戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

私の両親  22/02/15

2010-02-11 14:09:50 | Weblog
古い写真の中に自分で作った様な小さな看板を見付けた。
父にとって幸いだったのはラジオが新しいものだった事だ。
両親(祖父と祖母)は相場の仕事の合間に小間物を売っていたようだが再びの相場による大儲けはなく、息子の手作りのラヂオの方が売れたらしい。
お客様はお金持ちばかりだったと聞いている。
何故なら、ラジオなんて誰も知らない時代だったから、ランプが油から電気に変って信じられなかったように、小さな木箱の中から人の声や音楽が聞こえて来るのだから、それに他にも同業の人もいたと思うが、東京の方が相当いろんな面で進んでいたし、東京仕込みの父はさすがになんでも早かったらしい。今のように道路は良くなかった。今思えば相当の遠距離だが、バスが頻繁に通る事もなく、バスすら通っていない所へも行った。父にとっては終点が問題ではなく、その間に点在するお金持ちの家が標的だった。喜連川〔きつれがわ〕、蒲須坂〔かますざか〕今市など自転車で商売に行った時もあると聞いている。だから父は地方の豪農は殆ど知っていて付き合いがあった。
NHKが八十周年の時、うちの店も大正14年の創業で八十年の記念を考えていて思いついた。
父はこれからはラジオの時代だ、とはっきりとその時に旗揚げをしたのだ。
破産した家の1人息子は相当に苦労して中学時代から商売をしていた。中学の先生も、同級生にも良くしてもらい、助けられたと聞いている。
母の家もお客様の1人だった。しかも、すぐ近く、歩いて3分もかからない目と鼻の先だった。若いハイカラな東京の青年と、地方の女学校を出たばかりの世間知らずのお嬢さんが恋に落ちるのに時間はかからなかった。一夜こじきと言われた家の息子と、大病院のお嬢さんでは反対されないわけが無く大変な話題だったそうだ。
そこは空襲で跡形も無く焼け落ち終戦後、おばあちゃんと母の一番下の妹の住む家が建てられたが、その妹もじき東京に嫁ぎ、跡継ぎの兄も東京に行った為、両家で残る子孫は私達だけとなった。母のきょうだいはみな宇都宮で生まれているだが、奇しくも両家とも生粋の栃木県人ではない。だから、県内に親戚など無く、戦争中、田舎に親戚のある人が羨ましかった。戦争中、田舎に親戚のある人は食料が手に入易かった。まあ、それだけでもないが・・・・

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