もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

素麺の道ふたたび

2022年11月28日 17時36分32秒 | タイ歌謡
 素麺の道は、続いていた。中国にも素麺はあって、というか中国語では麵線というのだが、古い文献では「索麺」(ソーミェン)として確認でき、これが日本の素麺のもと、つまり起源になったといわれる。
 で、やっぱり作り方は似ていて、小麦粉・塩・油・水の他に、中国では澱粉(多くは馬鈴薯の澱粉)を添加するくらいで、ほぼ同じ。ただ製麺の方法が日本だと引き延ばして細くする方法と、安価な大量生産の場合の押し出し製麺の製法の2種類なのに加えて、中華式では薄く薄くのばした生地を細く細く切り刻む手打ち方式もあって、これが一番旨いとされている。そりゃそうだろう。乾麺じゃないってことだもんね。手打ちの素麺が日本にないのは、偏に「そんなのメンド臭い」って理由だけだろう。華人は、こういう手間を惜しまないよね。麵線てのは、廣東語だと「みんしん」みたいな発音だけど、泉漳語だと「みすあ」みたいな発音だ。
 なるほど。英語で素麺みたいな小麦粉の細麺のことをmisua(ミスア)っていうけど、これだったのか。やっぱり中華でも細麺には油を混ぜて練るんだね。そうじゃないと、ぶつ切れになっちゃうんだろう。

有一天 汉武帝议完朝政 又与大臣们闲谈寿龄之事 有人说:“脸长就寿长 ”汉武帝强调 “根据相书记载 应该是人中(位于鼻与嘴之间)长 寿更长 ”大臣东方朔却说“人中长就寿更长 八百岁的彭祖 脸不知有多长!?” 他的话刚落 君臣大笑不已
 ある日、漢王朝の武帝(劉鶴)が国政の議論のついでに、大臣達と人生について話し合った。 ある者が「顔が長いほど長寿ですね」と言った。漢王朝の武帝は「たしかに昔の記録の絵を見ると、鼻と口の間が一番長い人が長寿だね」と言うと、東方朔大臣が「800歳まで生きたという彭祖は、どんだけ顔が長かったのか!?」 と言い、彼の言葉に、君主と大臣は爆笑した。

东方朔的妙喻流传到民间后 因为“脸”与“面”同义 渐渐的“脸长寿长”被说成“面长寿长” 而面与面同音 亦称为“面长寿长” 所以细细长长的面线 就被喻为“长寿面” 后来百姓在庆生时 为求长寿 在寿宴上吃长寿面的习俗就慢慢的形成
 東方朔のとんちの効いた例え話が世間に有名になり、「脸(麺)」と「面」は同義語であるため、徐々に「面の長いのは長寿」が「脸(麺)の長いのは長寿」と言われ、面と脸(麺)の同音異義語から、細くて長い麺は「長寿麺」と呼ばれるようになった。その後、人々が誕生日を祝う際に、長寿を願うために、誕生会で長寿麺を食べる習慣が次第に形成された。

一直到今天 传统的长辈在过寿时 都会吃上一碗长寿面 以求长命百岁 代表着人们长寿的愿望 而且这一根面条在吃的时候最好不要弄断 否则寓意不吉祥 这一习俗一直沿袭至今 今天的长寿面还会加一个鸡蛋 营养更加丰富 吃长寿面时 夹到碗里的面线 不管有多长都不可以剪断 以求长寿之意 吃长寿面要斯文的细嚼慢咽 不能“嗖”一下吸进嘴里 吃得愈长久 以祝贺寿星愈长寿
 今日まで伝統的に老人は、百年生きるために節目毎に長寿の麺を一杯食べる。 長生きしたいという人々の願望を表現している。 また、この麺を切って食べると縁起が悪いという風習が今でも受け継がれている。今日の長寿麺は、栄養価の高い卵も入れ、長寿麺を食べるときは、長寿の実現のために、いくら長くても麺を噛み切ってはいけない。長寿麺を食べるには、ゆっくりと丁寧に食す必要があり、「ズルッ」と口に吸い込んではいけない。
「漢武繁栄」より引用

