国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

中高生のための内田樹(さま) その11

2018-09-17 21:05:00 | 中高生のための内田樹(さま)
●国語屋を名乗っている。でもって、「中高生のための内田樹(さま)」というものをブログで連載している。

 何人くらいの中高生が読んでいるかはわからないけど、大人が読んでもいいものだと信じてやまない。

 ここで国語屋として、耳の痛い話を引用する。

 傍線を引いて問いを作って解答例までつけちゃう自分への戒めの言葉である。

 なお太い文字で強調しているのは原文のままである。

●後半は古典を学ぶのは何故かの説明。みんな古典を自信もって学んでほしい。


 読解力というのは目の前にある文章に一意的な解釈を下すことを自制する、解釈を手控えて、一時的に「宙吊りにできる」能力のことではないかと僕には思えるからです。
難解な文章を前にしている時、それが「難解である」と感じるのは、要するに、それがこちらの知的スケールを越えているからです。それなら、それを理解するためには自分を閉じ込めている知的な枠組みを壊さないといけない。これまでの枠組みをいったん捨てて、もっと汎用性の高い、包容力のある枠組みを採用しなければならない。
読解力が高まるとはそういうことです。大人の叡智に満ちた言葉は、子どもには理解できません。経験も知恵も足りないから、理解できるはずがないんです。ということは、子どもが読解力を高めるには「成熟する」ということ以外にない。ショートカットはない。
僕はニュースを見ていて、読解力が下がっているというのは、要するに日本人が幼児化したのだと感じました。「読解力を上げるためにはこれがいい!」というようなこと言い出した瞬間に、他ならぬそのような発想そのものが日本人の知的成熟を深く損うことになる。なぜ、そのことに気がつかないのか。
(中略) 読解力というのは量的なものではありません。僕が考える読解力というのは、自分の知的な枠組みを、自分自身で壊して乗り越えていくという、ごくごく個人的で孤独な営みであって、他人と比較したり、物差しをあてがって数値的に査定するようなものではない。読解力とは、いわば生きる力そのもののことですから。


(ものすんごい中略ね)古語辞典が一冊あれば、僕のような素人でも、現代語訳ができてしまう。こういう言語環境は、他にあるでしょうか。東アジアの国の中で、特殊な専門教育を受けたわけでもない一般人が古典に辞典一冊でアクセスできる言語環境があるのはおそらく日本だけです。

(中略)古典や漢文などは一体なんの意味があるんだ、そんなものになんの有用性もないというようなことを言う人たちがいる。でも、母語のうちにこそ文化的な生産力の源はあるんです。二千年前から、この言葉を使ってきたすべての人たちと、文化的に僕たちは「地続き」なんです。そして、日本の場合は、ありがたいことに、言語を政治的な理由で大きくいじらなかったので、700年前の人が書いた文章を辞書一冊あれば、誰でもすらすらと読むことができる。中学高校で、そういうことができるような基礎的な教育を受けているから。



●さて、なぜ私にとって耳が痛いか分かっていただけただろうか。

●一意的に解釈をさせているからですね。

 やれセンターだ、偏差値だと言うグループにいたからですね。

●でもね。自分の読解力があがっていったのは多く入試問題を解いてきたからだった。

●現代文古文の力があがったのは浪人時代。田村秀行氏と土屋博映氏という大人(ある意味対照的なお二人だった)に導かれたときだった。

 田村氏は「客観的読解を広めた人物という評価をされたくない。好き勝手な読み方が重要だからだ」ともおっしゃっていた気がする。

●一意的な解釈を経て読解力を磨いてきたんだと思う。

 もちろん、大人の本文に対する解説があって知的な成熟をしていったんだと今になって痛切に思う。

●受験を通して少しは大人になったというべきかな。

●この連載は問題なしでも、僕(病人ですけど、ごめんなさい)が重要だと思ったらどんどん紹介していこうと思う。

 知的成熟ができると思うからだ。

●その方が現代文の点数があがると思うからさ(まだこりていない)。



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