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国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

中高生のための内田樹(さま) その39

2019-09-09 14:08:28 | 中高生のための内田樹(さま)
●東大の問題の続きをする前にどうしても気になる文章が掲載されたので読んでほしい。

●設問は小論文の形式をとってみたが文章でなくても図でもかまわない。結論はでなくてもかまわない。

●国語屋の私と一緒に考えてほしい。そして解答例をもしよければ教えてほしい。

●そろそろ内田樹式思考、内田樹脳もできている頃なので考えてほしい。



問い 査定なしに「自分のボイス」を発見し、「自分のボイス」を獲得するような国語教育をするためにどのような組織でどのような教育を行うべきだとあなたは考えますか。組織は学級、学年、学校でも、塾でも、NPO法人でもかまいません。年齢もいくつでもかまいません。また、教材などが必要な場合はそれについても考えなさい。

 査定をしないで、能力を開花させるためには、何をなすべきか。ここから(中略)国語教育の話になります。
 子供たちが開花させることになる国語の能力とは何か。僕はそれを「自分のボイス (voice) を発見すること」だと思います。子供たち一人一人が「自分のボイス」を発見し、「自分のボイス」を獲得する。極言すれば、国語教育の目的は、その一つに尽きると思います。小学校から大学までかけて、「私は自分のボイスを発見した」と思えたら、その人については、国語教育はみごとな成功を収めたと言ってよいと思います。
 最初に、「私のボイス」という言葉を知ったのは映画からです。『クローサー』という映画がありました。映画自体はどうということのない凡作なのですが、その中にこの台詞が出て来た。一人の男(ジュード・ロウ)が町中で若い娘(ナタリー・ポートマン)を拾ってタクシーに乗るシーンがあります。タクシーの中で、ナタリー・ポートマンが「あなた仕事、何してるの?」と聞くと、「新聞記者だ」と答える。そして、「でも、僕はまだ自分のボイスを発見していないんだ」と続ける。その時に「ああ、適切な表現があるな」と思いました。記者にも「自分のボイスをみつけた者」と「自分のボイスをまだみつけていない者」がいて、自分のボイスを見つけない限り、決してほんものの記者にはなれない。
 
 みなさんも多分、「自分のボイス」に出会った経験があると思うのです。例えば、子供のときに、小学校か中学校か、すごく仲のいい友だちが出来て、親友になった。あるいは、もう少し大人になって、はじめて恋人ができた。そういう初めて親友ができたときと、初めて恋人ができたとき、時間を忘れて話しますよね。駅のベンチとか土手の上とかで、それこそエンドレスにずっと二人で話し続ける。自分の話をするし、相手も自分の話をする。そのときに話すことはしばしば「この話、生まれて初めて人にするんだけれど・・・」という前置きで始まりますよね。
 これまでに友だちや家族に向かって話したことのある「いつもの話」をまた繰り返すわけじゃないんです。親友や恋人にする話はそういう「手垢のついた話」じゃない。全く新しい、できたての、それまで、一度も脳に浮かんだことがなかったような過去の記憶がふっと生々しく蘇ってくる。あるいは、同じ出来事についてなんだけれど、まったく違う視点から、違う解釈をする。「これまでずっとあの出来事は『こういう意味』だと思っていたけれど、それとは違う、もっと深い意味があったんだ」いうような話を始める。
 そして、そういう話はだいたいオチがないんです。勢い込んで話し始めるんだけれど、途中でぷつんと途絶してしまう。でも、それでも平気なんです。そういう頭も尻尾もないし、オチもないし、教訓もないような話が次々と湧き出て来る相手のことを親友とか恋人とか呼ぶわけですから。そういう話をしているときに、人は「自分のボイス」に指先がかかってきたことを知る。
 子供たちを見て、「まだ自分のボイスを発見していないな」ということは聞いていると分かります。独特のボキャブラリーや、独特の話し方をしていても、「前にして、受けた話」を変奏して繰り返しているなら、その子はまだボイスは持っていない。オチがあったり、教訓があったり、笑いどころのツボが決まっていたりするような話をしている人間はまだ自分のボイスを持っていない。
 ボイスというのは、単なる「声」ではないんです。自分の中の、深いところに入り込んで行って、そこで沸き立っているマグマのようなものにパイプを差し入れて、そこから未定型の、生の言葉を汲み出すための「回路」のことです。
 その回路はいろいろなかたちをとります。語彙であったり、音調であったり、リズムであったり、速度であったり、文字列のグラフィックな印象であったり・・・いろいろなかたちをとりますけれども、とにかく自分の中の言語活動を烈しくドライブしてくれる「きっかけ」です。
 村上春樹さんは自分の文体のことを「好きだ」とどこかで言ってました。自分の文体は性能のよいヴィークルで、自分を遠くに運んでくれるから、というのがその理由でした。ここで村上さんが「文体」と言っているのは、僕の言う「ボイス」と同じものだと思います。