 まあ、秦滅亡のあとの楚漢戦争で勝ったものの、この武帝(劉鶴)の代で、彼は晩年に占いや錬金術や迷信に血道を上げて不老不死を求めた挙げ句に粛正・反乱といった殺し合いが絶えず、政治家も軍人も優秀な者が大幅に失われ、西漢政権(紀元前206年~8年)は衰退してしまうんだが、長寿麺が流行ったのは、まだ武帝がおかしくなるまえのことだ。秀吉などの例を持ち出すまでもなく、権力を手にしたのちに狂う権力者は多い。
 ところで、中国で麺食にあたって音を立てて啜ってはいけないという作法に2000年の歴史があるとは思わなかった。
 ← ズルズルいわないスタイル
 たしかにタイで売ってた中華麵線は「長寿麺」って名だった。ただ、中国本土で麵線は廃れてしまったようで、福建省の一部で細々と食べられているだけのようだ。麵線だけに。しかし、このへんも不思議といえば不思議で、福建省って小麦の麺食が盛んだけれど、どっちかっていうと中国南部の米食文化圏なんだよね。米の麺も同じくらい好きだという印象があって、ふつうに米も炊いて食う。要は選択肢が多くて、そのまま残ったってことか。福建の華人は美食家が多いもんね。というわけで、本土では廃れてしまったが、シンガポールや美国の西海岸・ハワイなどの華僑のいる所では盛んに食べられているという。
 中華麵線も油を練り込んであるのか、というのが疑問だったが、これが判明して、嬉しい。

