国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

中高生のための内田樹(さま) その32

2019-02-10 18:41:48 | 中高生のための内田樹(さま)
●今回の文章で知っておいてほしいのは「負けしろ」である。

●むかし、専門学校で経済学を教えていた当初、GDPの説明のあとでこういう例を出していた。

 あるところに「風の谷」と呼ばれるところがあって、みんなで取れた食料を分け合い、その他のことも物々交換で生活をし、穏やかな生活をしていた。この谷のGDPはいくらくらいあると思う?

●答えはそう、GDPはゼロである。

●これは極端な例だが、決して「穏やかな生活」とGDPは比例関係にないことを知ってほしく出した問題(思考実験?)であった。

●そのあたりも踏まえて以下の文章に触れてほしい。



次の文章を読んで後の問いに答えなさい。


 (みんなが)心配しているような「思いがけないこと」が来ないと言っているんじゃありません。それはやっぱり来るんです。そして、システムががたがたになる。これは避けようがない。でも、日本は他の国とくらべると「負けしろ」の厚さがだいぶ違いますから。地震が来ようが、国債が暴落しようが、年金制度が崩壊しようが、そのときはそのとき、国が破れても山河が残っている限りは大丈夫です。なんとかなります。
 「負けしろ」が日本にはあります。
 それは豊かな自然です。国土の68%が森林なんです。これほどの森林率の国は先進国にはノルウェー以外にありません。多様な植生があり、さまざまな動物が繁殖し、きれいな水があふれるように流れ、強い風がよどんだ大気を吹き払う。日本のこの自然環境には値札がつけられません。
 経済の話をするとき、エコノミストはみんな「フロー」の話しかしません。でも、日本には「眼に見えないストック」があります。目の前にあるのでありがたみがわからないのですけれど、改めてそれを金を出して買おうとしたら1000兆円出しても買えないような資産です。それはまず自然資源です。飲料水がいくらでも湧き出ている。水のほとんどをマレーシアから輸入しているシンガポールから見たら羨ましくなるほどの資産です。
 でも、日本人は自分たちがそんな豊かな資産を享受していることを知りません。
 第二が銃による犯罪がほとんどないこと。アメリカは銃で年間3万人が死んでいます。一昨年、日本では銃による死者は年間4人でした。殺人発生件数もほぼ世界最低です。このレベルの治安を仮にアメリカやメキシコやブラジルで実現しようとしたら国が破産するほどの天文学的なコストを要するでしょう。
 それだけの資産がとりあえずここにある。
 その他に温泉もあるし、神社仏閣もあるし、伝統芸能もあるし、ご飯は美味しいし、接客サービスは世界一だし・・・、国民的な「ストック」はさまざまにあるわけです。
 でも、経済成長論者の方たちはこのストックをゼロ査定しておいて、フローがないカネがないと騒いでいる。日本がほんとうは豊かな国であること、みんなでフェアにわかち合えば、ずいぶん愉快に暮らせることをひた隠しにしている。そして、経済成長しなかったらもすぐに国が滅びるというような煽りをしている



問い「煽りをしている」とあるがなぜ煽るのか。








<解答例>
経済成長論者やエコノミストはフローやカネといった数値化できる既存のシステムの中で生きているので、そのシステムが崩壊したときの「負けしろ」や「目に見えないストック」の中で生きる未知の世界を否定したいから。





※ 数値化できる・・・目に見えないの反対表現






全文はこちら「GQの人生相談6月号」になります。
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中高生のための内田樹(さま) その31

2019-01-21 13:33:33 | 中高生のための内田樹(さま)
日本の私学を代表するW大学とM大学が同じ年に内田樹さまの『街場の現代思想』のほぼ同じ箇所が入試に出題されていたことがある。

