九重自然史研究所便り

昆虫採集と観察のすすめ

夢にまつわる話:「とっても美しい物語」

2018-06-20 14:02:24 | 日記
夢にまつわる話:「とっても美しい物語」
大分県九重町地蔵原の九重自然史研究所にいたころ九重昆虫記を執筆中、第7巻が出た時点で、未刊の第10巻のテーマは2~3度変わった。①私と進化論、②フィリピン探検記、③カエルのトリパノゾーマ物語、④新しい観察を1冊にするなど、様々の選択肢があった。地蔵原にいると新発見が毎日のようにありそれらの記録を集めるとすぐ1冊になるから、結局、最新の観察記録を優先し出版した。③も時々資料を見直し、アフリカ睡眠病のトリパノゾーマの起源を探る試みも次第に形が整った。これは大分医大で行った研究の成果だから、電磁図書ではそれを優先することにし、「九重昆虫記10巻」として刊行する。その作業をやっていると、その前書きに下の原稿があった。夢の話である。
「とっても美しい物語」の話(写真は私の靴下)
 以下の記事を序文の中に加えるのは適当かどうかわからないが、この冬出かけた海外旅行に絡む話を一つつけ加えることを許していただきたい。2011年1月下旬、観光旅行団に加わって25年ぶりに妻とドイツを旅行し、フランクフルトを基点に異常気象による豪雨のため増水したラインを下り、またハンブルグ、ニュールンブルグ、ローテンブルグなどを回ってきた。前回はミュンヘンのニンヘンベルガー城内の博物館とハンブルグの熱帯医学研究所に滞在し、その周辺を歩き回っただけだった。今回は旧東ドイツにある中世の城塞都市の街並みをたくさん見て堪能した。ローテンブルグでは夜明け前に降った残雪があり、真っ青な空と赤い屋根に積もる雪とが美しいコントラストを見せていた。前回は観光客であふれる真夏の賑やかな時期であったが、今回はドイツの真冬の寒さを実感できた。添乗員は三宅さんという女性で、自己紹介によれば通訳でもガイドででもないただの添乗員だと言うが、なかなか学識のある人で、目的地の歴史を自身の歴史観、民族観そして人間観を交えて、聞く気のない人はどうぞお休み下さいと言わんばかりにボリュームを下げてぼそぼそとユーモアを交えて話してくれ、ドイツで約3ヶ月過ごした経験のある私にはおおいに頷ける点が多く大変楽しい旅であった。
 ドイツの旅から午前2時に大分市に帰ってきて、熟睡から醒める直前のその朝見たたわいのない夢の話を紹介する。夢というものは時間が経つと忘れてしまう。面白い夢を見たという記憶はあるのに、なぜかその夢を人に話そうとすると、どんな夢であったのかわからなくなってしまっていることが多い。だからその朝見た夢の話は、大急ぎでワープロの前に座り書き止めたものだ。
 夢では二人の男女が少し暗い部屋におり、女は立っていたが男の様子はよくわからなかった。二人の年齢も顔もどこの国の人かも定かではないが、中年の男女のようであった。二人は一緒に暮らしていた、つまり夫婦だったようだ。彼らは毎日話しあっていたが、いつの頃からか次第に会話が途絶えるようになったらしい。多分、長い間一緒に暮らしたので話し合うような新しい話題が何も無くなったのだと思う。
 そんな日々が続いたある日、その生活に耐えきれなくなったのか、女は出て行くと言い出した。男は一体彼女が自分に対して何の不満を持っているのか理解できず、若い頃からずっと一緒に暮らしていたのだからこれからもそのまま一緒にいたいと思っていた。彼らはきっと熱烈に愛し合って一緒に暮らすようになったのだろう。
