九重自然史研究所便り

昆虫採集と観察のすすめ

う一人の宮田 彬さんがいる!

2016-01-31 18:02:56 | 日記
もう一人の宮田 彬さんがいる!
今朝インターネットで昆虫の学名を検索していました。その時、ふと私ではない私宮田彬さんを発見して驚きました。宮田という姓は非常に多いとは言えないけれど、全国に宮田村や宮田町があることを知っていましたし、現に私の故郷彦根市にも宮田の地名があり、彦根東高校の1年生の時、私のクラスには私を含めて3人の宮田、つまり私の他に女の子と男の子が一人ずついました。私以外の二人は親戚関係にあったのかどうかわかりませんが、私の姓は彦根とは関係がない土地でつけられたことは確実です。明治時代に町民も農民も苗字をつけることが許されました。おそらく宮田という姓はお宮さんの田んぼを耕していた農民の子孫に多いだろうと思います。
 下の4行はその宮田 彬さんのサイトです。本人が公開しているのだからここに掲載しても構わないでしょう。実は長崎大学熱帯医学研究所にいたころ、外国の昆虫学関係の雑誌を見ているとAkira Miyataという研究者が英文で論文をいくつか書いているので驚きました。その人はおそらく日系人学者らしく、日本昆虫学会の会員名簿にはそれらしい人が出ていませんでした。彬という名前の由来は父が東京にいたとき観世流の太鼓の家元について太鼓を習っていたことと関係があるのです。家元は父の太鼓の腕が良いので観世流の太鼓のプロになれと勧めたのですが、自分は文筆業で生きたいからとお断りしたそうです。私の名前はその家元がつけてくれたそうです。その頃の財界のリーダの一人の名前からとったそうです。私は観世流の太鼓の家元と聴いてもピンときませんでした。しかし外国へたびたび出かけることが多くなって、たまたま日航機の機内誌を見ていると観世流太鼓の家元がグラビア写真で載っているのを見つけました。その方は父が習った家元の息子さんかもしれません。なんだか懐かしい人の写真を見たようで感激しました。私の名付け親もきっとその方と似ているでしょう。良い方に良い名前をつけてもらって感謝しています。もう一人の宮田 彬さんの命名の由来も気になります。しかしその人は私より若く趣味も違うので連絡はしません。

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草津市のチョウ相を考える

2016-01-25 22:48:58 | 日記


草津市のチョウ相を考える
原田さんが倒れたことで、落胆し、またあちこちに第10巻が出版されなかったお詫びの手紙を書いていた。また少し意欲が減退していたが、またブログを再開する。フィリピンの続きも書こうと思う。なお博物館の標本番号をつけていることは何度も書いた。新春からそれも継続しており、現在21979匹に番号ラベルをつけた。残りは約15000匹である。現在、日本産チョウの番号をつけている。つまり後、1週間で日本産鱗翅目のすべてに番号がつく。次は日本産トンボついでヘビトンボ、カゲロウ、カマキリモドキ、半翅目である。
ところで九重昆虫記は再版せず、もう一度再編集して別の名前で出したい。また本のサイズもA5判(保育社の図鑑の大きさ)にしようと思う。原田さんがあの小さなサイズを好んだのは書店の本箱に並べてもらえ、カバンに入れて持ち運びやすいからだ。派手な表紙も彼の発案だ。しかし第9巻の校正中気付いたのは説明文を2ページ内に収めると文字が小さすぎることに気付いた。電車の中で読むのは難しい。いろいろ失敗もあったが、失敗や間違いから学んだことも多いので今度は世にも美しい本にしたいと思う。九重昆虫記各巻の校正後のファイルと九重昆虫記の定期読者のファイルも廃業直後にマイコンと一緒に処分されてしまった。だから私の手元には校正前のファイルがあるだけだ。また九重昆虫記は書店が購入していた分がインターネットでまだ販売されている。また古書店にも少数あるらしい。版元に若干あった残部は処分されたという。