で、だ。

この際、「大学の中の人」の考え方をこの文章で知ろうではないかというのが今回の記事の主眼である。

傍線の引いてあるところの問題はどういう問題だったか。空欄の問題は選択肢か本文中から抜き出せか。

両大学の出だしが違うのはなぜか。長いとどういう問題が作られていたか。

などなど、諸君が考えることは多くある。

出題者の思考や心情(これくらいはできてくれよみたいな、ここに傍線を引いた私は偉いなぁみたいな)を理解する一助になれば幸いである。


M大(青くしている)
傍線 ① ~ ⑥
空欄 A ~ C 【 】の部分

W大(★以降)(赤にしている)
傍線1・2
傍線A ~ D
空欄X ~ Y 【 】の部分



 ここに美しいカットグラスがあったとする。私はこれを大切に取り扱う。それはちょっとした不注意でそれが砕け散ることを知っているからである。だが、そんな気づかいをしないで済むように、踏んでも叩いても割れないグラスを使えばいいじゃないかと言われても、おいそれと肯(うべな)うわけにはいかない。どれほど造形的に美しくても、私は「割れないグラス」に①「割れるグラス」と同じような愛情を感じることができないからである。
 しかし、これは考えてみるとおかしな話だ、もし見た目も触感も同じであるとしたら、「まだ割れていないグラス」と「これからも割れないグラス」の間にはさしあたり有意な差はないはずだからである。にもかかわらず、私が「まだ割れないグラス」を「決して割れないグラス」よりも選択的に丁寧に扱うとしたら、その理由は一つしかない。それは、「まだ割れないグラス」については、それが手から落ちて滑り落ちて床に砕け散り、それが「もう割れてしまったグラス」になった瞬間に私が感じるであろう喪失感と失望を私が想像的に「先取り」しているからである。
 つまり、②「割れるグラス」の魅惑を今現在構成しているのは「それが失われた瞬間に立ち会っている未来の自分」が経験する喪失の予感なのである。
 今目の前にある「うつろいやすいもの」の美や儚(はかな)さはそれらの器物そのもののうちに内在するのではない。そうではなくて、「それが失われた瞬間に立ち会っている私」という先取りされた視座が作り出した「【 A 想像の効果】」なのである。私たちが「価値あり」と思っているものの「価値」はそれら個々の事物に内在するのではなく、それが失われた私たちが経験するであろう未来の喪失感によって担保されているのである。
★ ③私たちの人生はある意味で一種の「物語」として展開している。「私」は「私という物語」の読者である。読者が本を読むように私は「私という物語」を読んでいる。すべての物語がそうであるように、この物語においても、その個々の断片の意味は文脈依存的であって、物語に終止符が打たれるまでは、その断片が「ほんとうに意味していること」は読者には分からない。
 それは「犯人がなかなか分からない推理小説」を読んでいる経験に似ている。怪しい人間が何人も登場するが、どれが犯人かさっぱり見当がつかず、プロットはますます錯綜してきて、こんな調子で果たして残された紙数でもちゃんと犯人は言い当てられ、不可解な密室トリックのすべては明かされるか、読者は不安になる。しかし、その不安は本を読む楽しみを少しも減Aするものではない。それは、どれほど容疑者がひしめきあい、どれほど密室トリックが複雑怪奇であっても、「探偵が最後には犯人をみごとに言い当てること」についてだけは、読者は満腔(まんこう)の確信を持って物語を読んでいるからである。
 結末がまだわからないにもかかわらず、私たちは「いかにも結末らしい結末」が物語の最後に私たちを待っているであろうかということについては、いささかの不安も感じていない。私たちが物語を楽しむことができるのは、仮想的に想定された「物語を読み終えた私」が未来において、現在の1読者の愉悦を担保してくれるからである。もし、終章で探偵が犯人を名指しして、すべての伏線の意味を明らかにすることなしに小説が終わってしまう「かもしれない」と思っていたら、私たちは推理小説を愉しむことはできないだろうし、そもそも、そんな小説を手に取りさえしないだろう。
 私たちの人生もそれと同じく「犯人がまだ分からない推理小説」のように構造化されている。けれどもそれにもかかわらず私たちが日々のどうということもない些末(さまつ)な出来事をわくわく楽しめるのは、それが「2巨大なドラマの伏線」であったことを事後的に知って「なるほど、あれはそういうことだったのかと腑に落ちている「【 B 未来の私】」を想定しているからである。私たちの日々の【 C 散文】的な、繰り返しの多い生活に厚みと奥行きを与えるのは、今生きている生活そのもののリアリティではない。そうではなくて「私の人生」という物語を読み終えた私である。
 ジャック・ラカン(注フランスの精神分析者)はこのような人間のあり方を「人間は前未来形で自分の過去を回想する」という言い方で説明したことがある。「前未来形」というのは「明日の三時にこの仕事を終えているだろう」という文型に見られるような、未来のある時点においてすでに完了した動作や状態を指示する文型である。
 私たちが自分の過去を思い出すとき、私たちはむろん「過去に起きた事実」をありのままに語っていない。私たちが過去の思い出を語るとき、私たちは聴衆の反応に無関心であることはできないからだ。あるB逸話について聴き手の反応がよければ「おお、この種の話は受けがいいな。では、この線で行こう」ということになるし、ある逸話についての反応がかんばしくなければ「おっと、この手の自慢話はかえって人間の価値を下げるな」と軌道修正を行う。私たちが自分の過去として思い出す話は、要するにその話を聞き終わったときに、聴き手が私のことを「どういう人間だと思うようになるか」をめざしてなされているのである。話を聞き終わった未来の時点で、聴き手から獲得されるであろう【 Ⅹ 人間的な信頼や尊敬や愛情】をめざして、私は自分の過去を思い出す。④このような人間の記憶のあり方をラカンは「前未来形で語られる記憶」と称したのである。
 それと同じことが、私たちが私たち自身の現在を物語として「読む」ときも起きている。私たちは、⑤今自分の身に起きている出来事(人間関係であれ、恋愛事件であれ仕事であれ)が「何を意味するのか」ということは、今の時点で言うことができない。それらの事件が「何を意味するのか」は百パーセントで文脈依存的だからである。
 「その事件が原因で私はやがてアメリカに旅立つことを余Cなくされたのであった」とか「その恋愛事件がやがて私の思いもよらぬ悲劇を引き起こそうとは誰一人知るよしもなかった」とか「【 Y 結果的にそのとき病気になって転進したことが幸いして私は震災を免れたのである】」とかいうナレーションは、物語を最後まで「読んだ私」にしか付けることができない。
 私たちはその「ナレーション」をリアルタイムでは聞くことができない。
 しかし、それにもかかわらず、私たち自身が恋愛事件のクライマックスや喧嘩(けんか)の修羅場を迎えているときに、その場の登場人物の全体をD俯瞰(ふかん)するカメラアイから自分を含む風景を見下ろし、そこに「ナレーション」がかかり、BGMが聞こえているような「既視感」にとらわれることがある。というか、⑥そのような既視感にとらわれることがなければ、私たちはそもそも自分が「クライマックス」に立ち会っているとか、「修羅場」に向かっているような文脈的な位置づけをすることができないはずである
(内田樹『街場の現代思想』による)




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中高生のための内田樹(さま) その30

2018-12-31 14:35:30 | 中高生のための内田樹(さま)
●今年、最後の記事は(私としては)力を込めて掲載し続けた「中高生のための内田樹(さま)」にした。