 しかし女は決然とその家から出て行った。それから驚くほど長い時間が経ったある日、突然、彼女はぶらりと男の待つ家に戻ってきた。そしてその留守の間に経験したことを男に話した。やがて話し終わると女はまた去っていった。そういうことが、時々、あった。どうやら女は一人で遠くを旅して、美しい世界を見てきたらしい。彼女の話の内容はとっても美しい物語であった。夢の中で、私の耳には“とても”ではなく“とっても”と小さな“っ”が入って聞こえた。どうやら男は物書きを生業にしていたようで、彼女から聞いた物語を毎回書き留めた。やがてその話は「とっても美しい物語」として完成した。私の夢の中では今でもその物語は世界一美しい物語だと言い伝えられていた。
 ところで残念ながら『九重昆虫記』の読者には、その物語を一つもお話しすることができない。なぜならそこまで夢を見たところで、隣に寝ていた妻が窓から差し込む朝日に気づいて起きだし、私も目が覚めてしまって、その男が書き留めた物語を一つも読むことができなかったからだ。目が覚める直前、ぼんやりと私の頭の中でこの夢と似た話がグリムの童話のイントロに使われていたように思っていた。しかし私はアンデルセン全集を全部読んだことがあるけれど、グリムは子供の頃、絵本を読んだ記憶しかない。と言うわけで「とっても美しい物語」を私が皆さんに話すことはできない。
 こんな夢を見たのはドイツの古城や城塞都市を旅した思い出と、昔読んだ本の微かな記憶が一緒になった結果らしい。この話をここに紹介したのは読者の中にこの話の出典を知っている人がいるかもしれないと思ったからだ。夢に出てきた話の多くは昔の経験や、読んでは忘れたおびただしい数の本の中身が反映しているのではないかと私は考えている。この夢の話を何かで読んだ記憶のある方はぜひご教示頂きたい。
 夢は誰でもほとんど毎日見るものだ。私の記憶に鮮やかな例を挙げると、トイレを探して苦労する夢、誰かに追いかけられている夢、一晩中もんもんと夢の中で悩んでいたのに何に悩んでいたのかわからない夢、一本の木に原色の美しいチョウが次々と舞い下りて来る夢など、数え上げるときりがない。学生時代に見た夢で今も記憶に鮮やかなのはシーザーの「ガリア戦記」を読み終わった夜見た夢で、私はガリア人に囲まれて落城寸前の城を守っているシーザーその人であった。攻めて来る敵と守る味方の怒号や悲鳴が聞こえる恐ろしい夢であったと記憶している。
 「寄生原生動物」の校正をしていた頃、校了にして次の日印刷所に渡すはずのあるページが夢の中で突然そのまま浮かび上がった。そのページのどこかがおかしいのだが、それがどこだかわからない。翌朝、心配になって再度その校正刷りを読み直すとたしかに間違いがあった。
 昔、ハンブルグの熱帯医学研究所内で原虫部長ミュルフォード教授と雑談していた際、夢の話が話題になった。有名な細菌学者コッホ博士は、眠る時間を割いて研究を続けていると報告した弟子に昨晩は良く眠れたか、と尋ねたそうだ。弟子が研究のことが夢に出てきて良く眠れませんでしたと答えた。すると本当に眠る時間を割いて研究したのなら夢など見ないものだ、まだまだ努力が足りないと、博士はその弟子を叱ったそうだ。教授の話は実話かそれとも若干の脚色があったかはわからない。なおその熱帯医学研究所はコッホの弟子ノッホ博士によってつくられたもので、各部長は教授職ではない。しかし他の大学で教授になったことのある人はたとえ民間に移っても教授と自称することが許される。その時、私は助教授であったから名刺にAssociate Professorと書いていた。ミュルフォードさんと一緒に私の航空券をルフトハンザの窓口に買いに行った時、お名前はと聞かれたのでAkira Miyataと答えると、ミスターアキラミヤタと相手が復唱した。するとミュルフォードさんがノーと割り込み、プロフェッサーアキラミヤタと訂正された。ミュルフォード家は学者の家系で中世にある大学の学長を務めた有名な人物がいたらしい。戦争で重症を負って身体障害者手帳のようなものを持っていると若い人から聞いたが、ミュルフォードさんはその特典を決して利用せず、教授という称号を常に背負った気位の高いドイツ人であった。

