ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

「変化」はなぜ生じるのか?

2018年03月29日 10時10分06秒 | なぜ?どうして?
私たちの身の回りでは、自分たちが気がつかないようで居ながら、たえず「変化」をしていると考えることが出来ます。
例えば株価や為替の変動です。

一日の「変化」がそれほどでもないのに、数年たつとかなりの変化になっている事があります。
数年、いやもっと短い期間で変化が急激に起きることを「〇〇革命」などと言っております。
これは何も社会体制の変化にとどまらず、様々な分野での急激な進歩を「〇〇革命」と言っているのです。
技術の革新的な発明により産業の在り方がそれまでとは大きく変化したことを「産業革命」と言っております。
英国での蒸気機関の発明や、それに基ずく生産工程の大きな変化などです。

さて、『種の起源』を書いたチャールズ・ダーウィンは自然界での生物の変化の過程を、「自然選択説(自然淘汰説と同義)」で説明しました。
自然界での種は、自らの生存に適しない部分を変化させて、自然条件の中で種の保存に適するように、自らを変化させてきたという考え方です。

このような考えを「進化論」と言い、それをを学校で教わった事があると思います。
この考え方を社会の変化に適用した考え方を「社会進化論」と呼んでいます。
地球上のあらゆる生物は、自らの種を保存するために環境に応じた変化を遂げてきているとする考えは、人間社会の歴史の中にも当てはまるとする考えが「社会進化論」です。

日本の歴史で言えば「荘園領主」に雇われ彼らをを警護する役目を担っていた武士が、独自の権力を持つようになっていきます。
武力を有する集団が、そこでの権力者に育っていったのです。
その後、武力を有した武士階層が権力を掌握するようになっていったのです。

この歴史は西洋でもアジアでもほぼ同じ道筋をたどりました。
ヨーロッパではその後、商工業者の集団が大きな社会勢力となっていきます。そして、それらの勢力(ブルジョアジー)が封建領主の存在を脅かすまでに経済力を持つようになると、彼らは自分たちが社会での主役でなければならないと、考えるようになっていったのです。
これが、世にいう「ブルジョア革命」と言われるものです。別の言葉で言えば「市民革命」です。

この社会の変化は同時に統治の方法として「代議制」をとることになります。
自分たちの階層の中から代表者を選び出して、それらの人々に実際の統治をゆだねて、各個人は自分の職分に励むという仕組みです。
統治の具体的な作業、例えば税金をいつどのように徴収するかとか、その税収入の使い道を何に向けると、共同体の利益にかなうのかとかの専門家が必要になってきます。
立法や行政にたずさわる専門家が必要になるのです。
それが議会や行政の機関として、確立されるようになっていくのです。

こうした社会の在り方の変化が、あたかも自然に於ける動植物の「進化」と同じように進んでゆくのだ、と考えるのが「社会進化論」です。
社会にも生物と同じような「進化の必然性」があるとする考え方なのです。
この考え方は一見すると合理的で、理にかなっているように見えます。
人間社会での統治の仕組みが「進化の必然性」により説明されていったことがありました。
マルクス主義の「階級論」などが代表的な例として、挙げられます。

さて、ここで私たちが考えおかなければならないのは、人間社会での変化は「必然的」に起きるのか?、という事です。
人の活動は、ほぼすべての領域において必ず「ヒトの脳の働き」により実現されるという事です。
言葉を変えれば人の行動と思惟は必ず「ヒトの脳を通じて」行われる、という事です。
「ヒトの脳を通じて」行われるには、「必然性」はあるのでしょうか?
ヒトの集まりを集団と考えれば、そこでの行動にはいくつかの行動パターンがあるとする研究もあります。
ですが、「個人対個人」あるいは「個人対集団」の場合は、少し話が違ってきます。

同じ意思を持っている(とお互いが思っている)男女間でおける「失恋」が起きることがありますね。
ここでは「意思のすれ違い」が起きてると考えられます。当人同士はそれを「お互いの理解が足りなかった」などと言っています。

今仮に「恋愛学」や「失恋学」という学問領域があると仮定しましょうか。この領域では「人間理解学」は実は古代、中世から、何も進歩はしておりません。
「源氏物語」の世界での男女間の思惟の働きは、21世紀の今でもほとんど変わっていないと思われます。

「恋愛」の「男女間での思惟のすれ違い」という「不安定な思惟の状態」が何によっているのでしょうか?
そこには「不理解」や「錯誤」があると考えてみましょう。「不理解」や「錯誤」が「失恋」をもたらす原因と考えるのが一般的です。
ですが、理解が無くても「同調」することが人間には出来るのです。これを「一目ぼれ」と呼んでいます。
「理解」が始まる前から「惚れて」しまうことだってありうることです。
ですが、その結果がいつもハッピーであるとは、限りません。数か月や数年の間に理解が進んでゆき、「あれえ、こんなはずじゃなかった」と後悔することだってあるかもしれません。

このように「変化」はある日突然に現れて来ます。
株価の変動が急激に起きる事より、恋人の「心変わり」は当人にとっては大きな問題になりますね。


ある事が何故起きるのかを論理的に考えるのが、科学の役目ですが、こと男女間の愛情問題は「科学」では解決できませんね。

さて、「動物行動学」という学問領域があるそうです。
その学問領域でも、おそらく男女間の「愛情問題」を解明することは難しいでしょうね。

「動物行動学」の領域に関する書籍をかって、読んだことがあります。
その書籍の名は「なぜクジャクの雄は、美しい?」という本です。
著者の名前は長谷川真理子さんと言います。
この本では「人の世界」での雌雄の関係にも触れられておりました。
そこでの考え方を、少し紹介してみましょう。

<雄のクジャクの尾羽が立派なことと、雌のクジャクが眼玉模様の多い尾羽の雄を好むことは、両方とも遺伝的に決定されていることとして、進化生物学的に分析してきましたが、人間の場合、多くの行動は文化的なもので、遺伝的に決まっているという証拠はありません。>

そして、また次のようにも著者は述べています。
<人類学者レヴィ・ストロースによる「婚姻体系とは、男の血縁集団同士が、彼らの間で女性を交換する取り決めである」ということばでした。つまり人間社会の多くでは、配偶者の決定にあたって当の女性に選り好みの権利はなく、その決定権は、その女性の親族男性たちの手中にあるのだという事なのです。(中略)歴史的、地理的に見た多くの人間社会で、女性が自らの魅力を増すために多大の時間とエネルギーをかけて行う事の多くは、女性をなるべく若く見せ、繁殖力が大きいことを強調し、しかも男性に従順でコントロールしやすい性格であることを強調するものであるように思います>

ここで著者が述べたい事ことを自分なりに読み取ると、次のように言う事が出来ます。
人間社会での「雌雄の選択」は動物でのそれとは違って、社会的、文化的な何らかの「取り決めの結果がそれをもたらしてきている」と理解することが出来ます。

人間社会での「配偶者選び」にはやはり雄の方に決定権があると見ることが出来ます。

さて、「変化はなぜ起きるのか?」が「人間社会での配偶者選び」の話題になってしまいましたが、ここで本題に立ち返りたいと思います。

人間社会での変化は、「男女の婚姻」を例にとるまでもなく、「ヒトの思惟の発揮」によってもたらされる事は分かりますね。文化の中に「人間社会の変化の要因」はあるのです。
「社会の変化」は「ヒトの思惟の変化」によってのみもたらされると思います。
これが動植物の進化と異なっている大きな要因と考えることが出来ます。

これから先の人たちはどのような「文化」を創ってゆくのでしょうか?












 







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