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言葉のかけら

エルヴィスのレパートリーを日本人の視点から読み取る訳詞プロジェクト「言葉のかけら」

FTD「Good Times」 - CHRONOLOGY (1/6)

2014-12-10 20:00:00 | ライナーノーツ翻訳
1973年8月6日~9月3日
「サマー・フェスティバル」と銘打たれている、
ライブ復帰後9度目となるラスベガス連続公演が始まる。
この時点ではまだ録音されていない「マイ・ボーイ」が毎日歌われ、
ザ・ヒルトンでのショーの呼び物となる。



10月9日
エルヴィスとプリシラが、サンタモニカにあるロサンジェルス郡上級裁判所に揃って姿を見せ、その後離婚が公式に発表される。
離婚した二人は腕を組んで裁判所を後にする。

11月
この月(1973年11月)の第一週目に、エルヴィスとガールフレンドのリンダ・トンプソンは、リンダの弟の家を訪問。
この家はエルヴィスが数ヶ月前に彼のために購入したものだった。
サムの夫人であるルイーズ、リンダ、サムの両親、そしてリッキー・スタンリー(エルヴィスの義兄弟)も加わった家族の集まりで、エルヴィスはアコースティック・ギターを弾きながら数曲歌って彼らを楽しませたが、その中の一曲「スパニッシュ・アイズ」(この時点ではまだ一連の作品群には加わっていない)は、リンダのリクエストに応じて歌われた。



11月14日
NBC はTVスペシャル「アロハ・フロム・ハワイ」を再放送する。

 FTD「Good Times」
 CHRONOLOGY
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FTD「Good Times」
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FTD「Forty Eight Hours To Memphis」 Day By Day (7/7)

2014-11-16 20:00:00 | ライナーノーツ翻訳
3月19日
エルヴィス一行はマーフリーズボロで再度公演を行う。
エルヴィスは公演中上機嫌だったとショーの情報は伝えている。
「ヘルプ・ミー」を歌い終えたあと、作者ラリー・ガトリン(Larry Gatlin)が紹介される。 
「好きにならずにいられない」でショーを締めくくる前に、
エルヴィスは「ミステリー・トレイン / タイガー・マン(Mystery Train/Tiger Man)」のメドレーを歌い、
更に観客を驚かす。

観客動員数 : 12,200人

3月20日
テネシー州メンフィスの「Mid-South Coliseum」で
ツアー最後のコンサート。
エルヴィスはRCAとの契約を果たそうと、
自分の故郷でのライブ・アルバムを録音するよう主張する。
エルヴィスが会場に着くときから離れるときまで、
ファンの興奮した雰囲気を捉えるために、
コロシアムの内外にマイクロフォンが設置される。
エルヴィスはコンサートの前に
「おい、俺はこのレコーディング・セッションに準備万端だ」と話す。
このライブ・アルバムの発表は6月に予定される。



 FTD「Forty Eight Hours To Memphis」
 On Tour March 1974 : Day By Day
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FTD「Forty Eight Hours To Memphis」
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FTD「Forty Eight Hours To Memphis」 Day By Day (6/7)

2014-11-12 20:00:00 | ライナーノーツ翻訳
3月18日
FTD「Forty Eight Hours To Memphis」エルヴィスは6日間で2度目となるショーのために、
メンフィスからリッチモンドへ飛行機で移動。
「The Richmond News-Leader」はコンサートを次のように論評。