 イタリアの田舎の方に行くと、17世紀頃に作られた古いバイオリンが民家にしまってあったりするそうです。そういうオールド・バイオリンは音は小さいのです。音は小さいのだけれども、イタリアの石造りの家のいくつもの壁を通って、遠くの部屋でも聴き取ることができる。
 これも多田先生から伺った話ですけれども、「声を出すときは、オールドバイオリンのような声を出さなければいけない」と。声が低くても、音量が小さくても、遠くにいる人の身体に浸み込むような声というのがある。先生は発声器官の使い方について言っているのではないと僕は思います。そうではなくて、「自分のボイス」をみつけなさいと言っているのだと思う。「自分のボイス」を見つけた人がその「ボイス」で語られた言葉は、できあいのストックフレーズや、何度も話して手垢のついた定型句とは全然手ざわりが違うからです。それはオールド・バイオリンの音色ように、身体に浸み込んでくる。
「ボイス」というのは、自分の中に入り込んでゆく「回路」です。自分の中の、身体の深層に浸み込んでゆく。自分の身体に浸み込むことができないと「自分のボイス」は獲得できない。「身体の中に浸み込む」というのが「ボイス」の本質的な条件なんです。自分の身体の奥深くに浸み込むことで生まれた言葉は、他人の身体にも浸み込む。「ボイス」というのはそういう浸透性を持つ言葉のことなんです。
(中略)
 子供たちに必要な国語教育は、漢字を書けるとか、文法がわかるとか、古典が読めるとか、そういうこともとても大事ですけれども、一番大事なのは、自分の中に垂鉛を垂らしていけるということです。自分の中に、言葉が生まれる深層がある。そこまで降りていけるということです。とりあえず、他人のことはどうでもいいのです。コミュニケーションとか、メッセージとか、そういうことは二の次なんです。人が自分の中に深く入っていって、そこから汲み出した言葉は、必ず、他人の深いところにも浸み込んでゆく。自分がしゃべっていて、すとんと「腑に落ちた」話は、コンテンツの論理性とか整合性とかとは無関係に、他人が聴いても「腑に落ちる話」なんです。自分の頭じゃなくて、身体が納得できる説明なら、他人の身体も納得してくれる。
 国語教育の責務は、子供たちが「自分のボイス」を発見する、長く、苦しいエクササイズを支援することだと思うのです。その作業は周りにいる誰かと相対的な優劣を比較したり、出来不出来を査定したりするものではない。一人一人の問題なんですから。
 でも、「自分のボイス」を獲得した子は、すごく生きやすくなると思います。何よりも、自分が複雑な人間だと分かるから。自分の中に複数の層があって、自分のボイスというのは本質的に「多声的 (polyphonic)」なものだと分かる。幼児の泣き声も老人の繰り言もおばさんのおしゃべりも少年の照れも知識人の衒いも、自分の中には全部揃っている。それらはすべて自分が使うことのできるリソースとして自分の中にある。そんな言い回し生まれてから一度も使ったことがない・・・というような言い回しでも、僕たちは滑らかに発語できる。
 子供たちも実際には「自我は首尾一貫していなければならない」という縛りで苦しんでいるんです。親からの「あなたはこういう人間だから」という決めつけや、学校で仲間の中で決められて押し付けられた「キャラ」によって、言動が首尾一貫していることを求められる。そのことに子供はうんざりしている。でも、どこかで「アイデンティティーというものは一貫していなければならない」と思い込まされている。そんなの無理なんです。少し自分の中に深く入り込んでゆくと、そんな薄っぺらなセルフイメージとはまったく相容れない感情や思念や記憶が渦巻いているわけですから。子供たちの貧しいセルフイメージにうまく収まり切らない過去の経験や感情は抑圧されて「なかったこと」にされている。それが深層の奥底に黙って沈殿している。
「自分のボイス」を発見するというのは、これまで自分で自分について抱いてきたセルフイメージや、周りの人間に向かって宣言していた「オレはこういう人間だ」という社会構築的なアイデンティティーとはぜんぜん違う要素が自分の中に豊かに存在することを知るということです。自分は複雑な人間なのだということを知るということです。
 生物の進化というのは、複雑化ということです。単細胞生物の時代から 60 兆の細胞によって構成された多細胞生物にまで進化してきた。進化が複雑化であるなら、個人の成長も複雑化であるに決まっています。
 多くの人は成長というのをアイデンティティーの確立のことだと思っている。「自分が何ものであるかが、よくわかり、それを過不足なく表現できるようになること」が成長だと思っている。そんなわけないじゃないですか。まるで逆ですよ。成長するというのは複雑になるということです。
 理由は簡単で、複雑な生物の方が生存戦略上有利だからです。複雑な生き物の方が、複雑な状況に対応する能力は高い。単細胞生物は捕食者から逃れ、餌を食べる以上のことはできない。そもそもそれ以外の入力には対応できない。でも、人間たちを取り囲む環境は複雑です。その環境の中で適切にふるまうためには、自分も複雑になってみせるしかありません。
 どんな場合でも「自分らしく」生きたいというような言い方を好む人がよくいますけれど、どんな複雑な状況にも単純に対応するというのは、知的負荷は少ないですけれども、それは環境の変化に適切に対応することと逆方向に退化していることです。
 成長とは複雑化のことである。日本の学校教育はこの自明の前提を見落としているように見えます。「もっと複雑になりなさい」ということをなぜ教育目標に掲げないのか。「自分の心と直感に従う勇気を持つ」ことも、「そのうち何とかなるだろう」も、「自分のボイスを発見せよ」も、「複雑化しろ」も、日本の学校では教えられない。逆に、恐怖心を持つこと、未来の未知性に怯えること、定型的な言葉づかいを身につけること、アイデンティティーにしがみつくことを教えている。逆じゃないですか。
 学校教育の目標は子供たちを成長させることであり、成長とは複雑になることです。だとしたら、教師の仕事は、子供たちが複雑化することを支援することに尽くされる。子供たちが、親に見せる顔と友人に見せる顔と教師に見せる顔が全部違う。そのつど、その環境に最適化して、別の人間のような言葉づかいをして、別の人間のようにふるまうことがごく自然にできる。だって、それらは「別の人間」ではなくて、「全部自分」だから。それが成熟ということだと僕は思います。




