヌスと共に金メダルを獲得した
 西竹一(にし・たけいち)中尉だった。
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▲それ以来のメダルである。
 ベルサイユ宮殿で開かれたパリ五輪総合馬術の団体競技で日本代表が英仏に次ぐ3位に入った。
 開会式に「メタルホース」も登場した馬術の本場での快挙に拍手を送りたい

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▲満州事変で米国の対日世論が悪化した92年前。爵位を持ち、
 ハリウッドのスターと交流のあった「バロン西」
 つかの間の「平和の使者」の役割を果たしながら硫黄島で戦死した。
 馬術が軍人専門のスポーツだった時代だ。
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今の馬術は男女の別なく参加できるジェンダーフリースポーツ。
 フランスも拠点を軍から国立乗馬学校に移した。
 表彰台に立った4人は6年間同じチームで欧米のトップ選手たちと競い合ってきた。
 「人馬一体」の競技。

 〇グラフトンストリート、
 〇ジェファーソン、
 〇ヴィンシー、
 〇セカティンカ。
 愛馬の名も記録しておきたい。
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 馬と言えば個人的には軍馬などを連想する・・古い人間だからかな!
 なじみがない馬だが・・昔、本家では農耕馬がいて、怖かった。
  競走馬は遠くからの眺めだがきれいだなあ・・
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 ★大分前になるが・・・法華津選手が有名であった。
  しばらくはオリンピックの報道に目を奪われそうだ。
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日記(7.31)

2024-07-31 08:59:54 | 日常
2024   7月31日   (水曜日)     晴れ

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下野新聞のコラムに ”見えない根と題して

 書家で詩人の相田(あいだ)みつをは1991年、67歳で亡くなるまで、足利で暮らした。
 生きていればことしで100歳。
 故郷の足利市美術館で9月1日まで「相田みつを展」が開かれている
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初の作品集「にんげんだもの」が出版されたのは60歳。


 それまで、ほぼ無名の存在だった。
 作品が売れなければ収入もないような、
 長く厳しい生活を支えたのは、周りの人々だった。
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▼戦後間もなく開業した近所の旅館「なか川」の初代女将
 中川光子(なかがわみつこ)はその1人だった。
 62年1月、光子の葬儀で相田が読んだ弔辞を、会場で読んだ。

▼相田は光子を「おばあちゃん」と呼び慕っていた。
 まだ誰にも相手にされていなかった相田の作品を買い取り、
 旅館の看板やのれんのデザインを依頼し、米を分けることもあった


▼周囲に対し「いつも誠実で、温かく、非常に謙虚な態度で接していた」という光子を、
 相田は「ほんとうにえらい人」と、たたえている。
 「公的な肩書等は、一つもありませんが、人間的に非常に立派な人だった」

▼ふと、ある作品に目が止まった。
 〈花を支える枝 枝を支える幹 幹を支える根 根は見えねんだなあ〉

 光子のような存在を指すのだろう。
 つらい時、苦しい時、悲しい時、そっと寄り添う相田の言葉は、
 足利の人々との関わりから生まれた。
 見えない「根」の尊さを思う。
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★私も40歳前半で大病をして、この本をお見舞いでいただき
 今も座右に置いてある。
 病院でこの本を何度も読み返して・・涙し 子供がまだ小さかったので苦悩した。
 半身が微妙な触を感じ取れなかった時期でもあった。
本当に辛い時期。一筋の光明が見えた本。
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あれから随分時が経過した。回復度合いは7割ですよ!と言われて
それなりの生活に変えたが・・時折無理をしてしまう。・・・・アホな頭だ!
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