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白虎隊の日

2009年08月23日 | 歴史の話
千八百六十八年 八月 二十三日 


会津藩白虎士中二番隊二十名が会津城の北東にある飯盛山で自刃した。
十五歳から十七歳の少年が国の犠牲になり散っていきました。

日本だけでなく、海外でも知られている戊辰戦争の悲劇である。

会津城


飯盛山から会津城をみた景色(ちょうど真ん中が会津城)



個人的な意見になるが、白虎隊の悲劇は会津の大人たちによって起こったともいえる。
それに十五歳から十七歳を現在の同じ年少年と照らし合わせるのも少し違うと思う。
特に十七歳ともなれば当時は立派な成人です。

飯盛山で自刃した少年たちというのは
白虎隊(15歳から~17歳で編成、諸説あり)全部で343人の中の士中二番隊42人の中の20名。
....ちなみにこの隊から戦死者は1人もいない...

会津戦争の際、領内の要所、前線に精鋭部隊が配置されており、白虎隊の基本任務は、前線で戦う予定はなく、城下防衛と藩主松平容保の護衛でした。

そもそも会津藩の負けが、ほぼ100%わかりきった状況の中で、これからの会津、はたまた日本を背負う会津士魂を持った若者たちをみすみすと死なせるほど愚かな事はありません。

しかし母成峠の戦いで破れたのち戦況が著しく悪化、松平容保は指揮をとるためか、戦火に近い場所へ城から出ており、ついに白虎隊も戦火の中へ送り込まれるのです。
もちろん白虎隊が出撃した程度で戦況が変わる訳も無く、戸ノ口原の戦いで、ニ番隊は敗走。

少年たちで編成された白虎隊といえど、隊長にはちゃんと大人が任命されている。
日向内記(ヒナタナイキ)当時40歳あたりのはずです。しかしこの隊長、戸ノ口原の戦い前の夜に自分の隊を離れ(食料調達とも、援軍を呼びにいったとも)自分の隊に戻れなくなるという大失態をおかしています。

言うまでもなく将をうしなった隊がどうなるかは過去の歴史が物語っている。

戦いで敗れた白虎士中二番隊は
年長者の篠田儀三郎の指示で退却を開始、仲間が散り散りになるなか、飯盛山に落ち延びる。
(20人とも17人とも伝わる)
ここで城下町が焼けているのを、会津城が燃えていると勘違いし自刃するのです。

正直、冷静に考えれば当時の武士の子供たちにもわかるのかもしれません、
城下に敵がなだれ込んだとしても、会津城ほどの名城がたかが一日、半日で落城するわけもなく、幕末の動乱で、唯一幕府のために「信義」を貫いてきた会津藩が、徹底抗戦を主張していたのに、あっけなく降伏する訳がありません。

しかし、250年以上戦争がなかった日本の、しかも会津という雪に閉ざされ険しい山々に囲まれた場所に育った若者の初陣に、冷静な判断をしろというのも不可能でしょう。まともに食事もとっておらず、満身創痍で判断能力もなかったでしょう。


戦争に参加する予定の無い少年が前線に送り込まれたため
藩主が城を出て本陣を移したため
隊長が自分の隊を離れはぐれたため
飯盛山で、城下町が焼けるのを、お城が燃えてるの勘違いしたため
そしてなにより小さい頃か教え込まれた会津の教え、保科正之の教えのため
これからの日本を担ったであろう、十九名の少年たちの命が散ったのです。
現在、これを武士の最後の美談として知られている節もありますが、大人たちがまねいた悲劇とも言えると思います。


冒頭に自刃したものは20名と書いてますが、実際に飯盛山で亡くなったのは19名です。
「飯沼貞吉」という少年だけが、奇跡的に蘇生し、その後、昭和6年まで生きています。

彼のことは省略しますが、奇跡的に助かったものがいたため、白虎士中二番隊の自刃までの一部始終が今日まで伝わっているのです。


彼らは現在、武士の、会津の、日本の英雄的扱いになってしまっています。
後年会津藩の戦略、戦術的無能の責任を回避するため彼らを英雄に仕立て上げ、また戊辰戦争後、遺体の埋葬さえ許さなかった新政府も、大正、昭和と時代が進む中で、戦争の宣伝としてお国のために命を亡くした白虎隊を利用するのです。


本来彼らは飯盛山で、会津城を望みながら静かに眠らせてあげるべきなのかもしれません。


2009.8.23