コンピューターのトラブル解消と80歳で運転を止めた理由

2018-06-13 23:34:48 | 日記
コンピューターのトラブル解消と80歳で運転を止めた理由
2018年6月13日5時31分、昨夜はコンピューターが急に動き出しウインドウズ10の更新が始まった。最近はこの原稿を書いている富士通(Windows7)のワードが2~3行打つと急に何かに引っかかったように止まり、動かなくなるので困っていた。もちろんすでに10として使っていたが、昨夜、自動的にさらに更新してくれ、どうやらワードも元に戻り使えるようになった。他に2台持っているがそれらはインターネットにつないでいない。
退官講演の用意のためマックの新品を買い地蔵原で5年使い壊れたので、大分で富士通のウインドウ7を買い、今も草津市で使っていたが今回は本当に壊れたと思った。画面の色が美しいので気に入っている機種なので、またこれを使ってブログが書けるのが嬉しい。
ところで1969年長崎市で運転免許を取得したのは熱研からフィリピンに出張することになり、研究車「長崎太郎」を運転する可能性があったから浦上の自動車教習所に頼みこみ早朝通い一度の試験でパスした。その頃、そろそろ九州でも自家用車を持つ人が増え、熱研事務官や教室づきの技官が3~4人あちこちの教習所に通っていた。彼らは勤務時間が終わって午後5時から教習所に通っていたらしい。その頃九州では、一般の人は大学出の特に医学系の教官はお坊ちゃんのひ弱で不器用な人が多いと思われていたようだ。私も、当時、身長167cm、55~6km、がりがりに痩せていたから、私もその代表だと思われていたから、みな一度で通らないだろうと確信していた。何度受けても運転実技がパスしない医学部教授のうわさが囁かれており、代わって奥さんが教習所に通ったら一度で通ったという話だ。だから私が一度で通り、その時受けた熱研の数人は落ちたから、仲間から祝いの飲む会を開いてもらった。しかしフィリピンに持って行った「長崎太郎」はバスを少し短くした大きな車だから、研究所の公用車の御厨運転手が調査隊隊員として加わった。それから10年以上すぎ大分市に転勤が決まった。その間、車をまったく運転していなかった。
1978年ころ大分転勤が決まり、大学の所在地の交通の便が悪いと聞いたので、車を買い運転を始めた。最初の何日かは狭い場所が怖く、他の車を傷つけないように壁際によせすぎ、自分の車に擦過傷を何度かつけたがやがて慣れた。そして大きな事故もなく80歳になった昨年7月23日から運転をやめた。便利な草津市に住み、また妻が運転できるから彼女のすすめで運転しなくなったのだ。ただ免許の返納はしない。金を払って取得した所有物を返納させるなら取得時に払った費用を返還するべきだ。それなのに代わりに2000円出せば証明書を出すという。みなさんはおかしいと思いませんか。
大分では昆虫の研究に車を使うので、燃費が安い軽油で走るトヨタマークツーの新車を買った。マレーシアとドミニカでも車を運転した。また定年後10年間は環境汚染を減らすためガソリンで走るトヨタのジープを運転した。トヨタの車ばかり買ったのはトヨタ財団の研究費で研究できたことに感謝の気持ちを忘れないためだ。実は初めて買った車は日産のチェリーだった。その車に家族を乗せて大分に転勤した。