 話は変わって、タイから少し北に行くと、ラオスには「カオピヤッ」って麺食があって、ラオスの国民食と言っていい。たしかに旨いんだ。タイでも食べられていて、タイ文字表記だと「ข้าวเปียก」と書いて、直訳だと「濡れた米」だ。間違ってはいない。発音を無理にカタカナにしようとしてもうまくいかず、あえて表記するなら「カオピヤッk」と書くのがまだ近い。kの子音で終わるの。実際にはリエゾンして「コピア」って言っても通じる。白い麺だが、伸ばした板状の生地を細く切ったり、板の上で転がして麺状に細くしたりで、麺の作り方も長さも細さも、まちまちだ。うどん状の太さも多いが、細い麺の店もある。
 ラオスに行ったときの朝食は、これと決めていて、あと移動式屋台で売っているスライスしたバゲットにレバーペーストを塗ったものも旨い。食べるとびっくりするよ。フランスに占領されてたから、水準がハンパじゃなく高い。タイのバゲットなんて、食べられる棒に似た何かだ。
 そこへいくとカオピアッは、お洒落じゃなくて泥臭い。旨いだけの麺食だ。麺は小麦じゃない。基本は米粉とタピオカ澱粉が同量に水。場合によっては米粉の他に餅米粉を添加することもあるが、それを練って伸ばして刻む。米粉の麺の時って、小麦の麺と違って、塩というものを入れないようだ。
 小麦粉は塩を混入しないとグルテンができないからね。いっぽう米粉は塩は関係なくタピオカ粉みたいなグルテンの粉を入れてるから気にすんなってことか。
 標準的なカオピヤッのスープは、豚の三枚肉の下の部位に軟骨だらけの肉のところがあるでしょ。あれを使う。北海道と北東北の一部でだけ流通してる「パイカ」って肉ね。あれを使う。全国的には挽肉にされちゃうことが多いのではないか。額の肉なども旨いが、やはり脂が多いので挽肉にしちゃうでしょ。ググってみて初めて知ったんだが、パイカの語源は「排骨」なんだね。
 それとアバラのスペアリブがあれば、それも骨ごと入れちゃう。もしくは豚骨。豚骨を割って骨髄を煮る。これをくたくたに煮ると、トロミが出る。昔の接着剤の「にかわ」って、動物の骨や腱を煮た液を煮詰めて水分を飛ばしたものでしょ。正体はゼラチンだ。健康食品のコラーゲンなんてゼラチンの粉だよね。あれが美容に良いというのは、ゼラチンもアミノ酸だから、あれを食うと消化されてコラーゲンになることもあるので、インチキと否定はできない程度の根拠だから、鶏肉食べても、そう変わらないんじゃないか。コラーゲンを食って身体のコラーゲンが増えるかどうかってのは、髪の毛が薄くなってきたから髪の毛を粉にして飲んでみたら、回り回って多少は髪の毛になるかもね、って話みたいなもんじゃないのかなと思う。コンドロイチンとかグルコサミンもそうだろう。インチキとは言わないが、インチキ臭い。
 まあいいや。トロミのついたスープができるという話だった。そのスープに揚げニンニクと、その揚げ油。味付けはナンプラー。
 で、米粉の麺は、打っておいた生麺を、そのままスープに投入して茹でるというスタイルが多い。打ち粉も溶け出して、さらにトロミがつく。店によってはスープには直接入れずに、別に湧かした湯で麺を茹でこぼすところもあって、そっちはトロミが少ない。どっちが良いかって、そりゃもう好みの問題なんだけど、どっちも旨い。
 ヴィエンティアンに行ったときに必ず行く店があって、毎日行くものだから、すっかり顔も覚えられてるんだけど、毎日行ってて、毎日同じ物を頼んでるのに、毎日値段が違う。
 要はボラれてるってことなんだろうけど、「まあ、そんなもんだよな」って値段なの。どうかすると、「え。そんなに安いの?」ってこともある。
 でも、毎朝食べ終えたあとに「いくら?」って訊くと、おれの目をバシッと見て「◎◎キップだよ」って自信満々に答える。あれ、毎日値段が違うことに気がついてないってことはないと思うんだ。もう確信を持って毎日値段が違う。
กับข้าวกับปลาโอ 252 : ก๋วยจั๊บญวณ(ข้าวเปียก) น้ำซุปกลมกล่อม เส้นนุ่ม เครื่องแน่น
 値段が毎回違うといえば、タイの美容室で散髪してもらっての値段も毎回違うもののひとつだ。結婚するまえの美容室は、いくつかの店に通ったが、どの店もゲイの美容師が切ってくれて、やはり全部の店で、毎回値段が違ってた。びっくりするほどは変わらないし、まあ良いんだけど、いまひとつ納得いかない。
 で、結婚すると、夫婦で一緒に美容室に行くようになるんだが、「タイ人と一緒なら、値段が毎回違うってことはなくなるんだろうな」と思った。うちの奥さんは若い頃から経理職で、外食でも注文書と請求書をざっと見比べて「ここ、間違ってます」と指摘するのが早い。ところでタイの店が計算を間違うときは、必ず多く間違えるんだが、故意なんだろうか。まあ故意だろうな。
 ところが、美容院での散髪は、タイ人と一緒に行っても、やはり毎回値段が違うのだった。そのことを言うと、うちの奥さんは「ช่วยไม่ได้(チュアイマイダイ)」と言う。直訳だと「助けられない」だが、「しょうがないのよ」くらいの意味で、そういうものだからツッコまないでちょうだい、ということだ。毎回違ってあたりまえなのだ。何でだ、と訊いたことはないが、もし訊いても「だって、毎回髪の伸び方が違ってて、だから値段も変わるのよ」くらいの屁理屈は、すかさず繰り出してくるのがタイ人で、インド人ほどではないが口喧嘩で勝ち目はない。ガソリン価格みたいに頻繁に変動するものだと思うよりない。
 まあ、そう思えばラオスのカオピヤッも毎日の仕入れ値が変動するだろうし、そもそも、その理由が切実に知りたいわけでもない。
 昔、バンコクに住んで半年程の頃、とつぜん電話が通じなくなって、「なんで?」と訊いたら、「雨が降ったから」という答が返ってきて、なにそれ、って言おうと思ったら、周りのタイ人たちが「あー。雨かぁ。それじゃ、しょうがない」と納得してて、おれひとりが、ぽかん、と取り残されてしまったんだが、その時は半月くらい電話が不通になった。さすがに最近では、そういうことはない。が、ともあれ、いろいろあるのだ。

