九重自然史研究所便り

昆虫採集と観察のすすめ

びわ博のいろんな発見がカルタになった!

2016-09-27 10:56:34 | 日記

びわ博のいろんな発見がカルタになった!
 展覧会の話を前回書いたが各展示にはイロハの文字が割り当てられており、私のコーナーは「ひ」で、読み札は「標本はそこにいたこと物語る」だ。この札は私のコーナーができることになった際に「ひ」と一緒にそのフレーズがついてきたので、私が考えたのではない。
私は大分県九重町地蔵原に九重自然史研究所を作り、九重昆虫記を1~9巻まで出した。三つの九重は大分県玖珠郡にある「ここのえまち」という実在の町の名に由来する。大吊橋を作って有名になり、関西からもバスツアーが組まれ大勢の人どんどん見に来た有名な町だ。しかし展示図録89ページでは九重(くじゅう)山系地蔵原の九重(くじゅう)自然史研究所となっていた。くじゅう山系と読むのは正しいが、研究所の名は間違いで「ここのえ」である。私も生粋の関西人に名刺を渡すと必ず」「ここのえ」と読んでくれるので安心して、誰かがつけた小さなルビの間違いを見落とした。実際、この町名は小さな村やが集まり町を作ったとき、当事者たちは九重町を「くじゅうちょう」と読むつもりだったが、竹田市に統合された旧「久住町」から「くじゅうちょう」と読むことはまかりならぬと抗議され、咄嗟に誰かがうちは「ここのえまち」と読むのですと答えたそうだ。今では誰がそう答えたのかわからないそうだ。もともとこの山系は幾重にも重なって見えるので「くじゅう山系」と呼ばれていたらしい。久住と九重は地理的に離れているので、町名をめぐる争いは別にして、採集品のラベルははっきりと区別するべきだ。私の標本についているラベルにKujyukogenおよびMt. Kujyuとあればそれは竹田市の久住だ。しかし大分県人でもどの漢字をあてるか混乱している。九重町には九重森林公園スキー場があり、これは「くじゅう」と読む。つまり竹田側から見ても玖珠側から見ても同じ山系だとわかっているのに本家はどちらか競っているようなものだ。明らかに阿蘇に近い久住町のほうが早くから開けていたようだ。
九重町側では私の研究所から2km奥に平家の落人伝説が残っている集落がある。村人に尋ねるとそう聞いているが証拠の文書などはまったく残っていない。おそらく源氏の追討を恐れて先祖がそれらを処分するか隠したのだろうと言っていた。なお地蔵原を飯田高原の一部とみなす人もいるが、明らかに違う山の中腹にあるので、私の標本にJizobaruとついている標本の産地は研究所の前の一周道路に囲まれた範囲内で採集されたものだ。自然観察もその範囲内で十分忙しく遠くへ遠征しなくなった。だから私が地蔵原あるいは地蔵原高原と書くときは1週道路に囲まれた範囲内だと考えてほしい。地名にない地蔵原高原という名を使うようになったのも地図上の場所ではなく研究を行った場所を区別するためである。

琵琶湖博物館で宮田 彬昆虫コレクションの三分一120箱が展示されています

2016-09-27 00:28:08 | 日記

琵琶湖博物館開館20周年記念びわ博カルタ 見る知る楽しむ新発見
宮田 彬寄贈昆虫標本全部に博物館の通し番号がつき、整理を終わりました。たまたま終わった時期がこの博物館の開館20周年の行事と重なり、その一部として寄贈標本を展示するコーナができました。寄贈標本の三分の一にあたる120箱を展示することになりました。私は来年80歳になるので、私自身がかかわって行う展覧会は最後になるでしょう。添付した写真からわかるように傾斜した板に標本箱を横向きに4箱積み重ねる展示法なので上の方の小さな昆虫は見にくいかもしれません。この展示は2016年9月17日から2017年1月31日まで開かれています。土曜日は午前11時から20分~30分九重昆虫記に載せた面白い観察をお話ししようと準備しています。もちろん子供もわかる話題を選びます。
 私はすべての日本産昆虫が入っている標本箱を長机のような平面に2列にならべて展示したいと考えていました。そうすれば専門家が同定しやすく、カスミカメムシ、ハバチ、コマユバチ、ヒメバチ、小蛾などから若干の新種も見つかるだろうと思ったのです。もともとすべての目の昆虫を1種数頭ずつ標本にしたのは退官記念講演で述べたように何十年も後に未来の学者が私と同じ場所で同じことをすれば、温暖化によってどのぐらい昆虫の種が入れ替わったか、わかるからです。地蔵原は温暖化がこれ以上進めばもう逃げ場がない冷温帯系の昆虫が数多く生息しています。私は地蔵原産標本をタイムカプセルと呼んでいます。今慌てて同定しなくても将来役に立つと考えています。
 ところで私が菅平高原で卒業研究をしてからすでに半世紀以上経過しました。だれか現在の菅平の蛾を調べませんか。もしかすると菅平の蛾相も相当変化しているかもしれません。なお当時の菅平の蛾目録は何度も書き加えたものを私が持っています。