こうのとりちゃんを待つ日々・・・ななの不妊治療NOTE

39歳、結婚9年目。子宮内膜ポリープ切除2回、稽留流産を経て体外受精3回目で妊娠継続中です。双子であることが判明!

母の来訪

2009-04-30 | 稽留流産
手術から2日後の日曜日、私の母が我が家にやってきた。


たくさんの荷物を持って・・・。


私に食べさせたい野菜や、自分の家で作ってきたお惣菜やらいろんなものを持って。


流産ということがわかってから毎日、ダンナちゃんと母は電話でやりとりしていた。


私は誰とも話をしたくないということで、まったく電話には出なかった。


母は1日も早く来たかったようだがそれも手術が終わるまでは誰にも会いたくないと断っていた。


月曜日からはダンナちゃんには会社に行ってもらわないと・・・という母の配慮もあった。


ダンナちゃんがいなくなったら1人で家で過ごさせるのは、と心配だったらしい。


食事の支度や掃除くらいならできるからと、3日間泊まる準備をしてやってきた。


実家の犬の世話も急遽、近所の方にお願いし。






正直なところ私は複雑だった。



気遣ってくれる気持ちはもちろん嬉しい。


でも、母だってすごく楽しみにしていたのにこんなことになり、出産後の娘の世話ならともかく、流産後の娘の世話に来るなんて。


切ないよ・・・。


それにダンナちゃんには私も多少の気は遣えるものの、自分の母となるとどうしたってわがままが出るし、言わなくてもいいことを言い合う羽目になるのでは・・・という危惧もあった。


そしてその予感は見事に的中した。




母が来て3日目、火曜日の夕方だった。明日帰るという日だ。


その日の朝、実は私の中では事件は始まっていた。


南の島の義母がお見舞いに送ってきてくれたユリの花を、部屋のあちこちに母が飾ってくれていた時のこと。


玄関の下駄箱の上に花瓶を置きながら母が言った。


「この電報が入っていたミッキーマウスのぬいぐるみ、ここに置くのは気に入らないのよねぇ(以前からうちに来ると何度も言っている)子どもでもいればまだしも・・・」


地雷を踏んだ。


今、子どもでもいれば・・・って言ったよね。この人。


何しにここに来てるの?娘が不妊治療の挙句、流産したから来てるんじゃないの?それで今「子どもでもいれば・・・」って言ったよね。もう信じられない。だからやっぱり経験のない人にはわからないんだ。私がここまでどんな気持ちで過ごしてきたのか。この家を買ったとき、子どもだってすぐにできると思ったよ。だから2人には広すぎる間取りだよ。車だって7人乗りを買ったよ。でも全然できなかった。家具だってなんだって、いつ子どもができたっていいようにって全部考えて揃えてた。そういうことがよくなかったのかなって思った時もあった。私がこんな思いでいるのに・・・。


という思いが頭の中を駆け巡り、涙が溢れた。


でもリビングのソファに座ったまま前を見て「お母さんのうちじゃないんだから関係ないでしょ!」という一言しか発せなかった。


玄関にいる母はまったく私の変化に気づいていない。


そして母は、買い物などに出かけお昼頃帰ってきた。


母がいない間にどうにか自分の気持ちをおさえようとした。


母だって悪気があって言っているわけじゃない。だから自分が言った言葉にも気付かないんだし。でも、あまりにも無神経すぎる・・・。


結局すっきりしないまま母が帰ってきてお昼を不機嫌なまま食べた。


その後もなんとか自分の気持ちを納めよう、忘れようとし、録画してあった映画を母と一緒に観たりした。


もう、明日帰るんだし、ここで私が黙っていれば・・・と思っていたのだが・・・
やはりダメだった。


急に悲しくなり、私が泣きだした。


「お母さんは無神経だよ。私の気持ちなんかなんにもわかってない。経験してないからわからなくて当たり前かもしれないけど、でもいつも私を傷つけるようなことを言う。J子さん(母の友人でずっと不妊治療をしていたが結局授からなかった人)だってきっとお母さんの何気ない一言に今までたくさん傷ついてきたと思うよ。私は彼女にだって申し訳ないと思うよ。」


と一気に言った。


母はしばらく黙っていたが


「お母さんは経験したことがないからって言われればそれまでだけど、でもななの気持ちはわかろうとしてるつもりよ。前もななにこういうことは言わないでって言われたからそれからは気をつけてたけど、でも言ってもらわなきゃわからないの。
いつもって全否定されちゃうととってもつらいんだけど」