●中高生以外にも刺激となっている面があるといいなと思っている。

●来年はご著書からも引用して掲載を続けていきたいと考えている。

●ウチのブログは教育目的だよね(念押し)。



 
次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。


 大衆社会にはさまざまな特徴があるが、その一つは「視野狭窄」である。
 どうしてそうなるのかというと、大衆の行動基準は「模倣」だからである。
 オルテガが看破したように、「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」(『大衆の反逆』)
 彼らの行動準則は、「他人と同じであるか、どうか」だけである。
 何らかの上級審級に照らして正邪理非を弁ずるということをしない。
 「みんながやっていること」は「よいこと」で、「みんながやらないこと」は「悪いこと」というのが大衆のただひとつの基準である。
 これはある意味では合理的な判断である。
 上位審級(法律とか道徳とか宗教とか哲学とか)だって、ある程度までは「みんな」の支持を取り付けないと実効的には機能しない。
 少数の人間が「絶対これがいい」という選択肢と、多数の人間が「別にこれでもいいけど」という選択肢があった場合には、後者を選んでおく方が安全、というのはたしかな経験則である。
 だから、大衆社会の人々がほんとうに「みんな」がやっていることを是とし、「みんな」がやらないことを非としているのであれば、(オルテガ先生に逆らうようで申し訳ないけれど)、実は大衆社会というのはかなり住みよい、条理の通った社会なのである。
 では、なぜ大衆社会がこれほどあしざまに批判されるのかというと、問題は「みんな」という概念のふたしかさに起因するのである。
 るんちゃんが子供の頃、おもちゃを買って欲しいと言ってきたことがあった。
 「どうして?」と訊くと、「みんな持ってるから」と答えた。
 「みんな、って誰?」と重ねて訊くと、「うーんとね、なっちゃんとね・・・なっちゃんとね・・・なっちゃんとね・・・」
 そのときの「みんな」は一名様だったわけである。
 問題は「みんな」がどれほどの個体数を含むのかが「みんな」違うということなのである。
 ある程度世間を見てきて、世の中にはいろいろな人間がおり、いろいろな価値観や美意識や民族誌的偏見やイデオロギーや臆断があるということを学んできた人間はめったなことでは「みんな」というような集合名詞は使えないということがわかってくる。
 逆に、世間が狭い人間は軽々に「みんな」ということばを使う。
 彼の知っている「みんな」が考えていることは、その事実により「常識」であり、「みんな」がしていることは、その事実により「規範」たりうるのである。
 大衆社会がそこに住む人間にとって必ずしも安全でも快適でもないのは、「みんな」ということばの使い方がひとりひとり「みんな」違っており、それゆえ、「みんな」の範囲が狭い人間であればあるほど、おのれの「正義」とおのれの判断の適法性をより強く確信することができるからである。
 無知な人間の方がそうでない人間よりも自分の判断の合理性や確実性を強く感じることができる。
 それが大衆社会にかけられた「呪い」である。



問い 最終行 大衆社会にかけられた「呪い」 なのはなぜか。












【解答例】
範囲の狭い「みんな」に基づき行動・判断するという無知で幼稚な「大衆」の方がいろいろな人間がいると学んで範囲を広くとる人々より多いと、無知であるはずの大衆は自分の判断の合理性や確実性を信じて行動するので安全でも快適でもない社会になるから。




・「大衆」の部分と対比になっている人々を説明する
・「呪い」というマイナス表現を本文から探し出す
・いろいろと知っている人の反対語として「無知」を、また、るんちゃんの例から「幼稚」を使用した
・他にも「視野狭窄」などの語句を用いるのも可。



 全文はこちら「みんな」の呪縛より
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中高生のための内田樹(さま) その29

