九重自然史研究所便り

昆虫採集と観察のすすめ

4. フィリピンの動物相について考える

2015-09-28 11:18:36 | 日記

4.歴史
 フィリピンは日本人の間では16世紀中頃よりルソンの名で良く知られており、貿易船がマニラに入港していた。ヨーロッパ人の間では、マゼランが世界周航の途中1521年3月17日サマール島を遠望したのが最初の記録であった。マゼランは、現在、セブー空港のあるマクタン島の酋長ラプラプと戦って敗死し、生き残った部下たちがスペインへ帰還した。1565年以後スペインの植民地となり、フィリピンの名はスペイン王フィリップ2世の名に由来している。スペイン植民地時代は貿易風を利用してメキシコのアカプルコと往復する貿易が行われ、さらにメキシコ経由で本国スペインと連絡する航路が発達していた。
 米西戦争後の1898年よりアメリカの植民地となり、また太平洋戦争中は日本が占領したが、戦後1946年7月4日米国から独立して共和国となった。その日は今でもフィリピンとアメリカの友好デーとして祝日となっており、6月12日を真の独立記念日としている。これはスペイン支配に対する武力闘争中の1898年6月12日キャビテ市でフィリピン共和国の発足を宣言したという歴史的背景があるからだ。その時、現在の国旗が初めて公に掲げられた。フィリピン人は植民地支配に反抗してナショナリズム運動を開始したアジア最初の民族であることを誇りにしており、日本占領時代も対日ゲリラ活動が盛んであった。

3.フィリピンの動物相について考える

2015-09-28 11:02:16 | 日記

3.フィリピンの動物相について考える
 フィリピンの地理的位置と気候
 第一次隊が派遣された1969年は、羽田から日航ジエット機で出発すると、大阪と台北を経由して、約3時間の飛行でマニラに着いた。フィリピン諸島は北緯5度から19度の間にあり、7107の島々から構成されているが、人が住んでいるのはそのうち1000にも満たないという。面積299,000㎢、日本より少し狭い。諸島全体の長さは1,600km、東側に太平洋、西側に南シナ海があり、島々に囲まれた中央部には水産資源の豊かなスル海がある。太平洋側は最深10,540mのフィリピン海溝が諸島に沿って走っている。日本と同じく火山が多く、地震の多い国である。
 フィリピンは北東貿易風の吹く範囲に位置し、北東の風が卓越している。季節は雨期と乾期にわかれ、マニラ付近では11月から4月が乾期、5月から10月までは雨期が続く。しかし、雨期と乾期の時期は地域によって異なり、フィリピン諸島中もっとも南に位置するミンダナオ島ダバオ周辺ではほとんど年中降雨があり、明らかに乾期は認められない。平均気温は低地では大体27℃ぐらい、ルソン島北部の避暑地バギオでは18.2℃で大変涼しい。年較差はマニラでは4℃、われわれの調査地パラワン島プエルトプリンセサでは2℃、またバギオでは2.5℃で、年中ほとんど気温の変化がない。しかし日較差は大きく、プエルトプリンセサで1月下旬実際に測定した結果によると4-6.5℃の範囲で、特に夜は涼しい。奥地のジャングルでは日較差がもっと大きい。相対湿度はマニラでは年平均78%で、もちろん乾期は低く、雨期は乾期よりも約10%高い。フィリピンの気候は図版2−3に示したように降雨日数により4つの型に区分されている。

2.フィリピンの動物相について考える

2015-09-28 10:25:55 | 日記

2.フィリピンの動物相について考える
 私が「マレー諸島」の翻訳に使ったウォレスの原書A. R. WallaceのThe Malay Archipelago- The land of the Orang-utan and the bird of paradaise- A naturalist of travel with studies of man and natureは1969年11月29日マニラのエルミタの本屋で買った。この本は緑色の布表紙の古書で、ウォレスがマレー諸島から帰国して6年後の1868年に出版され、最初のページにはTo Charles Darwinとある。買った本は最後の改定版と思われる1890年版である。後に翻訳することになる私の愛読書との出会いだった。
 彼は最初フィリピン諸島を探検しようと考えていたことがこの本のどこかに書いてあった。確かに19世紀は大航海時代に次ぐ探検の時代であり、博物学者が積極的に19世紀のアジア地域を探検した記録はたくさんある。もちろん博物学の世紀とも称される探検・紀行も帝国主義がもたらしたものだが、私が嫌う拝金者コロンブスと違って純粋に動植物に魅せられて、多くは個人が取り組んだ探検であった。彼らが残した探検記・紀行記はオックスフォード大学出版から廉価なペーパバック版で再版されており、後に私はマレーシア滞在中それらをほとんど買い集め読んだ。
ウォレスのマレー諸島は他の出版社からも様々な版が出ており、東南アジアでは今も彼の人気は誰よりも高い(私の蔵書はすべて長崎大学熱帯医学研究所ミュージアムに寄贈した)。しかしいくら探しても19世紀のフィリピン事情を伝える探検記は1冊も見つからなかった。またフィリピンの動植物に関する日本語の本も1冊も見たことがない。マレー諸島と比べると距離的に少し離れており、ルソン島などはむしろ台湾に近い。私が主に滞在したのはパラワン島の刑務所なので、その島のことは詳しいが、他に私が滞在した島はルソン島、セブ島、ミンダナオ島、ミンドロ島の4島だけだから少し偏るがやむをえない。