●ほぼ全文はこちら
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中高生のための内田樹(さま) その38

2019-08-27 15:38:50 | 中高生のための内田樹(さま)
●ついに「東京大学」の問題に手を出すことにしました。

●解答例にご不満な方もいらっしゃるとは思いますが、「中高生のための内田樹」でございます。

 ある程度背伸びした中学生にも通じる解答例にした次第です。

●したがって、解説もあっさり目に





次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 ホーフスタッターはこう書いている。
 反知性主義は、思想に対して無条件の敵意をいだく人びとによって創作されたものではない。まったく逆である。教育ある者にとって、もっとも有効な敵は中途半端な教育を受けた者であるのと同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人びとであり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない。
(リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』田村哲夫訳、強調は引用者)
 この指摘は私たちが日本における反知性主義について考察する場合でも、つねに念頭に置いておかなければならないものである。反知性主義を駆動しているのは、単なる怠惰や無知ではなく、ほとんどの場合「ひたむきな知的情熱」だからである。
 この言葉はロラン・バルトが「無知」について述べた卓見を思い出させる。バルトによれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。実感として、よくわかる。「自分はそれについてはよく知らない」と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。ァそのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。その人においては知性が活発に機能しているように私には思われる。そのような人たちは単に新たな知識や情報を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えているからである。知性とはそういう知の自己刷新のことを言うのだろうと私は思っている。個人的な定義だが、しばらくこの仮説に基づいて話を進めたい。
(内田樹「日本の反知性主義者たちの肖像」)



問い 傍線部ア「そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人」(傍線部ア)とはどういう人のことか、説明せよ。








【分析・対応】現代文の解法レジュメ論述問題演習など参照のこと。

要素①そのような身体反応
  「指示語+身体」と、まあ、現代文的にはおいしいが難しい部分。身体の説明が難しい。こういうときは本文に身体表現が前方(指示語があるからね)にあるかをチェック。すると「腑に落ちたか」の「腑」がにくづきで身体の一部。ここを生かすと易しい答えができる。

要素②さしあたり
  「さしあたり」は「現在のところ」といった意味。なので、ここより前の範囲で(せめて同じ段落で)解答してねという意味とした。

要素③対比の視点
  この段落は「ロラン・バルトが『無知』について」書いた部分を前提としている段落。普通の無知ではないバルト独特の部分が良い。今回は「自説に固執する」を否定することで解答に二重性を与えた。
 (注)むろん、傍線部よりあとの「自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えている」を使用してもかまわないが、段落の視点と字数的な扱いやすさで「自説に固執する」を使用している。

要素④直後の内容
  「知性的な人」と感じるような解答にすること。

要素⑤理非
  できれば言い換えたいところ






【解答例】
自説に固執することなく他人の意見を聞き、自分が腑に落ちたかを基準として正否を決めていく人。



※難しいと思った人は気にせずに本文→解答→【分析・対応】の順で読んで解答がどうできたかを理解しよう。

 解答の意味さえ分かればいい。なにせ東京大学の問題なのだから難しいのは当たり前。

 現代文が苦手な方はこちらの記事も参照してくだされ。



「日本の反知性主義者の肖像」の収められている『日本の反知性主義』の前書きも読んでおこう。
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中高生のための内田樹(さま) その37

2019-07-08 19:14:37 | 中高生のための内田樹(さま)

未完成の設問やら解答やらを載せてみることにした。
作問者がどんな手順・思考・手触りで問題を作っているかを知る一助になれば幸いである。また設問や解答を完成させることができればかなりの力がついていくだろう。そして、別の設問、解答を作ってくださった方がいたとしたら、私は非常に喜ぶだろう。




次の文章を読んであれこれと考えなさい。

『態度が悪くてすみません』
119頁より

「知性が起動する瞬間」

 私の所属する学科で、は卒業論文の中からすぐれたものを選んで「優秀論文集」を編み、学生に配布するということを数年前から実施している。がんばった学生を顕彰するためでもあるし、学術論文の書き方のお手本をこれから卒論を書く学生に示す教化的ねらいもある。
 同僚のゼミの指導員が選んでくれたその論文数編を一日かけて読んだ。
 不思議な印象が残った。
 それは手触りが「やさしい」ということである。文章について「手触り」という言い方をするのも妙だけれど、そうとしか言いようがない。
 これまでの「優秀論文」はどちらかというとかちっと書かれたものが多かった。印象的な形容ばかりで申し訳ないが、「かちっと」というのは、「定型を守っている」ということだけでなく、「文章に圭角(けいかく)がある」ということであり、それは既存の「理説」や「政治的正しさ」に依拠して分析対象をばっさりと一刀両断するような語り方を採用しているということでもある。その風儀がずいぶん希薄化したように思われる。大所高所から一刀両断するような文章は少なく、書いている学生の息づかいや体温のようなものがにじみ出した文章が続く。
 読んでいるうちに、いくつかの論文で兆候な文型が繰り返し現れることに気がついた。それは「……という主張……という主張があるが、私にはどちらとも言い切れない」というものである。
 こういう文章を読むと、私はほっとする。
「私にはわからない」という判断留保は知性が主体の内側に切り込んでゆくときの起点である。「なぜ、私はこのクリアカットな議論に心から同意することができないのか」という自問からしか「まだ誰もことばにしたことのない思考」にたどりつくことはないからである。
 知性がまさに起動しようとしている瞬間に立ち会うとき、教師というのはいい仕事だなと思う。