「全否定してるつもりはないよ。でも・・・さっきの今朝のことだって気づいてないと思うけど・・・・・・って私に言ったじゃない!」



「・・・・・ごめん・・・そう言ったね、お母さん。本当に馬鹿だね。そういう意味じゃなかったけど・・・こんなの子どもっぽいっていう意味で言ったつもりだったけど・・・悪かったね。ダメな母親だね。昔から失言が多くてね、友達にも思ったことをなんにも考えずに言ってしまって、あとからしまったって思うけどもう遅くて・・・。お母さんはね、本当に欠陥だらけの人間なの。こんなんじゃ来なきゃよかったね。ごめんね」


もう、2人とも涙、涙で・・・。


私は母に自分のつらい気持ちをわかってほしかったけど、これは母に甘えたい、自分のことをもっとわかってほしいという気持ちだったと思う。


母を責めたいなんて気持ちはなかったし、来なけりゃよかったのにって思った瞬間もあったけど、1人でいるよりもちろんずっとよかったし、ご飯もたくさんつくってもらってありがたかったし。


子どもっていくつになっても母親の前では子どもで・・・自分を1番わかってる人であって欲しいと母親に望み、愛されたいと思ってる。


こんな年でそんなことってどうかと思うけど、私はまだ子どもから抜け出せないらしい。


でも情けない。60歳過ぎた母にこんな辛い思いをさせてしまうなんて。


早くおばあちゃんにしてあげたいのに、そんな当たり前のことができないでいる娘なのに母の口から「ダメな母親でごめんね」なんて言わせてしまうなんて。


私の方が娘失格なのにね。






なんでこんなことになっちゃうんだろ。


本当に辛いし情けない。切なくて悲しい悔しい。


普通は親が「もう孫の世話は勘弁して」っていうくらい、どんどん孫も増えて家族が増えて娘の幸せを見届けて親が先に旅立っていくんだろうに・・・。


不妊という10人に1人だかの確率の低い方に入り、さらに8人に1人だとかいう流産を経験し・・・どうしてこう少ない方に選ばれてしまうのか。






母とこんな話をしているうちに腹痛がひどくなった。


手術後5日間毎食後に薬を3種類飲んでいたのだが、その内の1つが子宮収縮剤で、飲むとお腹が痛かった。でもその時は食前だったのでまだ服用していないにも関わらず下腹部がかなり痛くなった。出血もどっと増えた。


きっと私が親不幸なことを言ったからだと思った。







そして翌水曜日の朝、祝日でダンナちゃんもお休みなのでみんなでゆっくり起きた。


でも私は昨夜からの腹痛が続いており具合が悪かったのでダンナちゃんと母が起きていることは知っていたがベッドにしばらく1人で横になっていた。


後でダンナちゃんに聞いたのだが、この時間に母は昨日のことをダンナちゃんに話したらしい。泣きながら・・・。


ダンナちゃんもそんな母を見るのは初めてだったから当惑しながら聴いていたようだが、母が


「私はこういう欠陥だらけの人間で、だめな母親なのよ」と言った時に


「お母さんはたとえそういう欠点があったとしても、それを上回るだけの素晴らしいものをお持ちですよ」と言ってくれたらしい。


あとで母と電話で話をした時にそのことを聞いた。母はそれがとても嬉しかったようだ。


ダンナちゃんのフォローに感謝する。







手術当日

2009-04-25 | 稽留流産
9週1日目に当たる金曜日、午前10時半ごろクリニックにダンナちゃんの車で行った。


いつもどおり混んでいたので待たされることは覚悟していたが、数分で呼ばれ内診室へ。


先生はあっという間に内診を済ませた。


私はもっと時間をかけてもう一度心拍を確認してほしかったのだが、言い出せなかった。


「まだ子宮内膜に出血はないようなので、大丈夫だと思うけど・・・土・日を挟むからね・・・今日手術しますか?」


「お願いします」


「じゃあ今から準備します。今日はもう1人予約が入ってるし、朝ごはん食べてきちゃったんですよね?じゃあ手術は14時過ぎですね。帰れるのも遅くなるけど今日の予定は大丈夫ですか?」


「はい」


そこですぐに子宮口を広げる薬を入れられて少しそのままにした後、病室へ移動。



あっという間に手術することになってしまった。



待合室にいるダンナちゃんには個室のベッドに横になってからメールをし、看護師さんにも手術のことや帰れる時間などを説明に行ってもらい、また後で迎えに来てもらうことにした。



