かってサミュエル・ベケットは、どこでもない場所といつでもない時で「ゴドー」という誰でもない人物の出現を待つ戯曲を書きました。
これが書かれた戯曲である限りにおいては、情景や登場人物のしぐさを描写するのには適した方法と言って良いでしょう。
しかし、この戯曲が舞台上やその他の空間で実際に役者により演じられると、それはたちまち「どこでもない場所といつでもない時」ではなくなってしまいます。
演じられる場所が舞台であっても路上であってもそこには空間が無ければならなくなる。
演じられる時間が劇には必要なので、実際はいつでもない時間などは存在しない。
そして、その空間では演じる役者があって初めて、劇としての意味を持たされるのである。
ベケットのこの戯曲は「不条理劇」と呼ばれている。ここで言う「不条理」とは二重の意味で不条理なのだろう。
一つは劇の設定が「どこでもない場所といつでもない時に誰でもない者」を待つことであるのは言うまでもない。
さらに「不条理」なのは、この劇のテーマが「不条理」だとしても、演じる者の身体は、必ず現存していなければならないからである。
そのため、現存するのかどうかなどわからない者を、現存する「身体」が演じなければならない、という二重性をこの劇ははじめから持たされている事になります。
逆説的な言い方をすれば無いものをいかにもあるように見せるマジックがそこには無ければならない事なのである。
言語で書かれたモノが現実性を帯びるように観客に提示されなければならないのである。
こんな面倒くさいことなど、考えるのをひとまず保留としておき、今度は「写真」について考えてみましょう。
その点で「写真」は極めて分かりやすい。
写真が対象とするものは現実の実体を必ず持たなければ、実現できません。
実際の場所に出掛け、実際の時刻の情景をカメラという道具で「切り取る」作業をするのが写真に与えられた仕事という事にあります。
これまで、「無」を写した写真家などはいません。
仮に今、真っ暗闇を写真に撮ったとしましょう。そこに写っているものは「暗闇」なので、実際にはそこにはモノがあるのだろうけれども、写っては呉れない訳です。
こんな「何も写っていない」写真を撮った写真家は、いないでしょう。
仮にそれを行った人がいても、その写真を見る人は「あれ、何も写っていないじゃないか」とつぶやくのが関の山でしょう。
言語による表現には、それを読んだりすることで読者の脳に刺激を与え、何かを想像させることが出来ますが、何も写っていない写真は見る人には何を想像させるのでしょうか?
こんないたずらをして見せたらどうなんでしょうか?などと妄想を膨らませているのです。
何せ、暇なもんですから。
<追記>
見えないものを見えるようにする技術について、少し触れておきます。
肉眼では見えないものを視覚化する技術が、現在では可能になっております。
それは放射線の一種であるX線を照射することで外部からは見えないものを見えるようにする技術、即ちレントゲン写真などです。
また、宇宙から降り注ぐ宇宙線の透過力を利用して、ピラミッド内部の空間構造を解明しようする試みも行われているようです。それを画像として記録すると、見えないものが視覚化されるわけです。
さらに、磁気探傷技術などもあります。肉眼では発見困難な微細な隙間や傷を視覚化出来る技術はあります。
また、赤外線カメラというものもあります。暗視スコープというものもあり、それでみた光景を記録できるようにはなっているようです。
赤外線カメラやサーモグラフィーカメラは、温度を視覚化できるカメラです。
これ等の技術は「見えないものを」見えるようにする技術と言えますが、一般には我々が言う所の「写真」ではありません。
これ等の技術が将来、身近になり手軽に画像として写すことが出来るようになれば、「写真」の概念は今とはまた違ったものになるのかも知れませんね。
これが書かれた戯曲である限りにおいては、情景や登場人物のしぐさを描写するのには適した方法と言って良いでしょう。
しかし、この戯曲が舞台上やその他の空間で実際に役者により演じられると、それはたちまち「どこでもない場所といつでもない時」ではなくなってしまいます。
演じられる場所が舞台であっても路上であってもそこには空間が無ければならなくなる。
演じられる時間が劇には必要なので、実際はいつでもない時間などは存在しない。
そして、その空間では演じる役者があって初めて、劇としての意味を持たされるのである。
ベケットのこの戯曲は「不条理劇」と呼ばれている。ここで言う「不条理」とは二重の意味で不条理なのだろう。
一つは劇の設定が「どこでもない場所といつでもない時に誰でもない者」を待つことであるのは言うまでもない。
さらに「不条理」なのは、この劇のテーマが「不条理」だとしても、演じる者の身体は、必ず現存していなければならないからである。
そのため、現存するのかどうかなどわからない者を、現存する「身体」が演じなければならない、という二重性をこの劇ははじめから持たされている事になります。
逆説的な言い方をすれば無いものをいかにもあるように見せるマジックがそこには無ければならない事なのである。
言語で書かれたモノが現実性を帯びるように観客に提示されなければならないのである。
こんな面倒くさいことなど、考えるのをひとまず保留としておき、今度は「写真」について考えてみましょう。
その点で「写真」は極めて分かりやすい。
写真が対象とするものは現実の実体を必ず持たなければ、実現できません。
実際の場所に出掛け、実際の時刻の情景をカメラという道具で「切り取る」作業をするのが写真に与えられた仕事という事にあります。
これまで、「無」を写した写真家などはいません。
仮に今、真っ暗闇を写真に撮ったとしましょう。そこに写っているものは「暗闇」なので、実際にはそこにはモノがあるのだろうけれども、写っては呉れない訳です。
こんな「何も写っていない」写真を撮った写真家は、いないでしょう。
仮にそれを行った人がいても、その写真を見る人は「あれ、何も写っていないじゃないか」とつぶやくのが関の山でしょう。
言語による表現には、それを読んだりすることで読者の脳に刺激を与え、何かを想像させることが出来ますが、何も写っていない写真は見る人には何を想像させるのでしょうか?
こんないたずらをして見せたらどうなんでしょうか?などと妄想を膨らませているのです。
何せ、暇なもんですから。
<追記>
見えないものを見えるようにする技術について、少し触れておきます。
肉眼では見えないものを視覚化する技術が、現在では可能になっております。
それは放射線の一種であるX線を照射することで外部からは見えないものを見えるようにする技術、即ちレントゲン写真などです。
また、宇宙から降り注ぐ宇宙線の透過力を利用して、ピラミッド内部の空間構造を解明しようする試みも行われているようです。それを画像として記録すると、見えないものが視覚化されるわけです。
さらに、磁気探傷技術などもあります。肉眼では発見困難な微細な隙間や傷を視覚化出来る技術はあります。
また、赤外線カメラというものもあります。暗視スコープというものもあり、それでみた光景を記録できるようにはなっているようです。
赤外線カメラやサーモグラフィーカメラは、温度を視覚化できるカメラです。
これ等の技術は「見えないものを」見えるようにする技術と言えますが、一般には我々が言う所の「写真」ではありません。
これ等の技術が将来、身近になり手軽に画像として写すことが出来るようになれば、「写真」の概念は今とはまた違ったものになるのかも知れませんね。
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