 美容室の話だった。まえにも書いたような気がするが、手に職のない田舎者がバンコクに出てきて、まず就く職業で過酷な肉体労働も黒社会的なのもイヤ、という人は男だとยาม(ヤム - 警備員)、女性もしくはゲイだと美容師と、昔から相場が決まっていて、だから知らない美容室に飛び込むと、見たこともない斬新な髪型にされてしまうことがある。タイ人だと、「あの店はダメ」と、ヘンな噂をたてられたり、もう二度と来ないことが予想されるので、そういう新入りは洗髪専門だったり見習いなんだが、客がガイジンだと、言葉もつうじなくてメンド臭いし、もう来て欲しくないから、新人の練習台にされてしまうことが縷々ある。散髪と言うより、チェーンソーの彫刻みたいになっちゃったりする。そんなもんで、美容室で腕の良いのは店にひとりかふたりってのが通常で、あとの人員はコロコロ出入りが激しい。そんなだから、職業的な誇りを持つ者も少ないのか、バンコクでは結婚式のケーキ入刀をバリカンやハサミで行う美容師の話を聞いたことがない。てか、どこの国でも、そんな奴はいないか。
ยาม - ลาบานูน (LABANOON)
 ยาม(ヤム – 警備員)という曲で、ラバヌーンというバンドだ。ラバヌーンってタイ語が文字から考えても何の派生語かまったくわからなかったんだが、それもそのはずで、アラビア語で「新鮮な牛乳」って意味なんだそうだ。それをタイ文字表記しただけ。
 なんでアラビア語なんだよ、と思ったら、この3人はタイでも珍しいムスリムで、信徒はタイ国民の3%くらいだった筈。タイ南部に多い。マレーが近いからね。
 で、メンバーの3人は、โรงเรียนอิสลามวิทยาลัยแห่งประเทศไทย(タイ・イスラム大学)在学中に結成。ホット・ウェイヴ主催のコンクールのファイナリストとなって1998年デビュー。太鼓とベース、ギターの3人で、「味のない牛乳」みたいにシンプルだから、それをグループの名にしたとのこと。2006年から2009年まで休止期間はあったものの、今も活動中。
 この曲もムスリム音楽の影響があって、所謂オリエンタルスケールが鏤められている。ここのは、マカーム・ナワサルって旋法だと思う。このマカームにも種類があって、もっと暗いので、マカーム・サバってのがあったりで、中東音楽は詳しくないんだが、西洋音楽でいう教会旋法(チャーチモード)に当てはまらないので、ジャズ者がモード手法で処理しようとしてもできない。だいたいモード手法と違って中東音楽は1曲の中になん種類ものマカームが詰め込まれてもよく、自由すぎる。インド音楽のラーガも旋法を上昇するときと下降するときでは音階が違うとか、ちょっと憶えきれないルールがあったりするが、中東音楽も、かなり面倒だ。
 とりあえず例に出したマカーム・ナワサルってのはオクターブ中に4つの半音が入っていて、あ。いや。この言い方は誤解を招くな。教会旋法でも4つ半音が入る旋法はある。ただ、その配置が教会旋法とは異なるので、しばらく練習しなくてはいけない。練習すれば、ある程度はいける。
←マカーム・ナワサル
 ただ、ムスリム音楽も12平均律ではない微分音がいくつもあり、トルコ音楽なんて53平均律に近いとされているが、そんなのも西洋音楽をモノサシにして考えたからそうなるんで、オクターブを幾つに分けたかなんてことに意味があるのかどうか。中東音楽は古くから17平均律といわれたりしているが、これも微分音をどう考えるかの問題で、そんなことを言い出せばブルーズのブルーノートや、演歌の感極まったときの音程の上ずりなんて、厳密に言えば微分音なわけで、人や気分によって音のハズレ方が変わるから、「森進一は41平均律である」とか言われても、なんかメンド臭いだけだ。「B・B・キングは19平均律でいける」とか、そういうことじゃないだろう。ポイントは。