ここから14時まではほっとしたことで、赤ちゃんと別れる悲しみよりもここでちゃんと手術ができるという安心感の方が強く眠ることができた。



看護師さんが何度か来てくれた時にさっき聞けなかったことを聞いた。


「先生、さっきの内診のときもう一度心拍は確認してくださったんですよね?なんだかあっという間で・・・ちょっと心配になったものですから」


「大丈夫ですよ。先生は確認してらっしゃいますよ」



「そうですか。わかりました」



今更だったし、子宮口を広げる処置をしてしまってから聞いたところでどうにもならないだろうし、その看護師さんはさっきの内診にはいなかった人。


でも自分の気持ちのために聞いた。やっぱりだめだったんだと、可能性はなかったんだと言い聞かせた。




14時になり手術の準備が始まった。


まず局部麻酔の点滴。入らなくて一度やり直しになり痛かった。


次に肩に筋肉注射。これも麻酔だという。痛かった。


14時半よりは前だったか、手術室に向かった。


手順は前回の子宮内膜ポリープ切除とほぼ同じだったようだが、痛みは全く違った。


痛い消毒のあと、局部に今度は直接麻酔の注射。これも痛い。


手術自体、自分でも驚くほど痛かった。麻酔を3つもしているにもかかわらず。


途中で呼吸が苦しくなり、吐き気を催した。


「大丈夫ですか?」と数回先生や看護師さんから声をかけられたが、大丈夫とは答えられない感じで「苦しいです」とか「気持ちが悪い」というのが精いっぱいだった。


もっと悲しい気持ちになるかと思っていたが、それどころではなかった。


とにかく早く終わらせて!というのがその瞬間の気持ちだった。


自分がどうにかなりそうで怖かった。








やっと終わった。


きっと20~30分くらいの時間だったと思うがこれ以上続いたら本当に耐えきれなかっただろうと思う。


手術台から起き上がれますか?と看護師さんが聞いてきたがとても無理。


足は震えが止まらず、今にも吐きそう。痛みもひどい。


「車いす持ってきて!」という声が聞こえたが「ストレッチャーにして!」と私の様子で変わったらしい。


ストレッチャーに移るのも一苦労。


寝たまま病室に戻ったがこの数メートルの距離の移動でも吐き気が増幅する。


自分のベッドに横たわったが、足の震え?痙攣?が止まらずお腹もすごく痛い。


吐きたくなったらこれに、と器を顔のそばに置かれ、点滴を子宮収縮剤に変えられた。


呼吸は浅いままで肩で息をしてしまう。どんどん早くなってしまう。


看護師さんが1人しばらくついてくれて肩をさすりながら「ゆっくり呼吸しましょう」といってくれるのだがお腹の痛みと吐き気でどうにもならない。


麻酔の影響で口の中がカラカラでしゃべることも辛いのだがなんとか声を絞り出して聞いた。


「このお腹の痛みはいつまで続くのですか?」


「今、子宮収縮剤を点滴しているのでこれが終わるまで20分くらいは・・・」


「すごく気持ちが悪いのは?」


「子宮をいじるとどうしても吐き気は伴ってしまうものなんですね。だんだんおさまってくるとは思いますが」


「足はどうしてこんなに震えてるんですか?」


「たぶん、痛みに耐えたので筋肉が緊張してしまったからだと思います」


とてもゆっくり小さい声で丁寧に優しく答えてくれた。


苦しい中でも、少し気持ちを落ち着けることができるようになってきた。


そばにいてくれるだけでもありがたかった。


看護師さんにダンナちゃんに「終わった」という電話をしてくれるようにお願いし(自分で「終わったらメールするね」なんて言ってたができるような状態ではなかったので)そこから1人で痛みに耐えた。


あまりの辛さに何かを考えていないとおかしくなりそうで、ディズニーシーを思い浮かべようとした。


今度遊びに行ったら、どのアトラクションに行こうか必死で考えた。


マーメイドラグーンは絶対に行こう!あのショーは素晴らしかった・・・などと意識を一生懸命別のものにむけようとして頑張った。


私は自分では痛みに弱い方ではないと自負していた。


今までも子宮内膜ポリープの手術を2回受けたり、採卵も麻酔なしで大丈夫だし、この手術に関してもそんなに心配していなかった。


でも、想像を超えたこの痛みには「こんなことは二度としたくない。こんな思いをするかもしれないならもう妊娠もしたくない。出産なんて到底無理だ・・・」などと思ってしまった。