以下はすべて未完成の設問、解答らである。参考にしなさい。

(解答例A)
今までの「政治的正しさ」や・・・に依拠しないでやさしい判断保留をするのは新しい知性の起動瞬間だから。

(設問例と解答例B)
設問 「やさしい」に価値を見出しているのはなぜか。
一刀両断だと知性の起動する瞬間ではないから。

(設問例と解答例C)
設問 「不思議な印象」とはどんな感覚か。
本来、論文は・・・


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中高生のための内田樹(さま) その36

2019-06-01 11:00:00 | 中高生のための内田樹(さま)




しあはせ考


 薪能(たきぎのう)で狂言『仏師』を見た。狂言は室町時代の笑劇であるが、能の詞章に比べると、言葉がちょっとわかりやすい。「なかなか」というのが「はい、そうです」、「たのうだひと」が「ご主人さま」、やるまいぞ」が「待て!」というくらいのことは狂言をはじめて見る中学生でもわかる。だが、現代語と同一の語でニュアンスの違う語が出てくると、逆にうまく呑(の)み込めない。
 「しあはせ」というのが私に呑み込めなかった語である。
 『仏師』は都の素ッ破(すっぱ・悪漢、詐欺師)が仏師を探して都にくる田舎者を、偽仏師に化けてさんざんからかうという笑話である、その素ッ破が舞台に登場してくるときに、最近どうもいいことがないので、「何事にもさわたり、しあはせを直そうと存ずる」(なんでも試してみて、ツキを変えてみるつもりである)という決意表明を述べる。そして騙(だま)す相手となる田舎者をみつけたときには「そなたはしあはせのよいお方じゃ」と評する。
 「しあわせを直す」とか「しあわせがよい」という言い方を私たちはしない。私たちは「しあわせである」とか「しあわせでない」というふうに言う。この差異はどこから来たのか、狂言を見ながら考えた。
 「あいあわせ」は古くは「仕合はせ」と書いた(今でもそう書く人はいる)。それは「仕合わす」、つまり「物と物をきちんと揃える」を意味する動詞の名詞化したものである。だから、「しあわせ」とは本来「合うべきものをぴたりと出会うようにする」という他動詞的な働きかけの結果を言ったのである。
 『仏師』では「仏買います」と田舎者がよばわるのを聞きつけた素ッ破が「それがしに会ったのがしあわせでござる」と応じる。つまり、一方に仏師を探す田舎者がおり、他方にクライアントを探す仏師(のふりをした詐欺師)がおり、求める相手を探す二人がピンポイントで出会ったという事態をして「しあわせ」と称したのである。
 「しあわせ」の古義に含まれていて、現代語義から失われたものがあるとすれば、それは「しあわせ」が前提とした手間ひまであろう。「しあわせ」は「しあわす」人がいてはじめてもたらされる。「しあわす」という主体的意思と行動を抜きにして「しあわせ」は到来しない。
 現代人にとって「しあわせ」は当人の努力や決意とかかわりなしに「あちら」から来るものである。それは私の主体的関与ぬきにたまたま天から降ってきたものであるから、長くは続かない。それは来たときと同じように不意に立ち去るだろう。私たちはそんなふうに考えている。
 「しあわせがよい」のが偶然的である以上、仮に「しあわせが悪い」状態にあっても、私たちはそれを自分の責任であるとは考えない。
 そんなふうにして私たちは「しあわす」という行為が存在することを忘れた。
 今、「しあわせ」は「うざい」とか「きもい」とか「むかつく」と同じように、不意に私たちに取り憑(つ)く得体の知れない情緒的な飛来物のようなものとして観念されている。だから、現代人は「うざい」以下の否定的形容辞が示す心的状態もまた、その人自身の努力と決意の産物である可能性には決して思い至らないのである。
『態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い』121頁より

問い 傍線部「情緒的な飛来物のようなもの」を「しあわせ」について説明しなさい














【解答例】
自分の「しあわせ」という感情は、本来、他人との望ましい出会いに対して自分の主体的関与という努力や決意といった手間ひまと関係があるはずなのに、主体的意思もなく原因もわからずにたまたま運よく手に言えれた好ましい感情のこと。



●内田樹著『態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い』(角川新書)について角川書店へのリンクはこちらになります。
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中高生のための内田樹(さま) その35

2019-05-01 12:00:00 | 中高生のための内田樹(さま)
●令和元年のスタートは内田樹さまから始めたい。

●文章が短いので、解答するのは難しいやもしれない。




次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 国語教育より英語教育に優先的に資源を配分しろ、大学の授業はできたら全部英語でやれとうるさく言い立ててる人たちは、コミュニケーションとはクリエーションであるという言語の根本的なところを理解していない。人間は母語においてしか新しいアイディアを生み出しえないという言語の根源的事実を理解していない。
 われわれが新しい、前代未聞のアイディアを得るのは、自分が何を言うつもりなのかはわからないまま話し始めるときです。現に自分が語っているセンテンスがどう終わるのか、予測がつかないままに話し始め、言葉を連ね、気がつくと句点を打っている。そして、言い終えた後にはじめて自分が何を言ったかを回顧的・事後的に知る。そういう順逆の転倒のしたかたちでしか言語における創造ということは起きません。そして、そういうことができるのは母語においてだけなのです。
           『日本の覚醒のために』晶文社P227



