ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

わたくしは『不戦の誓い』をしない。

2019年08月16日 14時27分56秒 | ことば
昨日は74年前に日本がポツダム宣言を受諾しそれが昭和天皇により国民に告知された日でした。この日を終戦記念日と言っております。これによりいまの日本の社会の基本的な構造が形作られました。
この日を記念して各地で「終戦記念」の式典が行われました。そのような場で言われる言葉に「不戦の誓いをあらたにする」があります。
「不戦の誓い」とは「決してあのような悲惨な戦争は行わない」と意思を表明することだと理解できます。ここで言われる「誓い」とは具体的には何を言ってるのでしょうか。
国家は自国の国民に戦争協力をするように求めるのが普通です。それは近代の戦争が国家間の総力戦だからです。戦闘に従事するのは兵士ですが、そのほかにも社会のあらゆる場所で戦争遂行を支える生産力が必要になります。
そんな時、国民は 家庭にある鍋釜などの金属類を供出したり寺院では釣鐘を差し出したりしました。この金属類は兵器の製造材料として使われるのは言うまでもありません。またこんな例もありました。戦争遂行には巨額の財源が必要になります。そのため政府は戦時公債を発行して資金調達をはかりそれを国民が購入することが推奨されました。また一般の国民 の消費物資は配給の制度により流通されました。このように 戦時には平時とは異なった経済の仕組みがとられることがあります。国民は戦時にはそのように国家の政策に従うことが要求されました。

ここで『不戦の誓い」に戻りましょう。不戦の誓いが「 国家の戦争政策に協力しない事」を含むとすれば、家庭の金属類の供出や配給制度に従わないことになります。
当時そのような国家の政策に従う事を良しとしない国民は「非国民」と言われ「村八分」にされ周囲から白い目で目られた事でしょう。そのような「非国民」は日常生活でも食料の確保などで不自由さを強いられたこともあっただろうと想像できます。

わたくしは自分ひとりの意思でそのような境遇に自分の家族を置いてしまう事がはたしてできるのかを自問します。
それ故、わたくしは「不戦の誓い」をしないのです。自分が出来ると確信しない言葉は吐けないのです。


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