 ムスリムテイストだから、いまいち大きなヒットには恵まれないが、こういうのもあるんだって思い出した。
 そういえばタイのムスリムはムスリム音楽を聴いているという印象がない。ウードやカヌーンなんてタイでは見たことがない。中国のウイグルあたりじゃ近いのがあるのにね。モスクに行くと、どこの国でも日に数度アザーンってのを歌うのが慣わしだから、タイでも聴けるはずだ。
أول أذان خاشع للشبل علي عبدالسلام بجوار الحرم المكي
 さて、歌詞だ。

空を見つめて
寂しい夜でも
あくびを 堪える
あなたと一緒にいたい
でも私は 塀の外 ハハハハ
心はいつも 落ち着いてるよ
愛だけ あなただけ
いつわかるのだろう

夜遅く 彼女は甘い夢を見ているに違いない
誰の夢を見ているかは 知らないが
夜遅く 彼女は考えるだろう
好きな人はいますか?
聞いてみたい
いい言葉 いい言葉
愛してるとは 訊いていない まだ訊いてない
とにかく 今は寝なきゃ
愛してるとは 訊いてない
護衛を頼まれているだけ

毎日 朝まで起きている
彼女の家を 見守って
塀の外だけどね ハハハハ
心はいつだって 落ち着いているさ
愛だけ あなただけ
いつわかるのだろう

夜遅く 彼女は甘い夢を見ているに違いない
誰だか知らぬ人の夢を
夜遅く あなたは考える
今のは何の物音? 待っているのは誰?
聞きたいだけ
いい言葉 いい言葉
愛してるとは 訊いてない
まだ訊いてない
とにかく 今は寝なきゃ

愛してるとは聞いてない
護衛頼むわ
毎日朝までいる
愛してるとは 訊いてない
まだ訊いてない
とにかく 今は寝なきゃ

毎日 朝までいる
彼女の家を見守って
毎晩寂しくても
私は あなたへの気持ちを持ち続ける
たとえ毎晩でも
私はいつも 待っている
あなたが 私を愛してくれることを 願って

 控えめなストーカーだね。歌詞にムスリム要素はない。
 うちの奥さんは、この曲を聴いて「ムスリムの人に好かれるなんて、死んでもイヤ(ไม่ไหวจะตาย)」と言って身震いした。ひでぇ差別だ。
「ไม่เข้าใจกัน(わかり合えないんだね)」と言うと、そうねぇ……と頷いた。
 うちの奥さんはインテリだから、人種の差別がキライなのだ。
 まあ、だいたいのタイ人はเกลียดการเหยียดเชื้อชาติ ตะวันออกกลาง และแขก(人種差別と中東人とインド人が嫌い)なんだよね。うちの奥さんも例外ではないようだ。
 ていうか、タイ人が好きな外国人種って、あるんだろうか。なんか全方面の外国人が嫌いかもしれない。日本の文化やアメリカ文化、欧州の文化も好きだが、そこの国に暮らす人々は好きではない。わかり合えるのはタイ人同士なのかと思ったら、タイ人同士でも、わかり合うのは難しいと思っているようで、タイ人の自由って、ここから来ているものではないかと思うことがよくある。ちょっと見たことのない孤独を、個人が抱えている。
 きっかけは滿人に押し出されるように長江流域から逃げたのが始まりとしても、2000年に亘って、ここではないどこかを目指して逃げ続けた人々の系譜だもんなぁ。皆で同じ方角を目指してはいても、気持ちがバラバラだ。家族であっても信用できないから、ことさら親を尊敬しようと務める。タイ人ってフレンドリーなんだけどね。心に壁がある。その壁は、綿飴みたいに柔らかくて、時として甘くもあるんだけど、越えることは至難の業だ。たとえ親子でも越えられないタイ人が多い。人を信用することのハードルが高いから、敵意は見せない。フレンドリーなわけだ。

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