こばさん

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『1988年10・19の真実』

2006-06-19 21:27:16 | 野球好き
今日は会社の同僚が貸してくれた本をご紹介。

1988年10・19の真実―「近鉄‐ロッテ」川崎球場が燃えた日

光文社

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「10.15」と並び称される(と言うより、はるかに有名な)試合、「10.19」。近鉄対ロッテ、伝説のダブルヘッダー。逆転優勝を目指す近鉄にとって、負けはおろか引き分けさえ許されない最後の2試合。その試合を、応援団長をしていた筆者が、現場で見ていたファンの目から書き綴った回顧録。ん?何かに似ている。

1988年10月19日、今から18年前。この日のことは今でも鮮明に記憶に残っている。当時18歳の予備校生。毎日4時に放送されていた大ファンの水谷豊の再放送ドラマを見るために家に帰って来てKBC(テレビ朝日系)をつけると、映し出されたのは川崎球場の模様。優勝を左右する一戦とはいえパ・リーグのテレビ中継などほとんどなかった当時。「この試合中継するんだ」と少なからず感心した。掛布が引退して1週間。野球なんかどうでもいいやと思い始めていた頃。しかし見るにつれてどんどん引き込まれていった。

同点で迎えた9回表。延長がない第1試合ではここで点を取らなければ近鉄の優勝は消える。その崖っぷちでつかんだ1アウト二塁のチャンス。鈴木貴久の打球はライトへ。二塁走者の佐藤は三塁を回るもののライトから好返球がかえってきて、三本間に挟まれてタッチアウト。顔を泥まみれにしながら呆然と座り込む佐藤。2アウトとなり絶体絶命。続くバッター、代打・梨田。ふらふらっと上がった打球がセンター前にポトリ。二塁から猛然とホームに突っ込んできた鈴木が、タッチをかいくぐってベースタッチ。セーフ!ベンチから飛び出してきた中西コーチと鈴木が抱き合い転げまわる。野球を見て初めて奇跡を感じた瞬間だった。

この日は何かと大変な日で、昭和天皇が倒れてからちょうど1ヶ月。リクルート事件で東京地検が捜査に動いた日。そして最も驚かされたのが、阪急ブレーブスのオリエントリース(現オリックス)への譲渡。そんなニュースを挟みながら開始された第2試合。しかしこの試合、当初はテレビ中継の予定はなかった。

我が家ではいつものように父と息子が大喧嘩。時間は9時過ぎ。言い争いが一通り済み、憮然としながらテレビをつけてみると、第2試合を放送中。「スポンサーのご好意により」、通常番組を中止。CMなしで生中継。10時を過ぎ、中継はそのままニュースステーションにも食い込んだ。

手に汗握る試合とはまさにこのこと。取ったら取り返す白熱した好ゲーム。しかし近鉄は3対3で迎えた8回表、ブライアントのホームランでロッテを突き放す。その裏からエース阿波野を投入。これでもう勝ったと思ったとき、落とし穴が待っていた。高沢にホームランを打たれて同点。試合は一瞬にして振り出しに。

「4時間を超えて新しいイニングに入らない」という規定があった当時のパ・リーグ。その4時間を前にした10回表、1アウトランナー一塁。羽田が打った打球はセカンド正面。セカンドベースを踏み、遠慮がちにファーストに送球。3アウト。その瞬間、崩れ落ちる近鉄ナイン。その中で一人冷静沈着だった仰木監督。選手交代を告げるためにベンチから出てきたときの颯爽とした姿。今でも目に焼きついている。

この試合のことで一番悔しいと思ったのは、この年に大学に受かっていれば生で見ることができていたことだった。こんな試合を見てみたい、こんな試合を見たらどういう思いがするのだろう・・・この次の年のブライアントの4連発もそうなのだが、こういう歴史的な試合に立ち会える人たちがとてもうらやましかった。

こんな試合を見てみたいという夢は、17年後についに叶えられた。想像以上の興奮、感動、涙。そして思うのが、そのときの感動をその場にいなかった人たちにも伝えたいということ。この本を通して、10.19の感動は十分に伝わってきた。「10.15の奇跡」はどうか?

鈴木貴久の早すぎる死、そして仰木監督。10.19が遠くになりつつある中で、しかしこの試合に出場し今なお現役で活躍している選手が一人だけいる。オリックス吉井理人(当時近鉄の抑え)。投げる伝説。彼が引退するまで10.19の精神は生き続ける。


ちなみに、ヤフーで「10.19」を検索すると2,280,000,000件がヒット。対して「10.15」を検索すると2,900,000,000件がヒット。これに「奇跡」を加えて検索すると、2番目にこのブログが出てきます。



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