 「九重昆虫記第9巻」29ページで紹介した都心部に近い海抜100m以下の大分市富士見ヶ丘の家の庭で記録したチョウは55種あった。またそこから55km離れた海抜800m前後の大分県九重町地蔵原で記録されたチョウは92種である。地蔵原は寒冷で本州でいえば岐阜県の中山地に相当し、春は遅く秋の音連れは早い。一方、大分市は九州では比較的涼しい都市である。藤岡知夫著「原色原寸検索図鑑日本の蝶」(1975年、主婦と生活社)はチョウの分布を元にA環北極圏系、B旧北区系、C朝鮮・ウスリー系、D西部支那系、Eインドシナ系、F広域分布熱帯系、Gメラネシア系、H日本特産型の8つの分布系にわけた。
現在の日本列島のチョウ相は、日本列島をとりまく周辺の陸塊から陸橋を通って移住してきたものや、卓越風を利用し海を渡ってきたものなど様々の時期に違う出発地から侵入し定着したものが混じり合って形成されたものである。藤岡さんは主な出発地を7つにわけ、それに日本で種分化した群を加えて8系統にわけた。
私は九重町地蔵原の生物相を説明したとき、大分市のチョウ相と地蔵原のチョウ相を円グラフで示した。グラフは視覚に訴えるから読者が虫の素人であっても、わずか55km離れている2地域でも高度差が数百メートルあれば気候も生えている植物もおそらく違うからチョウ相が違っても当然だと納得できる。グラフを見て地蔵原には朝鮮・ウスリー系と西部支那系が多いが、富士見ヶ丘では朝鮮・ウスリー系が減少し、西部支那系や広域分布熱帯系、インドシナ系が多くなる。
私も「蛾類生態便覧」で蛾を使い同様の試みをしたが、蛾は種数が多く円グラフをつくるには大変なエネルギーがいる。この場面はまずチョウを利用して地蔵原の自然を大まかに把握する方が賢い。
ところで草津に移ってすぐ武田滋さんと布藤美之さんを訪問したとき1998年に出版された「伊吹山地の蝶」を頂いた。またもっと前に頂いた蝶研フィールド1989年のVol. 4, No. 11の15‐21ページに書かれた「滋賀県の蝶」が出てきた。それらと武田さんがCame虫2013年No. 170に載せた草津市のチョウ目録を使って3枚の円グラフを作った。これらを見ていろんなことが考えられる。草津市と大分市の円グラフは似ている。また滋賀県と伊吹山の円グラフは地蔵原と似ている。県内のあちこちでチョウ相を円グラフに作り比較するとチョウ目録を並べて比較してもわからなかった面白い発見があるかもしれない。