琵琶湖博物館の庭を歩いていたモモスズメの幼虫

2015-09-27 23:55:07 | 日記

琵琶湖博物館の庭を歩いていたモモスズメの幼虫
 2015年9月22日、昼食時に中川さんのいる生活工房へ行った武田さんから博物館の庭で見つけたスズメガの幼虫が届いた。これは体長約60mm、緑色のモモスズメ終齢幼虫で、この時期サクラやウメ、モモなどに発生するスズメガはこの種だけである。体側の気門の前方から黄色の小さな隆起あるいは突起物が背面に向かって斜めに線状に並んでいるので7本の斜線が認められる。写真の幼虫は緑色一色だが、黄色を帯びる幼虫もある。九重昆虫記第3巻144ページに示したように、黄色の幼虫はそれぞれの斜線の前、背面に近い部分が茶褐色を帯びることがある。同書では2黄色幼虫の褐色斑紋の写真を示した。このような色彩変異は、九州ではよく見られ、実験的に確かめてはいないがおそらく高温時に見られる黒化の一種ではないかと思う。涼しくなってから見られるモモスズメ幼虫は緑色系が多い。モモスズメの幼虫で緑色のまま褐色の斑紋が現れることは私の経験では一度もない。必ず黄色の幼虫に褐色斑紋が現れる。また体色の緑から黄色への変化は中齢以後の脱皮時に現れるようだ。われわれはそれぞれの幼虫の色彩斑紋の出現は、その表現型に対応する遺伝子によって支配されていると考えている。しかし、一部のシャチホコガ科幼虫の体側の線は晩秋に出現する幼虫では黄色だが、夏出現する幼虫のそれは赤みを帯びる。どちらの色も同じ遺伝子の指示により作られる同一色素だが、生成される量が低温時と高温時で違い、それが見かけの赤と黄となって表れると理解するべきだろうか。それとも他の説明があるのだろうか。幼虫時の色彩は成虫になると季節型として影響を残すことも考えられる。
 成虫は初夏と盛夏の年2回出現する。1化の雌が産んだ卵から飼育した経験によると羽化するまで50日近くかかっている。つまり秋に見られる幼虫は蛹で越冬する。

琵琶湖博物館のワタ畑で見つかったオオミノガの蓑

2015-09-26 22:15:34 | 日記

琵琶湖博物館のワタ畑で見つかったオオミノガの蓑
 琵琶湖博物館関係のブログにいつも登場する武田さんから、2015年9月23日、生活工房の前の中川さんが植えたワタに大きな蓑がついていた、オオミノガだと思うが枯れ葉だけがついており、小枝がまったくついていないという。届いた二つの蓑は確かに葉ばかりついていて太い蓑であったので写真を撮ろうと、私が自宅に持ち帰って取り出すと小さな袋の中で乾燥した葉がぶつかりあって砕けほとんど落ちて、写真のようにオオミノガの蓑らしくなっていた。中川さんはふつう樹木につくのに草本を食べているのも不思議だったらしい。なぜならオナガミズアオが発生しているハンノキをはじめ生活工房の田畑の周りには樹木がいっぱいあるからだ。
九重昆虫記第5巻に書いたようにミノムシの雌は翅がないから、翅のある雄が雌の発散するフェロモンに誘導されてやってきて交尾をする。雌は蓑の中に産卵する。孵化した幼虫は糸を気球やパラシュート代わりに使って、それにぶら下がり風任せに分散する。こんな分散法だと特定の植物に遭遇できるかどうか確かでないから、そういう母親を持つ子供たちは植物を選り好みしないで食べることができるように進化している。
第5巻を書いた時にネグロミノガの蓑虫が秋になると九重自然史研究所の壁に上ってきて蛹化すると書いた。そのとき書き忘れたが、この習性にも今まで誰も指摘したことがない深い意味があるようだ。実はこの種は背丈の低い草本の葉を食べているらしい。十分、成長するまで低いところで暮らしたが、交尾とその後の産卵は雌成虫には移動力がないので、子供たちが少しでも遠くへ分散できるよう高いところに上がるらしい。
なおチャミノガの幼虫とオオミノガの幼虫の区別点は、頭部の後ろ3節に淡色の明瞭な模様があり、頭部は黒く模様はないが、チャミノガの場合は斑紋が不明瞭で、頭部にも前胸の背線は伸びている。
写真1は蓑、2は体長約30mm幼虫の側面、3は腹面で胸脚は発達しているが腹脚も尾脚も退化している。