2018-12-24 13:14:50 | 中高生のための内田樹(さま)
●この忙しい年末に内田樹氏にメールをしてしまった。

 こんな私のメールにも真剣に返事をくださった内田氏は非常に誠実な方としか言いようがない。非常に感激と感謝した。

●そこでいただいた言葉で、ここを読んでいる人に関係することと言うと出版された書籍でも教育目的ならコピーフリーと書いてあったことだ。

●これでこの連載も幅ができることになった。

●こんな誠実な内田氏の本を皆さん、どんどん買って、読んで下され。

●で、だ。

●下記は「論理性」についての文章である。

●国語屋をやっていて「論理性」という言葉にいつももやもやっとしたものを感じていた。

 「論理学」の言う「論理」とは違う何かなんだけどなぁ、じゃあなんだと言われてもなぁというじれったい感情を持っていたのである。

●そのあたりのことをすとんと納得できる文章なのだ。

●その「論理性」を大学生に身に着けるべきこととして書かれてある。

 したがって、中高生の方も目標としても良いわけだ。

●卑近な、しかも現世利益的なことで言うと、AO入試や推薦入試に必要なのは下記の内田氏の文章のような力だ。

 私は面接指導でよく「他人事と思って話しなさい」などと指導をしてきたが、これと関係があったのかもしれない。

●では、読んで下され。




 主題「そのもの」についての研究は、研究者本人が「現場にゆく、現物を見る、本人に会う、実際に経験する・・・」というフィールドワークをしないと始まらない。(刺青の研究をしたゼミ生は日本各地の彫師を訪れてインタビューをとってきた。ホームレスの研究をしたゼミ生は二人のホームレスに長期間同行取材を敢行した。花火の研究をしたゼミ生は寝袋かついで日本縦断花火の旅に出かけた・・・うちの子たちは代々フットワークがいい)
 そこで得られた情報は「第一次資料」と呼ばれる。これこそ、その研究者が「研究共同体」に「贈り物」として提供することのできる貴重な学術データである。
 データ収集に限って言えば、駆け出しの学生であっても、着眼点とフットワークさえよければ、斯界の大学者に負けない仕事をすることができる。
 しかし、それだけでは済まない。
 そのあとに、収集された資料を分析し、理論を立てるという「論理的思考」という仕事が要請される。
 学生さんたちはこれが苦手である。
 論理的に思考する、というのは簡単に言ってしまえば、「いまの自分の考え方」を「かっこに入れ」て、機能を停止させる、ということである。
 「いまの自分の考え方」というのは、自分にとって「ごく自然な」経験や思考の様式のことである。
 目の前に「問題」があって、それがうまく取り扱えない、というのは、要するに、その問題の解決のためには「いまの自分の考え方」は使いものにならない、ということである。
 ペーパーナイフでは魚を三枚におろすことはできないのと同じである。
 使いものにならない道具をいじり回していても始まらない。そういうものはあっさり棄てて、「出刃」に持ち替えないといけない。
 「論理的に思考する」というのは、煎じ詰めれば、「ペーパーナイフを棄てて、出刃に持ち替える」ことにすぎない。
 しかし、ほとんどの学生はその貧弱なペーパーナイフを固く握りしめて手放そうとしない。あくまで自分の「常識」だけで、料理をなしとげようとする。
 自分の道具にこだわりを持つ、というのはそれ自体悪いことではない。
 しかし、それでは「三枚におろす」どころか、ウロコの二三枚を剥がすのが精一杯である。
 論理的に思考できる人というのは、「手持ちのペーパーナイフは使えない」ということが分かったあと、すぐに頭を切り替えて、手に入るすべての道具を試してみることのできる人である。
 金ダワシでウロコを剥ぎ落とし、柳刃で身を削ぎ、とげ抜きで小骨を取り出し、骨に当たって刃が通らなければ、カナヅチで出刃をぶん殴るような大業を繰り出すことさえ恐れないような、「縦横無尽、融通無碍」な道具の使い方ができる人を「論理的な人」、というのである。
 よく「論理的な人」を「理屈っぽい人」と勘違いすることがある。
 「理屈っぽい人」と「論理的な人」はまったく違う。
 「理屈っぽい人」はひとつの包丁で全部料理を済ませようとする人のことである。
 「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである。(レヴィ=ストロースはこれを「ブリコラージュ」と称した。)
 そのつどの技術的難問に対して、それにもっともふさわしいアプローチを探し出すことができるためには、身の回りにある、ありとあらゆる「道具」について、「それが潜在的に蔵している、本来の使い方とは違う使い方」につねに配慮していなくてはならない。
 「いまの自分の考え方」は「自前の道具」のことである。
 ということは、「そのつどの技術的課題にふさわしい道具」とは、「他人の考え方」のことである。
 「自分の考え方」で考えるのを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力、これを「論理性」と呼ぶのである。
 論理性とは、言い換えれば、どんな「檻」にもとどまらない、思考の「自由さ」のことである。
 そして、学生諸君が大学において身につけなければならないのは、ほとんど「それだけ」なのである。







●全文はこちらから
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中高生のための内田樹(さま) その28

2018-12-22 13:10:04 | 中高生のための内田樹(さま)





次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 学校教育もまた、(中略)「決して失われてはならない制度」である。それなしでは人間たちが集団的に生き延びてゆくことができない制度である。
 学校教育の行われない社会集団を想像してみればわかる。そこでは幼い成員たちは成熟への道筋を示されることなく、遊興に耽り、怠惰に過ごしても咎められない。子供たちは生きるための基本的な技術も知恵も教わらないままに無能な成人になり、いずれ餓え死にするか、他の攻撃的な部族に襲われて奴隷になるか殺されて終わる。
 学びのシステムを持たない集団は存続することができない。
 だとすれば、学校教育については、「誰でも、一定の手順を覚えさえすれば、教える仕事は果たせる」ように制度設計されていなければならないはずである。例外的に知的であったり、洞察力があったり、共感性が高かったりする人間でなければ、そのような仕事は務まらないというルールを採用していれば、人類はとうに消滅していただろう。
 ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』に描かれた少年たちは、無人島に漂着した後、住むところと食べるものを確保すると、次に学校を作った。幼い子供たちが無人島の生活になじんで、知性の行使を忘れることを年長者たちが恐れたからである。教師となった少年と生徒になった少年たちのこのときの年齢差はわずか5歳である。14歳の少年に9歳の少年に対する圧倒的な知的アドバンテージを認めることはむずかしい。しかし、この「学校」はみごとに教育的に機能した。「教卓のこちら側」と「あちら側」の間には乗り越えがたい知的位階差があるという信憑が成立する限り、そこでは教育が機能する。これがほんらいの「常識」なのである。
 けれども、教師はその「常識」を知っているが、口にすることをはばかる。それを卑劣だとか陰険だとか咎めてはならない。というのは、「教師という仕事は実は誰でもできるのだ」ということは「とりあえず秘密にしておく」ということも含めて教育は制度設計されているからである。「知っているけれど、知らないふりをしている」のである。そういうものなのである。
 私は1950年、戦争が終わって五年目に生まれたが、当時の公立の小中学校の教師たちの中には「今では絶対に採用されない」タイプの教師が少なからず含まれていた。彼らの中にはあまり教科の内容を理解していない教師がいたし、教科書を音読させるだけで授業というものをしない教師がいたし、気分しだいで通りすがりの生徒にビンタを食わせる教師がいた。でも、そのせいで私たちの学力が低かったということはない。私たちはいまどきの子供たちよりもはるかに熱心に授業を聴いていた。むろん学力もはるかに高かった。
 なぜそうであったかと言えば、私たちは「教卓の向こう側にいる人」はそのことだけで、すでに教える資格があるというルールを身体化していたからである。違いはそれだけである。それが教師たちにとっても、親にとっても、生徒たちにとっても「常識」だったからである。
 残念ながら、その後、私たちは大学に進学した後に「教師はただ教卓の向こう側にいるだけで、すこしも人間的に卓越しているわけではない」という事実を意地悪く暴露して、教育制度に回復不能の深い傷を与えてしまった。私たちが指摘したのは「ほんとうのこと」だったのだが、「言うべきではなかったこと」だった。それに気づくほどに私たちは大人ではなかった。