九重昆虫記の読者の皆様へ―その2

2016-01-19 00:11:42 | 日記
九重昆虫記の読者の皆様へ―その2
九重昆虫記第10巻の目次はこのブログで昨年5月校了後掲載したと思います。その巻は私と進化論と題して五つの節を設け、9巻までに進化について書いたことを整理しました。最初の節は22章からなりラマルクとダゥインの著作を読んで、彼らの考え方を私がどう理解したか私の高校時代にさかのぼってエピソードを交えながら執筆し、特にラマルクの業績を高く再評価しました。私はウォレスを訳したこともあって、もともとダゥインをあまり好きではなかったのですが、ドミニカ共和国に滞在中マイアミでペーパーバック版の彼の著作をできるだけ買い集め読みました。それまで種の起源も日本語訳を読んでいたのですが彼の英文を読むうちにだんだん彼に好感を持つようになりました。私に言わせれば彼もアリストテレスと同じく、天才あるいは秀才型の人ではなく努力の人だとわかったからです。第2節は今西錦司批判など48章からなる私の進化論です。第3節は22章からなりすべての動物は心を持つと主張しました。第4節は18章からなり昆虫の巣とは何だろうと論じています。第5節は30章からなり昆虫の交尾スタイルと性について論じています。もう1節あり、定年前後に過去を振り返って大学の出版物や同窓会誌などに書いた話を集めました。第10巻の内容をブログとして発表するのは、この巻に限って他の巻のように図版が多くなく、文章も理屈っぽいので適さないと思います。1冊として出版した方が他の方の意見も聞けて、私自身の勉強にもなると思います。
なお九重昆虫記の出版を急いだのは原田さんの病気のせいだけではありません。私の方が今年夏に79歳になる高齢者であり、若いころ結核で進学が遅れ長生きするとは思っていませんでした。だから定年後、山に研究所を建てて自然観察に専念してからは虫との出会いも人との出会いも、いつも一期一会のつもりで臨みました。中途半端に終わった観察もなるべく文章にしたのは、高齢者にとって次の出会いがあり得ないことをよく知っているからです。だから私は誤同定を恐れず多くの種を図鑑で同定しその生活史を記録しました。持ち時間が少ない年寄りは何かに興味を持って研究を始めるとつい自分で自分を急き立てるものです。病身の原田さんももしかしたら私のペースに巻き込まれて心理的に急き立てられ、体調を崩された原因は私なのかなと少し後悔しています。私のようにすべての目の昆虫を扱うと同定できない種や誤同定が増えます。だから私が記録した種の標本は必ず私の手元に残すことにしました。私が観察し記録した標本が分散してしまうと、後に私の誤同定を正すことが誰もできなくなることを恐れたからです。まずすべての標本を琵琶湖博物館に移し博物館の所蔵標本番号を自分でつけようと決心しました。番号がついてしまえばもちろん貸し出しも可能になります。番号付けは年内に終わるでしょう。
九重昆虫記はカラー図版が豊富なことが売りでした。しかし出版が始まったころはカラー写真の色合いが私の原図と著しく違うことがしばしばありました。しかし印刷技術も次第に改善され最近の巻は美しい図版になりました。
だからこの機会に改めて再編集して同じ目あるいは科の昆虫の生活史をなるべく1冊にまとめるのが良いと思います。また九重昆虫記の九重を消し、代わりに新をつけ「新昆虫記」として再出版できればと考えています。九重は大分県九重町に研究所を持ちそこで思索し執筆したから記念につけた名前です。九重自然史研究所と九重昆虫記のどちらも九重町とは何の関係もありません。
現時点でもすでにファーブルを追い越すほど原稿があり、しかも登場する虫は九重町産とは限らず故郷彦根市産や外国での観察も含まれています。ファーブルが扱ったことのない目の記事も多く、また最近は滋賀県の昆虫同好者の協力で滋賀県産の虫を扱うことも多くなりました。できれば近くにある出版社が良いのですが、どなたか滋賀県内の出版社をご存知ありませんか?

九重昆虫記の読者の皆様へ―その1

2016-01-18 23:32:05 | 日記
九重昆虫記の読者の皆様へ―その1
 新年早々「九重昆虫記」の出版を続けてくれたエッチエスケーの原田雅之さんが脳梗塞で倒れ回復は難しく廃業したという連絡が妹さんから届きました。昨年5月九重昆虫記第10巻の校正を送ってきたので校了しましたが、その後、彼からの連絡が途絶えました。彼はおそらく私より10歳ほど年下だと思います。私が1986年に文一総合出版から日本の昆虫シリーズ④シンジュキノカワガを出版した時の編集担当者でした。九重昆虫記第2巻以降の出版を引き受けてくれる出版社を探していた時、彼から今は独立して昆虫関係の本の出版しているので自分に任せてほしいと言ってきました。東京農業大学で昆虫学を専攻したそうです。その頃は彼も元気で矢継ぎ早に5巻ぐらいまで進んだと思います。余力があったらしく合間に他の本も出版していたようです。しかし、多分、7巻あたりからペースが落ち、病気で入退院を繰り返すようになりました。それでも第1巻の改訂版と第8巻はスムーズに進行したのですが、第9巻は私の草津市への移転もあって難産でした。第9巻の序文アリストテレスの話などは草津市の自宅で大急ぎで書きました。原稿は第12巻まで完成し第13巻も一部の原稿ができていましたが、虫の知らせというのか、何となく原田さんとの縁は第10巻で終わりそうな予感があったので、最終巻に回すつもりだったその原稿を第10巻分として送りました。私は彼とは一度も会ったことがありません。私も草津市で落ち着いたので、第10巻が出たら一度彼を訪ね、礼を言い、ファーブル昆虫記全10巻に追いついた祝杯を二人であげようと思っていましたが誠に残念なことです。脳梗塞で口がきけない状態から奇跡的に回復することが難しいことは医学部の教授だった私も十分承知していますが、無神論者なのに彼が少しでも回復することを祈っています。

