びわ博のいろんな発見がカルタになった!
展覧会の話を前回書いたが各展示にはイロハの文字が割り当てられており、私のコーナーは「ひ」で、読み札は「標本はそこにいたこと物語る」だ。この札は私のコーナーができることになった際に「ひ」と一緒にそのフレーズがついてきたので、私が考えたのではない。
私は大分県九重町地蔵原に九重自然史研究所を作り、九重昆虫記を1~9巻まで出した。三つの九重は大分県玖珠郡にある「ここのえまち」という実在の町の名に由来する。大吊橋を作って有名になり、関西からもバスツアーが組まれ大勢の人どんどん見に来た有名な町だ。しかし展示図録89ページでは九重(くじゅう)山系地蔵原の九重(くじゅう)自然史研究所となっていた。くじゅう山系と読むのは正しいが、研究所の名は間違いで「ここのえ」である。私も生粋の関西人に名刺を渡すと必ず」「ここのえ」と読んでくれるので安心して、誰かがつけた小さなルビの間違いを見落とした。実際、この町名は小さな村やが集まり町を作ったとき、当事者たちは九重町を「くじゅうちょう」と読むつもりだったが、竹田市に統合された旧「久住町」から「くじゅうちょう」と読むことはまかりならぬと抗議され、咄嗟に誰かがうちは「ここのえまち」と読むのですと答えたそうだ。今では誰がそう答えたのかわからないそうだ。もともとこの山系は幾重にも重なって見えるので「くじゅう山系」と呼ばれていたらしい。久住と九重は地理的に離れているので、町名をめぐる争いは別にして、採集品のラベルははっきりと区別するべきだ。私の標本についているラベルにKujyukogenおよびMt. Kujyuとあればそれは竹田市の久住だ。しかし大分県人でもどの漢字をあてるか混乱している。九重町には九重森林公園スキー場があり、これは「くじゅう」と読む。つまり竹田側から見ても玖珠側から見ても同じ山系だとわかっているのに本家はどちらか競っているようなものだ。明らかに阿蘇に近い久住町のほうが早くから開けていたようだ。
九重町側では私の研究所から2km奥に平家の落人伝説が残っている集落がある。村人に尋ねるとそう聞いているが証拠の文書などはまったく残っていない。おそらく源氏の追討を恐れて先祖がそれらを処分するか隠したのだろうと言っていた。なお地蔵原を飯田高原の一部とみなす人もいるが、明らかに違う山の中腹にあるので、私の標本にJizobaruとついている標本の産地は研究所の前の一周道路に囲まれた範囲内で採集されたものだ。自然観察もその範囲内で十分忙しく遠くへ遠征しなくなった。だから私が地蔵原あるいは地蔵原高原と書くときは1週道路に囲まれた範囲内だと考えてほしい。地名にない地蔵原高原という名を使うようになったのも地図上の場所ではなく研究を行った場所を区別するためである。