初めての流産でこんな思いをしている私・・・。


何回もの流産を乗り越えている人だっているのに・・・ダメな私。


流産をした人の気持ちは全然わかっていなかった。


心の痛みを想像することはあったけれど、身体の痛みもこんなに伴うなんて・・・。


神様による試練だとするならば、あまりにも辛い試練だ。


心と体の両方がダメージを受けるというのは1+1=2ではない。


2以上、合わさったことでもっとひどくなるものなのだ。






でも、手術直後の私にはそこまではわかっていなかった。


とにかく痛みから解放されたい一心で、その後の気持ちの落ち込みまではこのときは想像できなかった。


17時ごろダンナちゃんが迎えにきて、先生のお話を一緒に聞き、薬を5日分処方され、1週間後に術後の診察に来るように言われ家に帰った。















流産宣告後

2009-04-24 | 稽留流産
稽留流産の診断を受けた翌日からダンナちゃんが会社を休んで、一緒にいてくれることになりました。


私はそんなに大ごとだと思っていなかったので、ダンナちゃんと私の母が電話で話していて「そうなんです。ぼくもななを1人にはしておけないと思って・・・はい、手術まで僕が会社を休みますから大丈夫です」という言葉を聞いて驚いた。


私・・・今の私は1人にはしておけない大変な状態なんだ・・・と、泣きながら妙に客観的に自分のことを思った。


母からのメールにも「すぐにでも行こうか?」とあったが「今は会っても何も話せないし」と断った。


流産の宣告があったのが火曜日で、手術が次の月曜日、ということでずいぶん時間がある。


私は看護師さんの「もし手術までに出血が始まったらすぐに連絡をしてください。ただしここの診療時間内だけです。万が一夜中とかそういうときは救急でどこかの病院で緊急手術をしてもらってください」という言葉がものすごく引っかかっていた。


私が住む横浜市は産婦人科が少なく(住民の数に対して)心配なのはよくわかっている。


もし、夜中に出血したときはどうしたらいいんだろう?


できれば救急車は避けたいがタクシーなどで勝手に行っても「かかりつけ医ではないから」という理由で断られたりしないのだろうか?


そこでダンナちゃんにすぐに電話で調べてもらった。


やはり・・・


結果は「大きい病院でもたまたまその日の宿直が産婦人科医でなければ診られません。救急車を呼ぶ方がいいです」というような答えだったそうです。


でも、救急車でも、かかりつけ医がない場合タライ回しにされた挙句・・・というのは最近よく聞くニュース。


かかりつけ医が不妊専門のクリニックの人は一体どうしたらいいというのだろう?