私が好きな九州のアジサイ二種

2018-06-11 23:37:16 | 日記
私が好きな九州のアジサイ二種
長崎のアジサイと湯布院のガクアジサイの花
九州を離れてから数年過ぎたが、アジサイ(紫陽花Hydrangea macrophylla)の花が咲くころになると思い出すのは長崎のアジサイと湯布院のガクアジサイだ。どちらもしとしと降る雨のときが一番美しい。
長崎のアジサイはシーボルトが愛した花でオタクサという。彼は文政6年(1823)長崎に来航し、長崎市鳴滝2丁目7-40に診療所を構え日本人患者を治療することを幕府から許された。彼と現地妻お滝さん(楠本滝)との出会いと別れについては様々の話がある。そのあらすじはもう忘れたが、彼はお滝さんと恋に落ち二人の間に娘イネが生まれ、そのイネさんは日本最初の西洋医学を学んだ産科医になり明治時代に活躍した。お滝さんから娘イネ、孫娘と女系3代続きみな美しい人だったらしい。
アジサイは長崎ではオタクサ(お滝草)と呼ばれ、この植物をシ-ボルトが園芸植物とし初めて西洋に紹介したそうだ。
長崎のアジサイは子供の頭ほどある大きな花で、小さな花が集まったボール状の花だ。長崎でそのアジサイが一番美しいと思ったのは、初夏のしとしと降りだした小雨を避けて飛び込んだ、雨宿りの喫茶店の軒先にあった鉢植えのしっとりと濡れているアジサイだ。大きな花のアジサイはどことなくしゃれた西洋風の長崎の町角に降る雨によく似合っていた。ざぁーざぁーと音を立てて降る雨はアジサイの花房が重くなり無様だが、それでもアジサイは雨に濡れて咲く花で、九州では梅雨明けになると花がぱっと終わる。
大分市に移ってから初めのころ湯布院へ時々温泉と食事に出かけた。雨の湯布院にはガクアジサイが一番よく似合う。ある時、妻と降り出した小雨を避けて飛び込んだ湯布院のある喫茶店の前にあった、ガクアジサイを眺めながらコーヒを飲んだ。しとしとと降る雨に濡れて、これこそ湯布院を代表する花だと思った。だから九重自然史研究所を建てた時、私はその茶屋に頼んで一ガクアジサイを一枝もらって庭に挿し木した。
その研究所がある九州のチベットと呼ばれる地蔵原は寒冷地で春の音連れが遅いと聞いたので、わざわざ寒地に強いだろうと取り寄せたノルウエーカエデと東北のブナを1本ずつ植えたが、毎年春の氷雨に打たれ葉が枯れ、前者は数年続けてまた芽吹いたがついに根負けし本当に枯れた。東北のブナは「九重昆虫記」でお馬鹿さんブナとけなしたが頑張り、そこを去るころ大きくなり氷雨のあたる部分の葉だけが枯れた。私の好きな染井吉野は何度植えても育たなかった。代わって植えたヒメリンゴはよく育ちその花の満開とニシキギの開花が遅い春の訪れだ。もちろん湯布院からもらったガクアジサイも毎年花をつけた。
図版の1~2と4はエルシテイ草津弐番館の園芸同好会が咲かせたアジサイだ。品種改良によって作出された小さな庭に小さな花をつける都会のアジサイだ。写真3は我が家の庭の北米原産カシワバアジサイだ。これはこのマンションの前の持ち主が一階の坪庭に植えたもので、花房の頭が下がるとブドウの房のように見える。咲くまでは威張って堂々と立っているが雨が降ると、深々と頭を下げて御免なさいと謝っているようだ。