問 傍線部「言うべきではなかったこと」とあるが、なぜ言うべきではなかったのか。












【解答例】
学校教育は社会の存続のために必要であり、そのためには誰でも教師になれる必要があったにも関わらず、教卓の向こう側にいる教師は卓越した特別な能力のある人間が立つべきだと指摘してしまったことで教育制度が回復不可能な状況においやり、社会の存続を困難にしたから。





●全文は「教育の奇跡」より。





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中高生のための内田樹(さま) その27

2018-12-22 12:55:43 | 中高生のための内田樹(さま)
●ふと、思い出したが、私がこのカテゴリー「中高生のための内田樹(さま)」をはじめるときにこう書いていた。

「そこで中高生に読んでほしい部分を抜き出して、内田樹入門、現代思想入門などなどにしていきたいのである。

いわば他人のふんどしで相撲をとるわけだが、その通りだ。

時に設問や解説をつけるかもしれないが、蛇足と思っていただければ幸いである。」



●「時に設問や解説をつける」である。

 「時に」である。忘れていた。

 ちょっと設問がつく記事が多すぎた。

●また、せっかく「中高生のための」と書いてあるんだから、入試を意識するだけでなく、「大人」になるとか、「大学生」になるとかの部分を紹介していくべきではないのか。

●とまあ、初心を思い出したのである。

●これからも設問やら解説をつけていくことがあるやもしれぬが、蛇足と思ってほしい。

●ついでの話だが、以下は私が手品=マジック=奇術を下手にもかかわらず、病人であるにもかかわらず、続けている理由を考えてほしい文章である。





 経験的に言って、一人の「まっとうな学者」を育てるためには、五十人の「できれば学者になりたかっ た中途半端な知識人」が必要である。非人情な言い方に聞こえるだろうが、ほんとうだから仕方がない。
 一人の「まともな玄人」を育てるためには、その数十倍の「半玄人」が必要である。別に、競争的環境に放り込んで「弱肉強食」で勝ち残らせたら質のよい個体が生き残るというような冷酷な話をしているわけではない。「自分はついにその専門家になることはできなかったが、その知識や技芸がどれほど習得に困難なものであり、どれほどの価値があるものかを身を以て知っている人々」が集団的に存在していることが一人の専門家を生かし、その専門知を深め、広め、次世代に繋げるためにはどうしても不可欠なのだということを申し上げているのである。
 私は仏文学者として「裾野」の拡大に失敗した。そして、先人たちが明治初年から営々として築き上げてきた齢百年に及ばない年若い学問の命脈を断ってしまったことについてつよい責任を感じている。今、日本の大学には専門の仏文学者を育てるための教育環境がもう存在しない。個人的興味から海外留学してフランス文学研究の学位を取る人はこれからも出てくるだろうが、それはもう枯死した学統を蘇生させるという集団的責任を果すためではない。
 能楽の場合でも事情は変わらない。一人の玄人を育てるためには、その数十倍、数百倍の「半玄人」が要る。それが絶えたときに、伝統も絶える。
 私が「旦那」と呼ぶのは「裾野」として芸能に関与する人のことである。余暇があれば能楽堂に足を運び、微醺を帯びれば低い声で謡い、折々着物を仕立て、機会があるごとに知り合いにチケットを配り、「能もなかなかよいものでしょう。どうです、謡と仕舞を習ってみちゃあ?」と誘いをかけ、自分の素人会の舞台が近づくと、「『お幕』と言った瞬間に最初の詞章を忘れた夢」を見ては冷や汗をかくような人間のことである。
 私はそういう人間になりたいと思う。そういう人間が一定数存在しなければならないと思う。技芸の伝承は集団の営為だからである。全員が玄人である必要はないし、全員が名人である必要もない。玄人の芸を見て「たいしたものだ」と感服し、おのれの素人芸の不出来に恥じ入り、それゆえ熟達し洗練された技芸への欲望に灼かれる人々もまた能楽の繁昌と伝統の継承のためになくてはならぬ存在なのである。
 私たちの社会は「身の程を知る」という徳目が評価されなくなって久しい。「身の程を知る」というのは自分が帰属する集団の中で自分が果すべき役割を自得することである。「身の程を知る人間」は、おのれの存在の意味や重要性を、個人としての達成によってではなく、自分が属する集団がなしとげたことを通じて考量する。
 それができるのが「大人」である。
 私たちは「大人」になる仕方を「旦那芸」を研鑽することによって学ぶことができる。私はそう思っている。同意してくれる人はまだ少ないが、そう思っている。



●要は私は「『大人』になる仕方」としてマジックの「旦那」を目指しているのである。底辺がひろがるほど、上質の玄人が誕生し、その玄人たちが食べていけるためにも、下手でも病人でもマジックを続けていくのである。

●そのあたり、無料で簡単にマジックを習得できるコンテンツには疑問を持っている。本でもDVDでもマジックグッズでもその購入が玄人を食わせていくならそれはそれでいいことだし、まして「苦労」のあげくマジックを理解する楽しみや、実演する楽しみがあるのだから、上質の趣味である。

 上質の趣味であると各自、自分の趣味について思っているだろうし、そうでなくてはいけない。

 むろん、他の趣味も「『大人』になる仕方」を教えてくれるだろう。

●以前生徒に言っていたのが「生徒の経験を作る3要素」である(また、「3」にこだわっているね)。

 それは「学校・地域・趣味」である。
 
 部活・学級活動、友人を含めた学生生活では、スマホ(現実の一部だけしか付き合えないからね)に頼らず現実100%で向き合ったり、身近な大人である先生と交流したりするといいね。おそらく一番具体的な経験となるであろう。

 祭り、ボランティア、散歩などを総合した地域と関連した経験(意外なほどない生徒さんが多いのよね)を通して地元の意外な価値を実感していくことも大事だ。私の場合、以前は散歩を趣味にしていたが、由緒ありそうな神社の跡地やら立派な意匠をこらした蔵やらその地域の歴史的暗部をあらわす何か(ここには書けないよ)とか、いろいろと見つけたもんだ。