・・・1週間で2度目となったエルヴィスのリッチモンド訪問時には、
サウンドを改善するために(前回とは)異なるスピーカーが設置され、
スターの側もほとんどおふざけのような態度で、
ショーの雰囲気を盛り上げた。
観客の大部分は、ティーン・エイジャー(13~19歳)とそれよりわずかに上の若者達で、
デビュー当時のエルヴィス・プレスリーを覚えているにはかなり若すぎる年齢だった。
エルヴィスがアーティストとしてのピークにあったとき、彼らの多くはせいぜい幼稚園児だった。
エルヴィスは溢れんばかりの魅力を振り撒き、6日前よりもくつろいで穏やかに見え、
バンドとふざけあったり、幾つかの曲では軽快な足取りで踊って見せた。
サウンドのミキシングは、オーケストラやコーラスがいつもより抑え目で
エルヴィスのボーカルが前面に出され、
「恋にしびれて(All Shook Up)」のバックを務めた3人編成の男声コーラスは、
往年のザ・ジョーダネアーズを彷彿とさせた。
「お前が欲しくて(Trying To Get To You)」を含む何曲かでは、
そうした曲を歌うことがめっきり減ってきていたにもかかわらず、
バンドやコーラスに影響されることなく、全力を傾けて歌った。
プレスリーはお定まりの人気歌手の座に安住している。
長年築き上げて来たものがあるから、多分エルヴィスは今後、
いかなる音楽的意外性も求めないだろう。
実際のところ、エルヴィスにはそうしなければならない理由が無くなっている。

「Richmond News-Leader: 'Elvis Presley' by バーバラ・グリーン」

観客動員数 : 11,791人



 FTD「Forty Eight Hours To Memphis」
 On Tour March 1974 : Day By Day
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FTD「Forty Eight Hours To Memphis」
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FTD「Forty Eight Hours To Memphis」 Day By Day (5/7)

2014-11-01 20:00:00 | ライナーノーツ翻訳
3月15日
テネシー州ノックスビルでの公演には、13,305人のファンが詰め掛ける。
エルヴィスは、「それが愛でなければ (If That Isn't Love)」の
共作者ドティ・ランボー(Dotty Rambo)に「ホワイ・ミー・ロード」を捧げる。
(エルヴィスは1973年12月16日のスタックス・セッションで、「それが愛でなければ」を録音)

3月16 & 17日
1日2回(2日で4回)、故郷テネシー州メンフィスの「Mid-South Coliseum」で公演。
当初の企画は3公演のみだったが、一日当たり4,000件の予約が殺到する。
他のアーティストの場合、400~500件のオーダーが通常であり、過去メンフィスで、
コンサートの予約が一日当たり1,000件を越えたアーティストは記録されていない。
入場券が印刷される前に、追加のショーも売り切れとなる。
これらはエルヴィスの故郷で行われるコンサートとしては13年ぶりのもので、
最後にエルヴィスがメンフィスのライブに登場したのは、1961年のことだった。

コンサート1回当たりの観客動員数 : 12,300人



 FTD「Forty Eight Hours To Memphis」
 On Tour March 1974 : Day By Day
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FTD「Forty Eight Hours To Memphis」
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FTD「Forty Eight Hours To Memphis」 Day By Day (4/7)

2014-10-26 20:00:00 | ライナーノーツ翻訳
3月11日
ハンプトン・ローズのコロシアムでは、
「アメリカの祈り」が始まると観客は総立ちとなり、
歌が終わるまで立ったままとなる。

観客動員数 : 10,957人

3月12日
バージニア州リッチモンドで、このツアーでの一回目のコンサート。
エルヴィスは追加された二度目の公演のために、
わずか6日後の3月18日にコロシアムに戻って来ることになる。

観客動員数 : 11,791人

3月13日
エルヴィスはノース・カロライナ州グリーンズボロでも再び入場券を売り切る。

観客動員数 : 16,400人

3月14日
次に足を踏み入れたのはテネシー州マーフリーズボロ。
チャーリー・ホッジの両親がこのショーに姿を見せ、
エルヴィスとチャーリーは「ヘルプ・ミー」でデュエットをする。
エルヴィス一行は、ファンの要望に応えて、
ここで3月19日に2度目のショーを行うことになる。

観客動員数 : 12,200人

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 On Tour March 1974 : Day By Day
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