国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

中高生のための内田樹(さま) その33

2019-03-03 17:45:39 | 中高生のための内田樹(さま)



次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 公立中学校の先生が去年一年私の大学院のゼミに聴講生として来ていた。おかげで教育の「荒廃」ぶりについて現場の声を伺うことができた。中でも印象的だったのは、子どもががらりと変化するのが、たいてい中学二年の夏休みだということである。夏休み前まではなんだかおどおどして、はっきりしない子どもだったのが、夏が終わると、髪の毛を茶色に染めて、昇降口に座り込んで、三白眼で教師をにらみつけて「うぜえんだよ」と追い払う……というふうに変貌してしまう。なるほど、思春期の自意識の混乱を、この子たちはこういうふうに処理するのか、と妙に納得してしまった。
 中学二年生頃の自意識の混乱というのを、私たちはもう忘れてしまっているけれど、あれはけっこう大変なものである。自分自身、自分が何を考えているのか、よく分からない。何か口にすると、そのつど「いや、こんなことが言いたいわけじゃない」という前言撤回の思いがせり上がってくる。何かをしても「いやこんなことがしたかったわけじゃない」という、自分自身の欲望との不整合感がぬぐえない。だから、思春期の少年少女のたたずまいというのは、ほんらい、「なんだか煮え切らないもの」なのである。口ごもり、言いよどみ、身の置き所がない……というのが思春期のシャイネスの「王道」である。
 ところが、「九月デビュー」の即興不良少年たちは、できあいの「不良の型」にすっぽりと収まることで、このシャイネスに「けりをつけて」しまった。一人一人の中学生が、感じている違和感はそんな簡単にでき合いの「型」にはめられるものではない。茶髪にしたり、ピアスをしたくらいで、ぴったりした自己表現の形態に出会いました、といほどステレオタイプな人間なんていやしない。不良少年たちとはいえ、それぞれに家庭環境も学校での立ち位置も言語能力も身体感受性も趣味嗜好も違うはずだ。それを全部「ちゃら」にして、レディメイドの「不良型」にすっぽり収まるというのは、相当いろいろなものを切り捨てることなしに達成できない力業である。思春期のシャイネスを「捨て値」で売り払うことによって、この子たちは、できあいのアイデンティティを買い取っているのだけれど、私はそれはずいぶんと不利なバーゲンのような気がする。でも、そういうシャイネスのたたき売りと「九月デビュー」を子どもたち自身は(場合によっては親や教師やメディアも)「個性の表現」だと錯覚している。そんな「定型への回収」をどうして「個性的」だなんて思い込めるのか、私には理解できないけれど、本人たちはそう信じて、思春期にけりをつける。
『態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い』(角川書店・角川oneテーマ21)71ページより


問い 傍線部「不利なバーゲンのような気がする」のは何故か












【解答例】
思春期のシャイネスや自意識の混乱という個々の人生にとって、時期の限定された貴重なものを捨てて、でき合いの型にはめこんでしまっているから。




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