 地域もそうだが、年齢に関係なく存在する「趣味」も良い。学校は学年やら部活やらの縛りが多すぎる。
 私はどれほど年上の著作に感動し、年下の存在に刺激を受けたことか。今でも野島信幸氏(彼が中学生時代から知っているような気がする)には多くの影響を受けているしな。はっ、師であるゆうきとも氏も年下ではないか。それに一流ないし、玄人の存在が色々なことを教えてくれるだろう。

 これらが生徒の良質の経験つながるのである。自己推薦に書くことがないという3年生は多いがこの3要素を充実させなかったか、気づいていないだけのことだ。

 また、この3要素は小論文でも身近な具体例としてつかえることもあるから大切にしよう。

●とりあえず、君たちに「趣味」はあるだろうか。ある人はおめでとうである。よい「旦那」になるといい。

 むろん、「玄人」になっても全然かまわないんだけどな。




●また、余計な解説もどきをつけてしまった。


●原文はこちら「旦那芸について」について」より。



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中高生のための内田樹(さま) その26

2018-12-20 14:27:50 | 中高生のための内田樹(さま)



次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 アスリートのパフォーマンスを数値でしか語れないというのは、現代日本を覆い尽くしている「幼児化」の端的な徴候である。
 スポーツメディアが書くのは「数字」と「どろどろ人間模様」だけである。
 アスリートについて書かれていることは、記録や順位や回数について、ローカルな人間関係についてか、ほとんどそのどちらかである。
 ベースボールプレイヤーについて書くときに、打率や打点や本塁打数や出塁率やにしか言及できないというのは、喩えて言えば、バレーダンサーのパフォーマンスについて論じるときに、ピルエットの回数とかジュテの高さとかリフトしたバレリーナの体重だけを書き、「舞踊そのもの」については何も書かないようなものである。
 野球もまた身体的パフォーマンスであり、それが与える喜びはダンスを見る場合と変わらない。
 それは卓越した身体能力をもった人間に「共感する」ことがもたらす快感である。
 長嶋茂雄という選手はもう記録においてはほとんどすべてを塗り替えられてしまったけれど、彼がプレイするときに観客に与えた快感に匹敵するものを提供しえたプレイヤーはその後も存在しない。
 長嶋茂雄はただ「守備しているときに来たボールは捕って投げる。攻撃しているときに来たボールはバットで打ち返す」ということだけに全身全霊をあげて打ち込んだプレイヤーである。
 長嶋のプレイを見ているときに、私たちは彼の身体に想像的に嵌入することを通じて「野球そのもの」に触れることができた。
 その意味で長嶋は一種の「巫者」であったと思う。
 長嶋がそうであったように、卓越したパフォーマーに私たちが敬意を払うのは、その高度な能力を鑑賞することを娯楽として享受できるからではない。
 そうではなくて、私たちの日常的な感覚では決して到達できない境位に想像的に私たちを拉致し去る「involveする力」に驚嘆するからである。




問い 傍線部「幼児化」とはどういうことか。











【解答例】
本来は、卓越したアスリートがくれる、日常的な感覚では私たちが到達できない「スポーツそのもの」に共感し、驚嘆し、想像しなくてはいけないのに、日常的な感覚でわかる数字やどろどろ人間模様にしか興味を持てないということ。



【ポイント】
「幼児化」と対比になっている部分を読み取ることが重要。

それは卓越した身体能力をもった人間に「共感する」ことがもたらす快感である。
私たちの日常的な感覚では決して到達できない境位に想像的に私たちを拉致し去る「involveする力」に驚嘆するからである


具体例の長嶋茂雄の「野球そのもの」を「スポーツそのもの」に抽象化した

あとは「幼児化」の内容として「数字」と「どろどろ人間模様」の部分を活用した。そして「幼児」は「本来」ができていないということと「日常」にしか興味が持てないことで表現した。

なお、「A逆説B」で対比・二重性を表現している。


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中高生のための内田樹(さま) その25

2018-11-26 14:36:04 | 中高生のための内田樹(さま)
次の文章を読んで後の問いに答えなさい。(占い付き)

「いじめ」は「供犠」という儀礼のひとつの変種である。それは「神霊」という概念の発生と同期している。集団に不幸が訪れる。天変地異でも、異常気象でも、不作凶作でも、異族の襲撃でも、集団内部での紛争でも、何か困ったことが起きる。これは神霊の怒りを買ったことの罰である。この罪の穢れを祓うために供犠が行われる。「諸悪の根源」が単一物として存在し、それがすべての悪を分泌している。だから、それを特定し、除去さえすれば社会は原初の清浄と活力を回復する。これが供犠という考え方である。指名されたものは「贖罪の山羊(scape goat)」となり、徴をつけられて集団の周縁に追いやられ、あるいは集団の外部に追放され、あるいは殺害される。
「贖罪の山羊」を追い払っても感染症や病虫害や自然災害に対する科学的効果があるはずがない。でも、それがわかっていながら、人々は供犠の儀礼を手放さなかった。それは供犠には「コスモロジーの効果」があるからである。
供犠はもっともプリミティブな「宇宙観」である。アモルファスな世界にデジタルな境界線を引く。どこでもいい、とりあえず「境界線」を引く。「清らかなもの(fair)」と「穢れたもの(foul)」、「内部」と「外部」、「善」と「悪」の境界線を引く。境界線の選定は本質的に恣意的である。そこに線が引かれなければならない必然性はない。けれども、とりあえず境界線を引いたら気分が少しよくなった。だから、一度やったら止められなくなった。「線を引く」のは人間の本態的傾向である。クロード・レヴィ=ストロースははっきりこう断言している。
「【                               】」(『野生の思考』)
どのようなデタラメな分類であってもカオスよりはましである。