問い 作者が英語教育に否定的な理由を説明しなさい。










<解答例>
英語を母語のように扱えないかぎり、一度完成した文を翻訳することになるので、予測がつかないままに話し始めることによって新しいアイディアを出せる国語教育の方を優先させるべきだから。






『日本の覚醒のために』はこちらからお探しください。できれば購入をしてください。

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中高生のための内田樹(さま) その34

2019-04-02 11:00:01 | 中高生のための内田樹(さま)


次の文章を読んで後の問いに答えなさい。


(だって、)幸福に生きたいと思ったら、とりあえず、家族となごやかな関係をとりむすんでいることが必要だし、集団の中である程度敬意をもって遇されていることが必要だし、親しく信頼できる友人がいることが必要だし、抱きしめてくれる恋人が必要だし、通貨が安定していることが必要だし、国際関係が対話的であることが必要だし、エコシステムが維持されていることが必要だし……というふうに、ほんらいどんどん幸福の条件というのは外に向けて拡大してゆくはずのものでしょう。
 そうじゃないと幸福になれないから。だって、いくら親しい家族や恋人がいても、核戦争が始まったり、地球生態系が崩壊したら、もう幸福ではいられないんですから。
 ホッブスやロックが近代市民社会論を書いたときに近代の市民に対して「利己的にふるまう」ことも勧めたのは、人々が自分の幸福を利己的に追及すれば、結果的に必ず自分を含む共同体全体の福利を配慮しなければならなくなる、と考えたからです。利己的な人間は必ず家族や友人の幸福を配慮し、共同体の規範を重んじ、世界の平和を望むはずだ、と考えたのです。だから、個人が利己的に行動して己の利益を最大化するべく努力をすることを共同体の基礎にしたのです。
 今問題になっているのは、そのような「ほんらいの利己主義」の意味が見失われている、ということではないでしょうか。
 利されているのは、「己」ではなく、「己」を構成するごく一部でしかない局所的快感や幻想的な欲望です。それが「己」の地位を占有し、独裁的な君主の地位にあります。そして、「己」を構成するほかの「局所的な要素」に向かって、全力をあげて、この狭溢なる「己」に「奉仕せよ」と命じているのです。
 「むかついて」人を殺す若者や一時的な享楽のために売春やドラッグに走る若者は「利己的」なのではありません。「己」が縮んでいるのです。「自己中心的」なのではありません。「自己」がほとんどなくなっているのです。
 ぼくが学生たちに言っているのは、「もっと利己的に行動しなさい」ということです。
 ここで言う「己」とは、瞬間的な劣情や怒りや憎しみのことではありません。もちろんそのようなものを含んでいますけれど、それ以外の無数のファクターを取り込んだ、開放的なシステムです。それをどうバランスよいしかたで立ち上げるか、それが一番たいせつなことなのです。
 でも。そのことをアナウンスする人は、ほんとうに驚くほど少ないのです。
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川文庫)20頁


問い 「ほんとうに驚くほど少ない」のは何故か。具体的に述べなさい。











【解答】
本来、利己主義とは開放的で家族関係や友人関係から地球の生態系や国際関係までも含むはずなのに、大多数の人はその「己」を瞬間的で内面的な劣情や怒りや憎しみでできていると思っているから。



※「具体的」と設問にあるので例を入れられる場合は入れておくとよい。
※「驚くほど少ない」の説明として「本来+逆接+大多数」の形をとっている。





本文を読みたい方はこちらから探してください。できれば購入して読んでくだされ。


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中高生のための内田樹(さま) その33

2019-03-03 17:45:39 | 中高生のための内田樹(さま)



次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 公立中学校の先生が去年一年私の大学院のゼミに聴講生として来ていた。おかげで教育の「荒廃」ぶりについて現場の声を伺うことができた。中でも印象的だったのは、子どもががらりと変化するのが、たいてい中学二年の夏休みだということである。夏休み前まではなんだかおどおどして、はっきりしない子どもだったのが、夏が終わると、髪の毛を茶色に染めて、昇降口に座り込んで、三白眼で教師をにらみつけて「うぜえんだよ」と追い払う……というふうに変貌してしまう。なるほど、思春期の自意識の混乱を、この子たちはこういうふうに処理するのか、と妙に納得してしまった。
 中学二年生頃の自意識の混乱というのを、私たちはもう忘れてしまっているけれど、あれはけっこう大変なものである。自分自身、自分が何を考えているのか、よく分からない。何か口にすると、そのつど「いや、こんなことが言いたいわけじゃない」という前言撤回の思いがせり上がってくる。何かをしても「いやこんなことがしたかったわけじゃない」という、自分自身の欲望との不整合感がぬぐえない。だから、思春期の少年少女のたたずまいというのは、ほんらい、「なんだか煮え切らないもの」なのである。口ごもり、言いよどみ、身の置き所がない……というのが思春期のシャイネスの「王道」である。
 ところが、「九月デビュー」の即興不良少年たちは、できあいの「不良の型」にすっぽりと収まることで、このシャイネスに「けりをつけて」しまった。一人一人の中学生が、感じている違和感はそんな簡単にでき合いの「型」にはめられるものではない。茶髪にしたり、ピアスをしたくらいで、ぴったりした自己表現の形態に出会いました、といほどステレオタイプな人間なんていやしない。不良少年たちとはいえ、それぞれに家庭環境も学校での立ち位置も言語能力も身体感受性も趣味嗜好も違うはずだ。それを全部「ちゃら」にして、レディメイドの「不良型」にすっぽり収まるというのは、相当いろいろなものを切り捨てることなしに達成できない力業である。思春期のシャイネスを「捨て値」で売り払うことによって、この子たちは、できあいのアイデンティティを買い取っているのだけれど、私はそれはずいぶんと不利なバーゲンのような気がする。でも、そういうシャイネスのたたき売りと「九月デビュー」を子どもたち自身は(場合によっては親や教師やメディアも)「個性の表現」だと錯覚している。そんな「定型への回収」をどうして「個性的」だなんて思い込めるのか、私には理解できないけれど、本人たちはそう信じて、思春期にけりをつける。
『態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い』(角川書店・角川oneテーマ21)71ページより