私と草津市の縁

2018-06-03 14:23:32 | 日記
私と草津市の縁
昨年5月からこの5月までエルシテイ弐番館の管理組合の理事会の理事長を引き受けて専らハンコを押した。このマンションは草津市筋違町にあり、我が家の表側は金網で囲まれた運動場に面し、小中学校生が様々のスポーツの試合や練習場として多用している。小中学校生徒の野球やサッカーなら2試合できるほど広い。特に休日は太鼓を持った応援団もやってきて、野球やサッカーの試合をやっている。私の書斎はその声が聞こえてくるが、私は子供たちが元気いっぱい大声で応援する音が多少聞こえて来ても構わない。むしろガンバレ、ガンバレと叫ぶその声は私を応援してくれているようで嬉しい。
我が家の裏側は大きな染井吉野のなど様々の樹木が植わっている筋違公園になっている。その公園沿いに道路を隔ててエルシテイ参番館がある。壱番館は参番館の横、つまり並んでいる。壱番館は別の古いマンションと向かいあって建っている。このマンション群は中山道の宿場町草津の旧市街の外側、つまり昔は旧市街と宿場に付随した様々の仕事をする人々が住んでいたらしい土地だ。そしてその先は農村地帯でありさらに向こうは琵琶湖が広がっている。
私の学生時代、草津川はまだ天井川のままで、東海道線は川の下を潜って(くぐって)いた。草津に親類のおばさんがいて、私が京都の大学に進学したらそこに下宿させろとおばさんが父に求めたらしい。おそらく戦争で夫を亡くし、子もなく後を見てくれる人がいないらしく心細かったのだろう。一度一人で泊まったことがある。農家で大きな畑に柿がたくさん植わっていたのを覚えている。おばさんの苗字も名もすっかり忘れ、おまけに私の兄弟姉妹は誰もそのおばさんのことは聞いていないようだ。私の父母は戦後、実川の祖母、母の姉、伴のお婆さん、もう一人松岡(?)のお婆さんを亡くなるまで何かと面倒を見た。
私は独り立ちするため親元から離れた奈良の大学に進学した。中学生のころ奈良に一度行ったことがあり、東大寺、興福寺、春日神社が市街地に接しており町全体が公園のような奈良が気に入ったのだ。そのころ九大に江崎禎三という昆虫学の教授がいて、数人の大学教授を育てられた。その先生が書いた随筆を読みその人柄に憧れたが、その先生は、突然、出張先の東京で亡くなられた。安松という弟子が後を継がれたが、その先生のことは何も知らず、九大を目指す理由が無くなった。それに私は病気してから本ばかり読んで、受験勉強はまったくしていなかったから、志願者が多い二部の文系を避ければ奈良学大なら入れると、勝手に思い込み二部の理科と第二志望として一部小学校教員養成課程を併願した。幸い二部理科に入れた。もしも二部理科に入れず併願した一部に入っていたら、僻地が多い奈良県だから昆虫好きの私には適していた。しかし私のように天才的な音痴、しかも楽器嫌いなのにピアノ、オルガンを、音符を見て弾けるまで鍛えられ、おまけに典型的な独居性の個人主義者で体育嫌いなのに、団体行動を重んじる体育も指導しなければならない。それらをすべてクリアし小学校教諭として活躍することは、私には絶対できないことだった。だから二部に入れたことは大変良かったと今でも思っている。佐藤優君という読書家に出会い飛鳥・白鷗時代の仏像が好きになった。アリストテレスと出会ったのも彼の誘いで京大教授の講演を聞きに行ったのが始まりだ。九重昆虫記第9巻序文でそのことを書いた。情報を徹底的に集めそれを元に考える、それでも間違えることはある、それが人間だ。
写真は園芸好きのマンション住人が集まり運動場に沿った道の境界約1m幅の土地に作った花壇に咲いている花だ。私は子供のころから畑の世話をするのが好きで、ウサギやニワトリを飼い、草花を育てた。おそらく農家に生まれていたら養鶏家になっていたかもしれない。私は無類の卵と豆腐好きで、豆腐のうまい畿内に引っ越ししたことは満足している。
写真は花壇の花を一通り並べたもので、ビオラとパンジー以外は全く名前がわからない。ご存知の方はご教示ください。ところで江崎先生の姓名が正しいかどうか、インターネットで調べたら出て来なかった。昭和も遠くなったことを実感した。