晩秋の琵琶湖博物館庭でヨシを食べていたヒメジャノメ幼虫の経過

2016-01-12 22:26:03 | 日記

晩秋の琵琶湖博物館庭でヨシを食べていたヒメジャノメ幼虫の経過
 2015年秋から琵琶湖博物館の武田滋さんがヨシを加害する昆虫を研究し始め、まず琵琶湖岸にある琵琶湖博物館の庭とその付近のヨシから調べはじめた。彼は甲虫の専門家なのでヨシを叩き網採集法で調べると鱗翅目幼虫もかなり落ちてくるからそれらは私が調べた。もちろんヨシについていたすべての虫がヨシを食草としているのではない。まず届いた幼虫はヤガ科のナシケンモン、キバラケンモン、オオケンモンの幼虫で、彼らはヤガ科の中では特異な毛虫型幼虫である。その3種の幼虫はヨシを食べず、おそらくヨシの上を覆っている広葉樹の葉を食べていたものらしい。一番普通種のナシケンモン幼虫は違った場所でも何度もヨシの上で見られた。
 今回の調査でたしかにヨシを食べることがわかった鱗翅目幼虫が二つあった。その一つはヨシの葉を重ねて巻いた巣の中に入っており、届いた時点ではもう十分大きくなっていたがそのまま冬を迎えてしまった。おそらくイチモンジセセリの幼虫らしい。
 もう一つはこの章に記録するヒメジャノメの幼虫である。この幼虫が届いたのは武田さんが調査を始めた次の日である2015年10月26日であった。その幼虫は図版の写真1-2(10月27日撮影)に示す茶褐色で背線がありまた体側に黒斑があり、頭部に角、尾端は二本の突起があった。その時点の体長は19mmであった。おそらくジャノメチョウ類の幼虫だろうと思った。私は昔から見かけたチョウの幼虫も50種近く飼育した経験があるが、特定の種に目をつけて探すことはしなかったから、ジャノメチョウの幼虫は卵から飼育したヒメウラナミジャノメと、最近、虫仲間の中川・武田両氏から提供された博物館の庭のススキで発生したクロコノマ幼虫を飼育しただけで、これは3例目なのだ。
 ヨシの幼虫を飼育しはじめた頃から我が家があるエルシティ草津弐番館はリニューアル工事、つまり足場を組んで7階建ての建物全体を白い蚊帳のような布で覆い塗装などの作業が始まった。そのため幼虫は室内飼育つまり私の部屋の中で飼育することになった。我が家は一階なので小さな庭が付属しているのだが、その庭も作業で人の出入りがあり飼育容器を外に出して自然状態で観察することができなくなった。秋の飼育では日長時間が羽化時期に影響する場合があるので、観察や写真撮影をなるべく日中に済ませ、飼育容器を外に出しておくようにして自然に近い昼夜の長さを保ちまた外気温の変化も屋外の状態に保つようにしている。しかし今年はそれができず室内で飼育することになった。だからヒメジャノメの幼虫も室内観察であるが、写真1-2の状態が長く続き小さな糞が落ちているから摂食していることは間違いないがなかなか成長しなかった。しかし11月15日脱皮して写真3-4に示す緑色の幼虫になった。多分、採集時は3齢幼虫で脱皮して4齢になったらしい。11月27日写真5-6を撮影した。そのころ終齢になったと思われるが脱皮を確認していない。12月初めに工事が終わったので幼虫を外に出した。12月に入ってからは時々餌を補給していたが幼虫のままなので幼虫越冬するのかと思ったが、12月26日見たときは蛹になっていた(写真8-9)。体長15mmであった。
 原色日本蝶類生態図鑑IVによれば通常4齢で越冬するとある。その通りだと思う。しかし本種の飼育経過はチョウの飼育としては異常であった。あまり餌を食べず、終齢になってからも長い時間をかけて成長し、幼虫で越冬するのかと思われたが蛹化した。おそらく本来の季節の移り変わりを正しく捕捉できず、迷った末にやっと蛹化したように思える。「幼虫越冬する昆虫の幼虫が年内に蛹化した場合は、春を待たず羽化する」という寄生性のハエやハナアブなどにも適用できる私の経験から導かれた法則がある。だからこの蛹はそのまま室内におき羽化を待っていると2016年1月11日蛹が黒くなり12日朝♂が羽化した。