問い 傍線部「不利なバーゲンのような気がする」のは何故か












【解答例】
思春期のシャイネスや自意識の混乱という個々の人生にとって、時期の限定された貴重なものを捨てて、でき合いの型にはめこんでしまっているから。




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中高生のための内田樹(さま) その32

2019-02-10 18:41:48 | 中高生のための内田樹(さま)
●今回の文章で知っておいてほしいのは「負けしろ」である。

●むかし、専門学校で経済学を教えていた当初、GDPの説明のあとでこういう例を出していた。

 あるところに「風の谷」と呼ばれるところがあって、みんなで取れた食料を分け合い、その他のことも物々交換で生活をし、穏やかな生活をしていた。この谷のGDPはいくらくらいあると思う?

●答えはそう、GDPはゼロである。

●これは極端な例だが、決して「穏やかな生活」とGDPは比例関係にないことを知ってほしく出した問題(思考実験?)であった。

●そのあたりも踏まえて以下の文章に触れてほしい。



次の文章を読んで後の問いに答えなさい。


 (みんなが)心配しているような「思いがけないこと」が来ないと言っているんじゃありません。それはやっぱり来るんです。そして、システムががたがたになる。これは避けようがない。でも、日本は他の国とくらべると「負けしろ」の厚さがだいぶ違いますから。地震が来ようが、国債が暴落しようが、年金制度が崩壊しようが、そのときはそのとき、国が破れても山河が残っている限りは大丈夫です。なんとかなります。
 「負けしろ」が日本にはあります。
 それは豊かな自然です。国土の68%が森林なんです。これほどの森林率の国は先進国にはノルウェー以外にありません。多様な植生があり、さまざまな動物が繁殖し、きれいな水があふれるように流れ、強い風がよどんだ大気を吹き払う。日本のこの自然環境には値札がつけられません。
 経済の話をするとき、エコノミストはみんな「フロー」の話しかしません。でも、日本には「眼に見えないストック」があります。目の前にあるのでありがたみがわからないのですけれど、改めてそれを金を出して買おうとしたら1000兆円出しても買えないような資産です。それはまず自然資源です。飲料水がいくらでも湧き出ている。水のほとんどをマレーシアから輸入しているシンガポールから見たら羨ましくなるほどの資産です。
 でも、日本人は自分たちがそんな豊かな資産を享受していることを知りません。
 第二が銃による犯罪がほとんどないこと。アメリカは銃で年間3万人が死んでいます。一昨年、日本では銃による死者は年間4人でした。殺人発生件数もほぼ世界最低です。このレベルの治安を仮にアメリカやメキシコやブラジルで実現しようとしたら国が破産するほどの天文学的なコストを要するでしょう。
 それだけの資産がとりあえずここにある。
 その他に温泉もあるし、神社仏閣もあるし、伝統芸能もあるし、ご飯は美味しいし、接客サービスは世界一だし・・・、国民的な「ストック」はさまざまにあるわけです。
 でも、経済成長論者の方たちはこのストックをゼロ査定しておいて、フローがないカネがないと騒いでいる。日本がほんとうは豊かな国であること、みんなでフェアにわかち合えば、ずいぶん愉快に暮らせることをひた隠しにしている。そして、経済成長しなかったらもすぐに国が滅びるというような煽りをしている



問い「煽りをしている」とあるがなぜ煽るのか。








<解答例>
経済成長論者やエコノミストはフローやカネといった数値化できる既存のシステムの中で生きているので、そのシステムが崩壊したときの「負けしろ」や「目に見えないストック」の中で生きる未知の世界を否定したいから。





※ 数値化できる・・・目に見えないの反対表現






全文はこちら「GQの人生相談6月号」になります。
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中高生のための内田樹(さま) その31

2019-01-21 13:33:33 | 中高生のための内田樹(さま)
日本の私学を代表するW大学とM大学が同じ年に内田樹さまの『街場の現代思想』のほぼ同じ箇所が入試に出題されていたことがある。