「西岡アトリエ」と一休寺を訪ねる

2018-06-01 07:05:01 | 日記


「西岡アトリエ」と一休寺を訪ねる
2018年5月30日「おおつ見聞を広める会」の行事で上の2ヶ所を訪ねた。この会は私の高校生時代の親友で、長崎大学熱帯医学研究所に勤めていたころ妻と結婚した際、仲人を引き受けてくれた故日比裕康君の奥さんの紹介で、草津市に移ってきてから参加している。妻は長崎市出身だから、関西の地理や名所旧跡に詳しくなかったが、13歳下だから今は彼女の方が畿内の地理に詳しい。
今回の最初の目的地は京都駅からJR奈良線に乗って京都市山城町にある西岡義一画伯の油絵の展示館であった。童話を題材にした絵画世界だという。私は画伯の少年時代の虫採りや水たまりで魚や虫を採っている二枚の絵が面白いと思った。それらの絵に描かれている少年が持っている網の柄が槍のように異常に長く、また網は本格的な絹の捕虫網を思わせる白い袋状だった。柄が長いのは蝉採りもしたのだろう。私も母が白い布で作ってくれた網を使ったことがあり、それをメダカの群れに被せて採ったこともあった。しかし布は水抜きが悪く針金の輪がすぐ曲がるので困ったものだ。私はその他の絵にはあまり興味を感じなかったが、もう1枚ハガキ大の紙に赤く小さい金魚が数匹描かれていたのが気に入った。
妻が柱近くにあった小さな紙に書かれている画伯の経歴を読んで、「パパの母校奈良学芸大学の教授だったらしいよ」と言う。なるほど私が卒業した1963年は画伯もまだ奈良学大教授だったらしい。それに気づく前に、実は西岡アトリエで筆先から落ちた絵の具で汚れたと思われる小机の上に、使った筆と空になった油絵の具のチューブを捨てず積み重なっているのを見て、実は私も一瞬、母校奈良学大の学生寮で出会った二人の画学生を思い出していた。
大学に入学し夏休みまで、私はその大学の男子寮桜寮で過ごした。入学直後、大学祭があった。学芸大学は小さいが、私の所属する中学校教員養成課程は二部と呼ばれ文系と理系に分かれ、私の在学時は理科同級生6人に対して12~13人の先生がおられた。しかし理系(理科と数学)の学生は披露するべき芸がなく、おまけに少人数なので目立たず学園祭も蚊帳の外だった。二部の文系は芸術家の卵(画家、彫刻、デザイン、書道、音楽)が揃っており、さらに1部と呼ばれる小学校教員養成課程と一緒に大学祭を企画運営したらしい。1部は必須科目が多く、皆で講義を受けるから仲が良く、まとまっていた。
私は短い間だが寮に入ったので美学・美術史専攻の佐藤優君と出会うことができた。私は60年安保反対運動が終わるまでは、新聞部に所属し記事を書いたが、その後、退部し、山岳部の登山に参加した。
学生時代に西岡義一教授にお会いしたこともお名前を聞いたこともないが、ただ画伯の弟子を二人ほど見ている。桜寮は一室4ベッドがあり、同じつくりの一番端っこの部屋は油絵専攻の二人の学生が占めていた。たまたまその前を通るといつも閉まっているドアが少し開いていた。乱雑に物が置かれ、油絵具の匂いと思われる異臭に圧倒された。二人は夜行性だったらしく、食堂で会ったこともない。だから西岡アトリエで積んであった使い古しの筆や空っぽなのに捨てず積み上げてあった絵の具のチューブの匂いを、嗅いでみたがまったく匂わなかった。青春を異臭の中で過ごした彼ら二人の画学生は立派な卒業作品を残し、画伯として大成しただろうか?ちなみにその部屋はあまりにも汚れ異臭を発するので画学生の専用になっていた。
一休寺も西岡アトリエと同じ山城町にある。この寺は頓智話で有名なあの一休さんが住んだ寺である。庭はツツジの花が満開で美しく、私は竜安寺の庭よりこちらの庭が好きだ。今は青紅葉(もみじ)のシーズンで、京都では青葉と紅葉の二つの時期を愛でることができる。庭はよく手入れされ、人手がかかった人工の美である。妻は秋にも来ようという。なおカエデは九重昆虫記第3巻にも書いたようにシャチホコガ科の主要食樹で、かつて冷温帯林でシャチホコガ幼虫が突起や棘を生やし、軍拡競争を繰り広げたと私は考えている。しかしそろそろ幼虫のシーズンだが、京都の寺で葉を食べている幼虫をほとんど見かけない。またクモの巣もまったくない。おそらく植木屋が定期的に殺虫剤を散布しているのではないかと思う。私の住むマンションも定期的にクモ退治されている。なお添付した4枚の写真は一休寺の庭である。