ここから私の気持ちは「悲しい」「悔しい」に加え「怖い」「不安」もふくらみどうしようもなく不安定になった。


もし、たとえどこかの病院に受け入れてもらえたとしても、変な病院で変な処置をされて二度と妊娠できなくなったら・・・などと良くない想像ばかりしてしまう。






翌水曜日、木曜日は半分泣きながら半分寝る・・・ような生活を送った。


木曜日のお昼ぐらいから生理痛に似た下腹部痛が始まった。


これはもしや出血が始まろうとしているのではと思った。


不安がどんどん大きくなる。


ダンナちゃんも私と一緒に不安になっている。


眠れぬ夜を過ごした。


翌金曜日の朝、やはり腹痛がおさまらないのでクリニックに電話をし、先生に確認すると「まだ大丈夫だとは思うけど・・・心配なら今から来てください」ということだった。


少しほっとする気持ちと、予定よりも早くお腹の赤ちゃんとさよならしなければならなくなった切なさと・・・複雑だった。






突然の別れ

2009-04-21 | 稽留流産
8週5日の検診の日。



いつもどおりに内診台に乗ると先生の「ん?!」という声。



その後「ちょっと小さいですね」と一言。



「これが心臓ですよ」と言われるのを待っていたが、その言葉はなかった。



まさかという思いがよぎる。







その後十数分、何も手につかずひたすら呼ばれるのを待ち、やっと診察室へ。



先生は「赤ちゃんの成長が止まっています。心拍は確認できませんでした。稽留流産です」と。



涙がぽろぽろと流れ落ちた。



いつも余計なことは一切言わない先生が見かねて「残念ですが・・・」と付け加えた。



「手術をしなければならないので、この後看護師さんと話して日程を決めてください」




以上・・・だった。




放心状態のまま、看護師さんに呼ばれ別室で日程の話。



「いつがいいですか?」と聞かれても何も考えられず「いつでも結構です」と答える。



「そうしたら来週月曜日にしましょう」と6日後を指定された。




手術の説明をされた後会計し、クリニックを出た。




とにかく、ダンナちゃんに知らせなきゃ。




あと母や義母にも・・・。




どこかに座り込みたい気分だったがそうしたら二度と立って帰れなくなるのでは、という思いで必死に歩き電車に乗った。



涙はどんどんあふれてくるが、車内ではメールを打つことに意識を集中させる。



どうにか家にたどりつき、ベッドに横になり、ダンナちゃんが帰ってくるまで泣きながら過ごした。















7週4日  母からの小包

2009-04-13 | 陽性反応後

今日は私の誕生日。38歳になりました。


そして明日はダンナちゃんの誕生日で39歳になります。


私の母からは毎年バースデーカードとお祝が同封されていて「2人でおいしいものでも食べてください」というのが定番でした。


今年は、数日前に小包が来ました。


そこには私が電話で「つわりが始まって口の中がすっきりしないので、小さい頃に食べていた梅のタブレットが食べたい」と言ったので探したけど見つからなかったから類似品を送ります・・・と10種類以上のグミや干し梅、ねり梅が・・・。


そして一緒に入っていたカードのメッセージがこれです。




「○○&なな様、ハッピーバースデー!


今年は素晴らしいバースデープレゼントを授かりましたね。


私も本当はスゴーク嬉しくて心の中はニコニコしていますが


ななからまだまだと言われて押さえていました。


万一のときはがっかりさせるから等と親孝行で言っているのでしょうが


親は喜びも悲しみも分かち合うものだと思っています。


この先何があっても大丈夫。なんでも相談してください。


38年前にななを授かった時を思い出します。お義母さまもお義父さまも○○くんができたとき、どんなに嬉しかったことでしょう。


そう、2人とも親にとって初めてだったのですから・・・。


「子を持って知る親の心」とはよく言ったものです。


育てた恩を押し付けるのではなく、親があなたたちを得てどんなに嬉しかったかを


今、感じとってくれるのではないでしょうか。


改めて2人で祝杯を・・・と同封させてもらいました。


ジュニアができたらあなたたちの誕生日は忘れるかも知れません・・・」





読んでいる途中から涙が出てきて困りました。


周りが喜んでくれるほど、なんとか無事に出産までたどりつきたいという思いが強くなりますね。


でもこればっかりは長かった不妊治療と同じで、自分の思いだけではどうにもならないこと。


毎日、ここまでこられたことの感謝とこのまま無事に育ってくれることを祈ってやみません。






6週5日  心拍確認

2009-04-07 | 陽性反応後
うららかな春の日ざしの中、10日ぶりくらいにクリニックに行ってきました


今日は心拍確認の日でした。


エコーの画面を見ながら先生が「これね、これわかります?ここが心臓」


とあっさりおっしゃるけど、私には「ん?!」と言う感じ。


黒い袋は横長に大きくなっていてその中にパールの指輪のようなものがありました


そのパールみたいなのが心臓のようです。


私のイメージではピコピコ点滅しているのが見えて・・・と想像していたので「あれ?」と思って終わりでした。


今日は6週5日ですが、ちょっと成長はゆっくりめのようです。


なので先生は次の診察は2週間後にしましょうとおっしゃいました。


ちょっと不安がよぎりましたが・・・。


でも逆に心配ならもっと早く次の診察にするよね?ただスピードが遅いだけだよね、と自分に言い聞かせています。






ここ数日、つわりかも?と思う症状があります。


なんだか口の中が気持ちが悪い感じ。


だから飴やミンティアや干し梅で紛らわせています。


食事は今のところいつもより若干少ないくらいの量は食べています。


ただ準備にとりかかる気力が低下していて、何を食べようかと想像すると気分が悪くなる(ような気がする)ので、あまり考えずにさっさとメニューを決め、仕事のように淡々とこなすようにしています。


あとは相変わらず眠いので昼寝をできるときは午前・午後を問わず寝ていて、夜もなるべく早くベッドに入るようにしています


PCも最近は1時間も見ていると気分が悪くなってくるので、あまり見ないようにしています。


だんだんと自分のこと、周りのことが変化してきているようで不思議です。


でもとにかく、今日ここまで来られたこと、今現在赤ちゃんが私のお腹にいてくれていることに感謝します


そしていつも私を支えてくれて報告を楽しみに待っていてくれている友人・知人に感謝です


本当に1つの命の重さを実感します。


今夜、ダンナちゃんが帰ってきたら、南の島に移住したお義父さんに電話で報告するつもりです。


こちらにいるときは毎日神棚に、島へ行ってからはご先祖様のお墓に「長男のところに子どもが授かりますように」と祈ってくれているお義父さん。


やっとやっと嬉しい報告をできるときがきました。


今後のことはまだわからないけど、今日はお義父さんにも一緒に喜んでもらいたいと思います。