で、だ。

この際、「大学の中の人」の考え方をこの文章で知ろうではないかというのが今回の記事の主眼である。

傍線の引いてあるところの問題はどういう問題だったか。空欄の問題は選択肢か本文中から抜き出せか。

両大学の出だしが違うのはなぜか。長いとどういう問題が作られていたか。

などなど、諸君が考えることは多くある。

出題者の思考や心情(これくらいはできてくれよみたいな、ここに傍線を引いた私は偉いなぁみたいな)を理解する一助になれば幸いである。


M大(青くしている)
傍線 ① ~ ⑥
空欄 A ~ C 【 】の部分

W大(★以降)(赤にしている)
傍線1・2
傍線A ~ D
空欄X ~ Y 【 】の部分



 ここに美しいカットグラスがあったとする。私はこれを大切に取り扱う。それはちょっとした不注意でそれが砕け散ることを知っているからである。だが、そんな気づかいをしないで済むように、踏んでも叩いても割れないグラスを使えばいいじゃないかと言われても、おいそれと肯(うべな)うわけにはいかない。どれほど造形的に美しくても、私は「割れないグラス」に①「割れるグラス」と同じような愛情を感じることができないからである。
 しかし、これは考えてみるとおかしな話だ、もし見た目も触感も同じであるとしたら、「まだ割れていないグラス」と「これからも割れないグラス」の間にはさしあたり有意な差はないはずだからである。にもかかわらず、私が「まだ割れないグラス」を「決して割れないグラス」よりも選択的に丁寧に扱うとしたら、その理由は一つしかない。それは、「まだ割れないグラス」については、それが手から落ちて滑り落ちて床に砕け散り、それが「もう割れてしまったグラス」になった瞬間に私が感じるであろう喪失感と失望を私が想像的に「先取り」しているからである。
 つまり、②「割れるグラス」の魅惑を今現在構成しているのは「それが失われた瞬間に立ち会っている未来の自分」が経験する喪失の予感なのである。
 今目の前にある「うつろいやすいもの」の美や儚(はかな)さはそれらの器物そのもののうちに内在するのではない。そうではなくて、「それが失われた瞬間に立ち会っている私」という先取りされた視座が作り出した「【 A 想像の効果】」なのである。私たちが「価値あり」と思っているものの「価値」はそれら個々の事物に内在するのではなく、それが失われた私たちが経験するであろう未来の喪失感によって担保されているのである。
★ ③私たちの人生はある意味で一種の「物語」として展開している。「私」は「私という物語」の読者である。読者が本を読むように私は「私という物語」を読んでいる。すべての物語がそうであるように、この物語においても、その個々の断片の意味は文脈依存的であって、物語に終止符が打たれるまでは、その断片が「ほんとうに意味していること」は読者には分からない。
 それは「犯人がなかなか分からない推理小説」を読んでいる経験に似ている。怪しい人間が何人も登場するが、どれが犯人かさっぱり見当がつかず、プロットはますます錯綜してきて、こんな調子で果たして残された紙数でもちゃんと犯人は言い当てられ、不可解な密室トリックのすべては明かされるか、読者は不安になる。しかし、その不安は本を読む楽しみを少しも減Aするものではない。それは、どれほど容疑者がひしめきあい、どれほど密室トリックが複雑怪奇であっても、「探偵が最後には犯人をみごとに言い当てること」についてだけは、読者は満腔(まんこう)の確信を持って物語を読んでいるからである。
 結末がまだわからないにもかかわらず、私たちは「いかにも結末らしい結末」が物語の最後に私たちを待っているであろうかということについては、いささかの不安も感じていない。私たちが物語を楽しむことができるのは、仮想的に想定された「物語を読み終えた私」が未来において、現在の1読者の愉悦を担保してくれるからである。もし、終章で探偵が犯人を名指しして、すべての伏線の意味を明らかにすることなしに小説が終わってしまう「かもしれない」と思っていたら、私たちは推理小説を愉しむことはできないだろうし、そもそも、そんな小説を手に取りさえしないだろう。
 私たちの人生もそれと同じく「犯人がまだ分からない推理小説」のように構造化されている。けれどもそれにもかかわらず私たちが日々のどうということもない些末(さまつ)な出来事をわくわく楽しめるのは、それが「2巨大なドラマの伏線」であったことを事後的に知って「なるほど、あれはそういうことだったのかと腑に落ちている「【 B 未来の私】」を想定しているからである。私たちの日々の【 C 散文】的な、繰り返しの多い生活に厚みと奥行きを与えるのは、今生きている生活そのもののリアリティではない。そうではなくて「私の人生」という物語を読み終えた私である。
 ジャック・ラカン(注フランスの精神分析者)はこのような人間のあり方を「人間は前未来形で自分の過去を回想する」という言い方で説明したことがある。「前未来形」というのは「明日の三時にこの仕事を終えているだろう」という文型に見られるような、未来のある時点においてすでに完了した動作や状態を指示する文型である。
 私たちが自分の過去を思い出すとき、私たちはむろん「過去に起きた事実」をありのままに語っていない。私たちが過去の思い出を語るとき、私たちは聴衆の反応に無関心であることはできないからだ。あるB逸話について聴き手の反応がよければ「おお、この種の話は受けがいいな。では、この線で行こう」ということになるし、ある逸話についての反応がかんばしくなければ「おっと、この手の自慢話はかえって人間の価値を下げるな」と軌道修正を行う。私たちが自分の過去として思い出す話は、要するにその話を聞き終わったときに、聴き手が私のことを「どういう人間だと思うようになるか」をめざしてなされているのである。話を聞き終わった未来の時点で、聴き手から獲得されるであろう【 Ⅹ 人間的な信頼や尊敬や愛情】をめざして、私は自分の過去を思い出す。④このような人間の記憶のあり方をラカンは「前未来形で語られる記憶」と称したのである。
 それと同じことが、私たちが私たち自身の現在を物語として「読む」ときも起きている。私たちは、⑤今自分の身に起きている出来事(人間関係であれ、恋愛事件であれ仕事であれ)が「何を意味するのか」ということは、今の時点で言うことができない。それらの事件が「何を意味するのか」は百パーセントで文脈依存的だからである。
 「その事件が原因で私はやがてアメリカに旅立つことを余Cなくされたのであった」とか「その恋愛事件がやがて私の思いもよらぬ悲劇を引き起こそうとは誰一人知るよしもなかった」とか「【 Y 結果的にそのとき病気になって転進したことが幸いして私は震災を免れたのである】」とかいうナレーションは、物語を最後まで「読んだ私」にしか付けることができない。
 私たちはその「ナレーション」をリアルタイムでは聞くことができない。
 しかし、それにもかかわらず、私たち自身が恋愛事件のクライマックスや喧嘩(けんか)の修羅場を迎えているときに、その場の登場人物の全体をD俯瞰(ふかん)するカメラアイから自分を含む風景を見下ろし、そこに「ナレーション」がかかり、BGMが聞こえているような「既視感」にとらわれることがある。というか、⑥そのような既視感にとらわれることがなければ、私たちはそもそも自分が「クライマックス」に立ち会っているとか、「修羅場」に向かっているような文脈的な位置づけをすることができないはずである
(内田樹『街場の現代思想』による)




