中さん

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日記(7.11)

2024-07-11 16:58:52 | 日常
2024   7月11日   (木曜日)     曇り⇒雨
雨が降る前に家庭菜園で収穫。
今日はパプリカとピーマンが沢山獲れる。
次のキュウリの苗も大分育ってきたのでクネ縛りを20本分
急ぎ行った。
天気はぐずついて何もやることがないので
昔の写真を整理したりで単調な日である。
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群馬の上毛新聞   三山春秋  森鴎外のことが・・

 ▼森鴎外にはいくつもの顔があった。

  〇小説家であり翻訳家であり、
   そもそもは陸軍の軍医である。
   日露戦争では戦地へ赴き、
   従軍記者だった田山花袋と親交を深めた

”上毛かるた”のほの札にも。”タヤマ‣カタイ”
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 ▼もう一つ、草花を好み、園芸を楽しむ一面もあったという。
  自身の作品に登場する植物は400種類以上。
  花袋も訪れた東京・千駄木の自邸「観潮(かんちょう)楼(ろう)」
  庭に和洋さまざま植えて開花の状況を書き記した。

  それらを追うと、今でいうガーデニングにいそしんでいた様子が分かる..

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 ▼『花暦』と題した原稿は明治30年ごろの記録である。
  7月は「一日 百日草 ガク(アジサイ)」に始まり、
     「十二日 孔雀草 月見草」といった具合。
  草花に囲まれた暮らしに心を癒やされ、
  それらへの関心が創作の契機にもなっていたかもしれない
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 ▼明治大正と現代では夏の気温も異なるだろうが、共通のものを見つけると面白い。
  7月15日の「トラノヲ」は虎の尻尾のように見えることから
  名付けられたオカトラノオのこと。
  先日の本紙に、赤城自然園(渋川市)で風に揺れるさまが載っていた。

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 ▼北毛からは早咲きのラベンダーの写真も届いた。
  うだるような暑さの中で一服の清涼感を味わった。
  鷗外ならずとも、生き生きと健やかな姿に魅せられる
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 ▼そういえば、と思い出して数年前に庭に植えたムラサキシキブを確かめたら、
  かれんな花が開いていた。

  淡い色は目に涼やか。夏の庭もいいものである。
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でも最近は暑いなあ~!
鴎外の過ごした時期の気候を考えると今よりも随分すごしやすかったかな・・
私も旅好きで、中国地方を旅行した時、津和野川を挟んで鴎外が過ごした生家を
訪れたことが印象に強く残っている。丁度つわぶきの花の時期で周囲が黄色い花で覆われていた。

津和野は”つわぶきの野”がなまってこの名になったとか!
又訪れたい場所だ!
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メモ:鴎外のこと
1 藩医の家に生まれ、父から蘭学を学ぶ
 本名は森林太郎。1862年(文久2年)に、石見国津和野(現在の島根県津和野町)で、
 津和野藩医の長男として生まれました。家は代々、津和野藩の藩医を務めており、
 幼少時代から医学を身近に感じて育ちました。
 5~6歳になると、津和野の村田美実から論語の素読を、
 米原綱善から孟子を学びました。その後、藩校「養老館」に入り、
 四書五経などを学び、室良悦(蘭医)からはオランダ語を、
 父からは蘭学を学び、少年時代は秀才と称されました。

2 12歳で東京医学校予科に入学
 明治維新後、1871年(明治4年)になって津和野藩が廃藩されると「養老館」も廃止され、
 それを機に父とともに東京に移り住みました。
 医学校への入学に備え、親類の西周邸に寄宿して私塾「進文学社」に入り、
 ドイツ人教師からドイツ語を学びました。
 12歳のときには東京医学校予科に入学(東京医学校の入学年齢は14歳であったので、
 年齢を2歳偽ったとみられる)。16歳で医学部本科生となりました。
 森鴎外は統計について専門的に学んだことはありませんでしたが、
 この医学部時代に、医学統計に触れていたと考えられています。