問 空欄に当てはまる文を次の中から選びなさい。
 ア どのようなものであれ、分類は分類の欠如よりも何らかの固有の効力を持っている
 イ どのようなものであれ、非論理的な分類の除去は必要であり、論理性が重要である
 ウ どのようなものであれ、無実の者を供儀に提供することは原始的で悪だと言える
 エ どのようなものであれ、少しの気分の良さのために虐待や排除を利用してはいけない
 オ どのようなものであれ、宇宙観を恣意的に決定するのは構造的な思考であり、全面的に正しい












【解答】  ア
占いの結果
アにしたあなたは直後の「よりはまし」と「よりも何らかの効力を持っている」とを対応させることができるクールな人。
  ラッキーアイテムは内田樹著『私家版・ユダヤ文化論』
 
イにしたあなたは「論理性」にこだわった理屈屋さん。直後との対応がわかるような本当の論理性を持てば吉。
  ラッキーアイテムは内田樹著『下流志向』

ウとエにしたあなたは正義感の強い人。現代文では常識と逆の内容も出るから気を付けて。
  ラッキーアイテムは内田樹著『態度が悪くてすみません』

オにしたあなたはレヴィ・ストロース=構造主義としちゃった人かな。「全面的」が強すぎるわ。
  ラッキーアイテムは内田樹著『疲れすぎて眠れぬ夜のために』



<参考>
カオス=無秩序  コスモス=秩序
プリミティブ=原始的、幼稚な、素朴な
アモルファス=非結晶。ばらばらな状態
デジタル=一定の区切りのような、段階的な、二者択一的な   アナログ=連続的に変化するような
コスモロジー=宇宙論、宇宙観、世界観



原文はこちら「いじめについて」です。



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中高生のための内田樹(さま) その24

2018-11-15 20:01:21 | 中高生のための内田樹(さま)
 内田樹氏が小学校の教科書に依頼されてボツにされた原稿だそうである。

 小学生には難しい文章だからだそうだ。
 
 ここでボツにされた理由を考えることを通して「誤読」をしてみたいと思う。

 ※ 『先生はえらい』にも「誤読の自由」ってあったしね。





もしも歴史が

 「歴史に『もしも』はない」というのはよく口にされる言葉です。
 たしかに、「起きなかったこと」は起きなかったことですから、「起きなかったこと」なんか考えてもしかたがないのかも知れません。
 でも、どうして「あること」が起きて、「そうではないこと」は起きなかったのか。その理由について考えるのはなかなかにたいせつな知性の訓練ではないかと私は思っています。
 どうしてかというと、過去の「(起こってもよかったのに)起こらなかったこと」について想像するときに使う脳の部位は、未来の「起こるかもしれないこと」を想像するときに使う部位とたぶん同じ場所のような気がするからです(解剖学的にはどうか知りませんけれど)。
 歴史の勉強をすると、「出来事 A があったために、出来事 B がその後に起きた」というふうに書いてあります。歴史的事件はまるで因果関係に基づいて整然と配列されているかのようです。けれども、ほんとうにそうなのでしょうか。というのは、私たちの世界で今起きている出来事の多くは「そんなことがまさか現実になるとは思いもしなかったこと」だからです。
 例えば、第二次世界大戦が始まる前に、ヨーロッパはいずれフランスとドイツを中心とした国家連合体になり、パスポートも国ごとの通貨もなくなるだろうと予測していた人はほとんど存在しませんでした。同じように、太平洋戦争が始まった頃に日米の緊密な同盟関係が戦後の日本外交の基軸になると予見していた人もほとんど存在しませんでした。
 でも、「そういうこと」がいったん現実になってしまうと、みんな「そういうこと」が起こるのは必然的であったというようなことを言います。
 でも、歴史上のどんな大きな事件でも、それを事前に予見できた人はいつでもほとんどいません。
 同じことが未来についても言えるだろうと私は思います。
 私たちの前に拡がる未来がこれからどうなるか、正直言って、私にはぜんぜん予測ができません。わかっているのは「あらかじめ決められていた通りのことが起こる」ということは絶対にないということだけです。後になってから「きっとこうなると私ははじめからわかっていた」と言う人がいても(たくさんいますが)、私はそんな人の話は信じません。
 未来はつねに未決定です。
 今、この瞬間も未決定なままです。
 一人の人間の、なにげない行為が巨大な変動のきっかけとなり、それによって民族や大陸の運命さえも変わってしまう。そういうことがあります。歴史はそう教えています。誰がその人なのか、どのような行為がその行為なのか。それはまだ私たちにはわかりません。ということは、その誰かは「私」かも知れないし、「あなた」かも知れないということです。
 過去に起きたかもしれないことを想像することはたいせつだと私は最初に書きました。それは、今この瞬間に、私たちの前に広がる未来について想像するときと、知性の使い方が同じだからです。
 歴史に「もしも」を導入するというのは、単にSF的想像力を暴走させてみせるということではありません(それはそれで楽しいことですけれど)。それよりはむしろ、一人の人間が世界の運行にどれくらい関与することができるのかについて考えることです。
 私たちひとりひとりの、ごくささいな選択が、実は重大な社会的変化を引き起こす引き金となり、未来の社会のありかたに決定的な影響を及ぼすかもしれない、その可能性について深く考えることです。もしかするとほかならぬこの自分が起点になって歴史は誰も予測できなかったような劇的な転換を遂げるかもしれない。
 そういう想像をすることはとてもたいせつです。
 何より、「私ひとりががんばって善いことをしても、何が変わるわけでもない」とか「私ひとりがこっそり悪いことをしても、何が変わるわけでもない」というふうに自分の歴史への参与を低く見積もって、なげやりになっている人に比べて、今この瞬間においてはるかに人生が充実しているとは思いませんか。



この文章が小学生に難しいのはなぜだろう?