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中高生のための内田樹(さま) その30

2018-12-31 14:35:30 | 中高生のための内田樹(さま)
●今年、最後の記事は(私としては)力を込めて掲載し続けた「中高生のための内田樹(さま)」にした。

●中高生以外にも刺激となっている面があるといいなと思っている。

●来年はご著書からも引用して掲載を続けていきたいと考えている。

●ウチのブログは教育目的だよね(念押し)。



 
次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。


 大衆社会にはさまざまな特徴があるが、その一つは「視野狭窄」である。
 どうしてそうなるのかというと、大衆の行動基準は「模倣」だからである。
 オルテガが看破したように、「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」(『大衆の反逆』)
 彼らの行動準則は、「他人と同じであるか、どうか」だけである。
 何らかの上級審級に照らして正邪理非を弁ずるということをしない。
 「みんながやっていること」は「よいこと」で、「みんながやらないこと」は「悪いこと」というのが大衆のただひとつの基準である。
 これはある意味では合理的な判断である。
 上位審級(法律とか道徳とか宗教とか哲学とか)だって、ある程度までは「みんな」の支持を取り付けないと実効的には機能しない。
 少数の人間が「絶対これがいい」という選択肢と、多数の人間が「別にこれでもいいけど」という選択肢があった場合には、後者を選んでおく方が安全、というのはたしかな経験則である。
 だから、大衆社会の人々がほんとうに「みんな」がやっていることを是とし、「みんな」がやらないことを非としているのであれば、(オルテガ先生に逆らうようで申し訳ないけれど)、実は大衆社会というのはかなり住みよい、条理の通った社会なのである。
 では、なぜ大衆社会がこれほどあしざまに批判されるのかというと、問題は「みんな」という概念のふたしかさに起因するのである。
 るんちゃんが子供の頃、おもちゃを買って欲しいと言ってきたことがあった。
 「どうして?」と訊くと、「みんな持ってるから」と答えた。
 「みんな、って誰?」と重ねて訊くと、「うーんとね、なっちゃんとね・・・なっちゃんとね・・・なっちゃんとね・・・」
 そのときの「みんな」は一名様だったわけである。
 問題は「みんな」がどれほどの個体数を含むのかが「みんな」違うということなのである。
 ある程度世間を見てきて、世の中にはいろいろな人間がおり、いろいろな価値観や美意識や民族誌的偏見やイデオロギーや臆断があるということを学んできた人間はめったなことでは「みんな」というような集合名詞は使えないということがわかってくる。
 逆に、世間が狭い人間は軽々に「みんな」ということばを使う。
 彼の知っている「みんな」が考えていることは、その事実により「常識」であり、「みんな」がしていることは、その事実により「規範」たりうるのである。
 大衆社会がそこに住む人間にとって必ずしも安全でも快適でもないのは、「みんな」ということばの使い方がひとりひとり「みんな」違っており、それゆえ、「みんな」の範囲が狭い人間であればあるほど、おのれの「正義」とおのれの判断の適法性をより強く確信することができるからである。
 無知な人間の方がそうでない人間よりも自分の判断の合理性や確実性を強く感じることができる。
 それが大衆社会にかけられた「呪い」である。



問い 最終行 大衆社会にかけられた「呪い」 なのはなぜか。












【解答例】
範囲の狭い「みんな」に基づき行動・判断するという無知で幼稚な「大衆」の方がいろいろな人間がいると学んで範囲を広くとる人々より多いと、無知であるはずの大衆は自分の判断の合理性や確実性を信じて行動するので安全でも快適でもない社会になるから。




・「大衆」の部分と対比になっている人々を説明する
・「呪い」というマイナス表現を本文から探し出す
・いろいろと知っている人の反対語として「無知」を、また、るんちゃんの例から「幼稚」を使用した
・他にも「視野狭窄」などの語句を用いるのも可。



 全文はこちら「みんな」の呪縛より
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