3 軍医となって外国の衛生制度を研究
 1881年(明治14年)に東京大学医学部を卒業すると、
 父が開業していた橘井堂医院を手伝っていましたが、
 その後、陸軍軍医となって東京陸軍病院に勤めました。
 軍医となって半年後、陸軍軍医本部付となり、プロシア陸軍の衛生制度に関する調査研究に従事。
 その調査研究の成果をまとめた「医政全書稿本」(全12巻)が高く評価され、
 ドイツで陸軍衛生制度の調査と衛生学の研究をするよう命じられ、
 22歳でドイツへ留学しました。

4 ドイツ留学で統計の知識を深める
 ドイツでの留学生活は約4年間に及び、ライプツィッヒ大学ではホフマン教授に学び、
 ドレスデンでは軍医学講習会などで軍医のウィルヘルムロードやヴィルケなどと親交を持ちました。
 ミュンヘン大学ではペッテンコーファー教授に学び、原田直次郎、近衛篤麿などを知り、
 ベルリン大学では北里柴三郎とともにコッホ教授に細菌学を学び、
 コッホの衛生試験所に入りました。
 なお、このドイツへの留学中に、森鴎外は医学統計を主とした統計の知識を深めたと思われます。

5 軍医学舎教官のかたわら「医事新論」を発刊
 1888年(明治21年)に帰国すると、陸軍軍医学舎の教官となり、
 翌年には「東京医事新誌」を主宰し、さらにその次の年には「医事新論」を発刊しました。
 またこの間に、いわゆる「統計訳字」論争を行いました。
 統計の本質にかかわる論議を専門家と対等に戦わせたことで、
 当時、27歳であった森鴎外が、統計に対して高いレベルで認識していたことがうかがわれます。

6 医者の目で捉えた統計との向き合い方
 政治に関与することはなかったが、医学の面から統計を見た鴎外の認識は、
 多くの識者に影響を与えました。実験的な研究も統計的な研究も不可欠で、
 どちらか一方だけでは不十分だとしながらも、

 統計には事実を的確に捉える効果があるとも述べています。

7 軍医として戦地に赴きながら執筆も活発に
 その後、軍医学校の校長、陸軍軍医監、近衛師団軍医部長など、軍医の業務に携わり、
 また、日清戦争で戦地にも出向きました。
 そのかたわら、活発な執筆活動も続けており、
 中浜東一郎、青山胤通らと「公衆医事会」を設立し、「公衆医事」を創刊。
 そうした執筆活動も一つの要因となって、1899年(明治32年)には
 師団軍医として小倉に赴任しました。1902年(明治35年)には小倉から東京に戻りましたが、
 翌々年には日露戦争が起こり、再び軍医として日本を離れました。
 1906年(明治39年)に帰国。
 翌年の1907年(明治40年)には陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に任命されました。

8 晩年は軍や医療から離れて文化に身を捧げる
 1910年(明治43年)には慶応義塾大学の文学科顧問となり、
 「三田文学」の編集に携わりました。
 また、1916年(大正5年)に陸軍省を退職してからは
 帝室博物館の総長、帝国美術院の初代院長など、
 軍や医療とは異なる文化の職を歴任しました。
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★現役のころ”統計学を学ばねばと思って半年ほど東京に勉強に通った。
 それが後々随分役に立って工程の管理でデータ収集後のスタッティク解析に便利をした。
 製造もやりながら工程管理もやって・・思い知ったことは
〇製造は ”コツより作業標準”
〇管理は ”感よりデータ”
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〇コンピュータの導入も素早く入れて、より大量のデータで分析が
 実態と分析データの一致は必須であったなあ~!
それが自分の今までの生活に反映されていないのは
新しい要素「要因」が次から次に増えるからであろうか?
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新聞やニュースで報道されるデータの裏側が気になる。
どれだけのデータ量を分析の使ったのか!どの様にデータを集めたのか?
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