以前紹介した文章に内田氏はこう書いている。

難解な文章を前にしている時、それが「難解である」と感じるのは、要するに、それがこちらの知的スケールを越えているからです。それなら、それを理解するためには自分を閉じ込めている知的な枠組みを壊さないといけない。これまでの枠組みをいったん捨てて、もっと汎用性の高い、包容力のある枠組みを採用しなければならない。


これをもとに「もしも歴史が」について考えてみる。すると小学生の問題ではないことが透けて見えてくる。

つまり、次のようなことだ。

「たいせつな知性の訓練」大人の誰が知性の訓練を大切と思っているだろうか。いや、知性の訓練を誰がしているだろうか。
「歴史的事件はまるで因果関係に基づいて整然と配列されている」と考えている大人がどれほど多いことだろうか。
「『何が変わるわけでもない』とか『私ひとりがこっそり悪いことをしても、何が変わるわけでもない』というふうに自分の歴史への参与を低く見積もって、なげやりになっている」大人がどんなに多いことだろうか。

大人自体が自分の「知的な枠組み」を壊せないのだ。

つまり、何のことはない。小学生にとって難しいのではない。

「大人」にとって難しい文章だったのだ。







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中高生のための内田樹(さま) その22

2018-10-25 09:39:31 | 中高生のための内田樹(さま)
復習問題である。


次の文章を要約しなさい。

教育とビジネスマン

 大学教員は本態的に惰性が強く、変化を好まないので、新学部や新学科の設置や新しい教育プログラムの導入に、あまり積極的ではない。
 これはそれでよいのである。
 教師というのは「そういうもの」だからである。
 教師というのは、「これまで誰もやったことのないすばらしい教育を行おう」というふうにはふつう考えない。
 現状に満足しているからではない。
 そうではなくて、「むかしはうまくいっていたのに、いつのまにすっかり堕落してしまった“教育の黄金時代”にもう一度還らなければならない」と考えるのである。
 教育者は本質的に「黄金時代」を懐古的に志向する。
 私が知る限り、「教える」ことに卓越していたすべての知者がそうである。
 むろん、ビジネスマンはそのようなことを考えない。
 「むかしはうまくいっていた、あの“商いの黄金時代”にもう一度還ろう」というようなことを言う経営者はどこにもいない。
 しかし、大学に30年いてわかったことは、教育については「あらゆる教育プログラムが滑らかに進行し、学生たちの顔が知性と歓喜に輝いていた“教育の黄金時代”をもう一度甦らせよう」というタイプの「物語」が教育者を「やる気」にさせる上でもっとも効果的であるということである。
 大学のような人的資源「だけ」がほとんど唯一の駆動力であるシステムにおいては、「教師のやる気」をどうやって恒常的に高揚させ続けるかということがマネジメントの基本である。
 ところが、大学教育に参入してきた“ビジネスマン”たちの中に、「大学という特殊なシステムにおいて教職員のパフォーマンスを継続的に高止まりさせるにはどうしたらいいのか?」というふうに問いを立てる人間はみごとにひとりもいなかった。
 彼らは「どうやって教職員を脅し上げ、萎縮させ、従順にさせ、馴致させるか」ということばかり考えてきた。
 そうやれば「給料分の仕事はするだろう」と思ったのである。
 たしかに、そうすれば多くの人は「給料分の仕事をする」ようになる。
 けれども、それは同時に「給料分以上の仕事をしていた人々」からフリーハンドを奪うことを意味している。
 教育の現場は「給料分以上の仕事(場合によってはその10倍、20倍分の仕事)をする人々」が一定数恒常的に存在することで保っているということを忘れてもらっては困る。
 そういう人たちがまったく自発的に「給料分の仕事をしない」教職員(もちろん、たくさんいる)の不足分を補う以上のことをしているから教育現場は回ってきているのである。
 ところが、「給料分の仕事を、Job description 通りの仕事をしろ」ということは、オーバーアチーブの機会そのものを奪うことになる。
そのリスクに対してビジネスマインドな人たちはあまりに無自覚である。
 教育上のオーバーアチーブというのは、平たく言えば、「レギュラーな教育活動以外のことを、大学の内外で、公的資源も私的資源もごっちゃにして、管理も統制も受けないで気ままに行う」ことだからである。
 そのようなアナーキーを管理的マインドの勝った経営者は許さない。
 だから、ビジネスマインドで経営される大学では、たしかに大学構成員のあれこれの議を経ることなしに、トップダウンで次々と機構改革が行われ、教育プログラムが刷新されて、すばらしい「ハコ」はできあがるのだが、それにつれて、実際にそれを機能させなければならない教職員たちの「やる気」はどんどん劣化してゆくのである。
 教職員の全員に「給料分の仕事をきちんとさせるシステム」を作ると、教育現場のパフォーマンスは低下する。
 「全員に給料分の仕事をきちんとさせるシステム」は「やりたい人間は給料分以上の仕事をいくらでもできるシステム」とは共存できないからである。
 システム管理の原理において、この両者は氷炭相容れない。
 私たちはどちらかを選ぶしかない。
 そして、凡庸なビジネスマンは決して後者を選ばないのである。












教育とは、ビジネスマインドと相性が悪い。それは教育の現場には給料以上にやる人間がいるので回ってきたからであり、給料以下の働きの人間が出ても、給料以上に働く職員が働きやすいようになっていたからである。一方ビジネスマインドでは給料以下の働きの人間を給料通りに働かせることを目標にするので、教育者を萎縮、従順、馴致させることを中心にすることになる。したがって、給料以上に働く人間もビジネスマインドのシステムに入ることになると、のびのびと仕事ができなくなるのである。




※ 題名に対比があるので、対比を軸にした。ビジネスマインド教育
※ 題名が分かりやすいので、最初に結論を書いて、対比の軸として各々を説明して導入にした。
※ 対比の説明は「一方」「他方」で行った。(二重性の展開。逆説を使っても説明できる)



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