私は寝起きがあまりよいほうではない。
仕事の日の朝は特にそうだ。どちらかというと不機嫌で、これから始まるヤッカイな一日をボンヤリと考えてはタメ息をついたりする。
今朝もまたそうだった。そして朝刊をめくりながら適当に読んでいると、ある小さな記事が目に入った。十数行の記事だからアッと言う間に読み終えた。
そして、よけいに不機嫌で憂鬱になってしまった。
それは、関東のI県で三人の男性が有毒ガスにより車の中で死亡していた…という記事だった。
三人の年齢は26歳と28歳と46歳で、そろって無職のようだった。現住所もそれぞれ違う県にあった。
また、見ず知らずの人々が「自殺」を目的に集まったんだナ…。
瞬時にそう考えた。
朝の澱んだ頭には、「他人事ではないな」と感じられた。
今日は、妙にその記事がずっと頭に残っていた。
仕事から帰ってきて、またその記事を読み返してみた。
そして、先日読んだ湯浅誠の『反貧困「すべり台社会からの脱出」』を思い浮かべた。
この本の中で、「溜め」のないことが、人々に悲劇的な行動を取らせる…と繰り返し書かれていた。
「溜め」とは、人間的な関わりであり、知識であり、経験である。それは、ピンチのときもすぐに絶望的になるのを防ぐ資産である。
今朝のように気分が落ち気味のときは、
「彼らと自分とに本質的な違いはないゾ。病気にでもなれば、明日はわが身だ」
と考える。そしてそれは、決して全くの的外れではない。
私には経済的な「溜め」はほとんどないからだ。
ほとんど自転車操業のようなもので、働けなくなったら、たちどころに倒れてしまう。
ただ、救いなのは、友人・家族といった「人との関係」については、少しながら資産があることだ。
そして、その資産をこれからも粘り強く増やしていかなければならない…と思っている。
人はピンチになったとき、極端な考えにおちいり勝ちだ。そうなると、間違った選択をしてしまう。
もし、日ごろから信頼できる関わりがあって、ピンチになったとき、お互いに教えあうことができれば、ずっと現実的な行動をとれると思う。
そんな、知識を教えあい、感情を分かち合う関係を作るために、私は日々この文章を書いている。
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仕事の日の朝は特にそうだ。どちらかというと不機嫌で、これから始まるヤッカイな一日をボンヤリと考えてはタメ息をついたりする。
今朝もまたそうだった。そして朝刊をめくりながら適当に読んでいると、ある小さな記事が目に入った。十数行の記事だからアッと言う間に読み終えた。
そして、よけいに不機嫌で憂鬱になってしまった。
それは、関東のI県で三人の男性が有毒ガスにより車の中で死亡していた…という記事だった。
三人の年齢は26歳と28歳と46歳で、そろって無職のようだった。現住所もそれぞれ違う県にあった。
また、見ず知らずの人々が「自殺」を目的に集まったんだナ…。
瞬時にそう考えた。
朝の澱んだ頭には、「他人事ではないな」と感じられた。
今日は、妙にその記事がずっと頭に残っていた。
仕事から帰ってきて、またその記事を読み返してみた。
そして、先日読んだ湯浅誠の『反貧困「すべり台社会からの脱出」』を思い浮かべた。
この本の中で、「溜め」のないことが、人々に悲劇的な行動を取らせる…と繰り返し書かれていた。
「溜め」とは、人間的な関わりであり、知識であり、経験である。それは、ピンチのときもすぐに絶望的になるのを防ぐ資産である。
今朝のように気分が落ち気味のときは、
「彼らと自分とに本質的な違いはないゾ。病気にでもなれば、明日はわが身だ」
と考える。そしてそれは、決して全くの的外れではない。
私には経済的な「溜め」はほとんどないからだ。
ほとんど自転車操業のようなもので、働けなくなったら、たちどころに倒れてしまう。
ただ、救いなのは、友人・家族といった「人との関係」については、少しながら資産があることだ。
そして、その資産をこれからも粘り強く増やしていかなければならない…と思っている。
人はピンチになったとき、極端な考えにおちいり勝ちだ。そうなると、間違った選択をしてしまう。
もし、日ごろから信頼できる関わりがあって、ピンチになったとき、お互いに教えあうことができれば、ずっと現実的な行動をとれると思う。
そんな、知識を教えあい、感情を分かち合う関係を作るために、私は日々この文章を書いている。
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